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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 オハイの公開講話(第9回)

J. Krishnamurti Ojai 9th Public Talk 13th August 1949

今晩、私は質問に答えるだけにし、いつもの前置きの講話はしないようにしようと思います。しかし答える前に、これらの質問と答えに関する一二のことを指摘したいと思います。

まず最初に、私たちの大抵は非常に信じる傾向があります。心は、私たちを説得して、違って考えるように、新しい観点を採用するように、基本的に本当ではないことを信じるようにさせるのが非常にたくみです。さて、これらの質問に答えるなかで、私はあなたを私の特定の線にそって考えるように説得してるのではないという事を言いたいのです。私たちは正しい答えを一緒に見出そうとしているのです。私はあなたが単に受け入れるか否定するように答えているのではありません。私たちは本当のことを一緒に見出そうとしているのです。そしてそれは開かれた心、聡明な心、尋ねている心、油断なく気を配っている心を要します。非常に偏見があるので単に否定するだけとか、非常に熱心なので受け入れるという心ではなく。そしてこれらの質問に答えるなかで、一つの基本的なことが心に生まれなければなりません。それはそれらが単に私たち自身の考え方の反映であり、私たちが何を考えているかを私たちに暴露するに過ぎないということです。それらは私たちが私たち自身をその中に知覚する鏡として作用しなければなりません。結局、これらの討論、これらの講話はただ一つの目的を持っており、それは自己認識の追求です。というのは、言ったように、真実を知ることができるのは、まず、私たち自身を知ることの中にのみあるからです―深く、広く、表面的にではなく。そして私たち自身を表面的ではなく、深く知ることはきわめて困難です。それは時間の問題ではなく、強烈さの問題です。重要なのは直接の知覚と経験です。これらの討論と集会はそれに向けられているのです。その結果、私たち一人一人が何であれ討論されていることを直接に経験できるように。単にそれを言葉のレベルで理解するに過ぎないのではなく。私たち一人一人が真実を見出さなければならない、私たち一人一人が師であり弟子でなければならないということを、心に留めておくことが重要です。そしてそれは、私からの保証や否定の単なる受容ではなく、大きな謙虚を必要とします。

それゆえ、私がこれらの質問に答えるとき、どうぞこのことすべてを心に留めておいてください。なぜなら、私たちは皆数え切れないほどの問題を持っているからです。生は非常に愉快な、あるいは単純な問題ではありません。それは非常に複雑です。そして私たちがそれを理解できるのは、全体の、総体の過程を理解するときだけです。そして全体の過程は外側にではなく、私たちの中にあります。したがって、私たち自身を理解することが重要です。そのとき私たちは、毎日直面する物事を、絶え間なく私たちに作用する影響を処理することができます。

質問: 噂話は自己啓示に、特に、私に対し他人を暴露することに価値があります。まじめに、あるがままのものを発見する手段として「噂話」を用いないのはなぜですか? 私は「噂話」という言葉に、それが長年非難されてきたというだけでびくつきはしません。

クリシュナムルティ: 私たちはなぜ噂話をするのかなと思います。それが他の人たちを私たちに暴露するからではなく。そしてなぜ他の人たちが私たちに暴露されなければならないのでしょうか? なぜあなたは他の人たちを知りたいのでしょうか? なぜ、他の人たちについてのこの途方もない関心? まず最初に、あなた、なぜ私たちは噂話をするのでしょうか? それは落ち着きのないことの一つの形ではないでしょうか? それは心配のように落ち着きのない心のしるしです。そしてなぜ、他人に干渉しよう、他人が何をしているか、言っているかを知ろうというこの欲望? 噂話をするのは非常に浅薄な心ではないでしょうか? 間違って向けられた詮索好きな心。質問者は、他人に―他人のすること、思考、意見に―関わることによって、他人が暴露されると思っているように思われます。しかし、私たちが私たち自身を知らないなら、私たちは他人を知るでしょうか? 私たち自身の考え方、行動の仕方、振舞い方を知らないなら、私たちは他人を判断できるでしょうか? そしてなぜこの途方もない他人への関心? それは、本当は、逃避ではないでしょうか、何を他人が考え、感じ、噂話をしているかを見出そうというこの欲望は? それは私たち自身からの逃避を提供しないでしょうか? そしてまた、その中に他人の生に干渉しようという欲望がないでしょうか? 私たち自身の生が、他人を相手にし他人に干渉することなしに、充分困難で、充分複雑で、充分苦しくないですか? 他人のことをそのうわさ好きの、むごい、醜いやり方で思う時間がありますか? なぜ私たちはこうするのでしょうか? ほら、あらゆる人がそれをします。実際にはあらゆる人が他の誰かの噂話をしています。なぜ?

私は思うのですが、まず第一に、私たちは、私たち自身の考える過程と私たち自身の行為の過程に十分な関心を持っていないので、他人について噂話をするのです。私たちは他人がしていることを知りたいのです。そして多分、思いやり深く言えば、他の人たちを模倣したいのです。一般に私たちが噂話をするとき、それは他人を非難することです。しかしそれを寛大に拡大解釈するなら、それは多分、他人を模倣することなのです。なぜ他人を模倣したいのでしょうか? それはすべて私たち自身の側の途方もない浅薄さを示していないでしょうか? それは興奮を望み、それを得るためにそれ自身の外側に向かう途方もなく鈍い心です。言い換えると、噂話は私たちが耽る感情の一つの形ではないでしょうか? それは違った種類の感情かもしれませんが、常に興奮を、気晴らしを見出そうというこの欲望があります。それで、この問題に深く本当に入っていくなら、人は自分自身に戻ります。それは自分が実際に途方もなく浅薄であり、他人について話すことによって、外部から興奮を求めているということを示します。誰かについて噂話をしている次の時、踏みとどまって御覧なさい。そしてそれに気づくなら、それはあなたにあなた自身について驚くほど多くのことを示すでしょう。あなたが単に他人について詮索好きであるに過ぎないと言うことで、それを覆い隠さないでください。それは落ち着きのなさ、興奮の感覚、浅薄さ、噂話とは何のかかわりもない人々に対する、真の、深い関心の欠如を示します。

さて、次の問題はどうやって噂話をやめるかです。それが次の問題ではないでしょうか? あなたが噂話をしていることに気づくとき、どうやって噂話をするのをやめますか? それが習慣に、来る日も来る日も続く醜いことになったなら、どうやってそれをやめますか? その質問が起きますか? あなたが噂話をしているのを知るとき、噂話をしていることに気づく、その含みのすべてに気づくとき、あなたはそのとき「どうやって私はそれを止めたらいいか?」と自分自身に言うでしょうか? あなたが噂話をしていることに気づくやいなや、それはひとりでに止まないでしょうか? 「どうやって」はまったく起こりません。

「どうやって」はあなたが気づかないときのみ生じます。そして、確かに、噂話は気づきの欠如を示しています。これをあなた自身で、次に噂話をしているときに実験してください。そしてあなたが話していることに気づくとき、舌があなたと共に暴走していることに気づくとき、いかに素早く、いかに即座に噂話をするのをあなたが止めるか見てください。それを止めるには意志の行為を要しません。必要なすべては気づくこと、言っていることを意識すること、そしてその含みを見ることです。噂話を非難したり、正当化する必要はありません。それに気づいてください。するとあなたは、いかに素早く噂話をやめるかを見るでしょう。なぜならそれは自分自身に、自分自身の行為の仕方、自分の振る舞い、思考パターンを暴露するからです。そしてその暴露の中で、人は自分自身を発見します。それは他の人たちについて、彼らが何をしているか、何を考えているか、いかに振舞うかについて噂話をすることよりはるかに重要です。

私たちの多くは日刊新聞を読み、噂話、全世界の噂話で一杯にされます。それはすべて私たち自身からの、私たち自身の取るに足らなさからの、私たち自身の醜さからの逃避です。世界の出来事への表面的興味を通して、私たちはますます賢くなり、私たち自身の生を扱うことがよりよくできると思うのです。これらすべては、確かに、私たち自身から逃避するやり方ではないでしょうか? なぜなら、私たち自身の中で、私たちはそんなにも空虚で、浅薄であるからです。そんなにも私たち自身におびえているからです。私たちは私たち自身の中で非常に貧しいので、噂話はある形の豊かな娯楽、私たち自身からの逃避として作用します。私たちは私たちの中のその空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で―無数のやり方の逃避で充たそうとします。それゆえ、逃避が最重要になります。あるがままのものの理解ではなく。あるがままのものを理解することは注意を必要とします。自分が空虚であるということ、自分が苦しんでいるということを知るには巨大な注意を要します。逃避ではなく。しかし私たちの大抵はこれらの逃避を好みます。なぜなら、それらはずっと快適で、ずっと楽しいからです。また、ありのままに私たち自身を知るとき、私たち自身を取り扱うことは非常に困難です。そしてそれは私たちが直面させられる問題の一つです。私たちはどうしたらよいか知らないのです。私が空虚であるということ、私が苦しんでいるということ、私が苦痛の中にあるということを知るとき、私はどうすればいいのか、それをどう取り扱えばいいのか知りません。そこで私たちはあらゆる種類の逃避に助けを求めるのです。

それゆえ、問題はこうです。どうしたらいいでしょうか? もちろん、明らかに逃避することはできません。というのは、それはもっともばかげていて子供じみているからです。しかしあるがままのあなた自身に向き合うとき、あなたはどうしたらいいでしょうか? 第一に、それを否定したり正当化したりしないでただ、あなたがそうであるままに、それと留まることができるでしょうか?―それは極度に困難です。なぜなら心は説明、非難、正当化を捜し求めるからです。心がそれらの事を何もしないでそれと留まるなら、そのとき、それはそれを受け入れることに似ています。私が褐色であることを受け入れるなら、それがその終わりです。しかしより明るい色に変わることを望むなら、そのとき問題が生じます。それゆえ、あるがままのものを受け入れることはもっとも難しいのです。そして逃避がないときだけそれをすることができます。そして非難や正当化はある形の逃避です。それゆえ、なぜ噂話をするかの全過程を理解するとき、そして、そのばかげていること、冷酷さ、その中に含まれているあらゆる事を実感するとき、そのとき人は自分のあるがままと残されます。そして私たちはそれに、常に、それを破壊するか、他の何かに変えるために接近します。しかし、それらの事のどれもしないで、完全にそれと共にあリ、それを理解する意図を持って接近するなら、そのとき、それはもはや私たちが恐れていたものではないことを見出すでしょう。そのとき、いまあるものを変容させる可能性があるのです。

質問: 私たちは理想の収集を持っており、選択は広範囲にわたります。私たちは様々な方法を通じてそれらを実現しようとします。これは長い、時間のかかる道です。あなたの言うことを聞く中で、理想と実践の間の区別や隔たりは偽りのものだと私は感じます。これはそうでしょうか?

クリシュナムルティ: まず最初に、私たちは、めいめい、私たちが理想を持っているということに気づいているでしょうか。そしてこれらの理想を持って、それらを実践しよう、あるいはそれらに従って生きよう、あるいはそれらに私たち自身を近づけようとしていることに? 暴力の問題を取り上げましょう。私たちは非暴力の理想を持ちます。そして日常生活の中で、その理想を実践しようとします。あるいはあなたの持っている他の理想を何か取り上げてください。私たちはいつもそれに従って生きよう、それを実践しようとします。私たちがまじめで、単に言葉の上で生きているのでないなら。そしてそれは時間がかかります、絶え間ない応用、失敗の連続など。

なぜ私たちは理想を持つのでしょうか? それらの何かの収集、なぜ私たちはそれらを持つのでしょうか? それらは私たちの生を向上させるでしょうか? そして徳は絶え間のない鍛錬によって得られるでしょうか? 徳は結果でしょうか? それともそれはまったく違ったものでしょうか? 謙遜を取りましょう。謙遜を実践できるでしょうか? それとも謙遜は、自己が重要でないとき生じるのでしょうか? そのとき、「私に」や「私の」は優位を占めません。しかしそれを、自己が優位を占めるべきでないという理想にするなら、そのとき、どうやってその状態に到達するかという疑問が生じます。それゆえ、この全過程は非常に複雑で偽りのものではないでしょうか? 確かに、この問題に違った接近法があるに違いありません。理想の収集は、逃避でないでしょうか? なぜなら、それはそれをもてあそぶ時間を私たちに与えるからです。私たちは「私はそれを実践している、私は私自身を鍛錬している。ある日私はあれであるだろう。ゆっくり行くことが、それを目指して進化することが必要だ」と言います―私たちが与える様々な説明をすべてご承知ですね。

さて、違う接近があるでしょうか? なぜなら、理想に向かっての絶えず続く鍛練、自己を理想に近づけることは、問題の解決を実際にもたらさないということを見ることができるからです。私たちは少しも親切ではありません。私たちは暴力的でないとはとても言えません。私たちは表面的には暴力的でないかもしれません―しかし根本的にはそうでありません。それゆえ、そのとき、非貪欲の理想を持つことなしに、どうやって非貪欲であればいいでしょうか? 例えば、私は貪欲である、あるいは私はさもしい、怒りっぽいとします―何かこういったことだとします。普通の過程は理想を持つことです。そして実践、鍛練、その他を通して、私自身をその理想にいつも近づけようとします。それは貪欲から、怒りから、暴力から、私を解放するでしょうか? 私を暴力から解放するものは、何かでありたいという私の欲望から、何かを得たい、何かを守りたい、結果を得たいなどという私の欲望から自由であることです。それゆえ、私たちの困難はこれらの理想を持つとき、何かでありたい、何かになりたいという、この絶えず続く欲望があることです。そしてそれが本当に、事のもっとも重要な点です。結局、貪欲や怒りはミー、自己、「私」、の表現のひとつです。そしてその私が残る限り、怒りは続きます。単にそれを特定のやり方で作動するように鍛練することは、それを怒りから自由にしません。この過程はただ自己、ミーを強調するだけではないでしょうか?

さて、私が怒っている、あるいは貪欲であると実感するなら、私はそれから免れるためにすべての鍛錬のための過程を通り抜ける必要があるのでしょうか? それに対する違った接近が、それに取り組む違ったやり方がないでしょうか? 私がそれに違って取り組めるのは、もはや感覚に快楽を得ないときだけです。怒りは私に快楽の感覚を与えないでしょうか。私はそれを後で嫌うかもしれませんが、そのときはそれに絡み込まれた興奮があります。それは放出です。それゆえ最初のことは、私にはそう思われますが、この過程に気づくこと、理想は何も根絶しないということを見ることです。理想は単に延期のある形に過ぎません。すなわち、何かを理解するためには、私はそれに最大限の注意を注がなければなりません。そして理想は単に、与えられたときに、その気持ち、あるいはその性質に最大限の注意を注ぐのを妨げる気の逸れに過ぎません。私が充分に気づいているなら、私が貪欲と呼ぶ性質に、理想という気の逸れなしに、十分な注意を注ぐなら、そのとき、私は貪欲を理解し、それゆえそれを解消する位置にいるのではないでしょうか? ほら、私たちはそんなにも延期に慣れており、理想は延期するように私たちを助けてくれます。しかし私たちが逃避、理想の延期する性質を理解してすべての理想を捨てることができ、物事にそのままに、直接に、即時に直面し、それに十分な注意を注ぐなら―そのとき、確かにそれを変容させる可能性があります。

私が暴力的であることを実感するなら、私がそれを変容させようとか、非暴力になろうとすることなしに気づいているなら―私が単にそれに気づいているだけなら、そのとき、私の注意は十分にそれに注がれているので、それは暴力の様々な意味を明るみに出します。それゆえ、確かに、内部の変容があります。しかし私が非暴力、あるいは非貪欲、あるいはあなたの望むものを実践するなら、そのとき私は単に延期しているに過ぎないのではないでしょうか?、なぜなら私はあるがままのものに、それは貪欲や暴力ですが、注意を注いでいないからです。ほら、私たちの大抵は、延期の、あるいは何かになるため、結果を得るための手段として理想を持っています。理想のものになろうという欲望そのものの中に、確かに絡んだ暴力があります。何かになること、目的に向けて私自身を動かすことそのものの中に、確かに暴力が絡んでいるのではないでしょうか? ほら、私たちは皆何かであることを望みます。私たちは幸福であることを望みます。もっと美しいことを望みます。もっと徳があることを望みます。私たちはさらに、さらに望みます。確かに、より以上のものを求める欲望そのものの中に、絡んだ暴力があります、絡んだ貪欲があります。しかし、何かであろうと望めば望むほど、ますます葛藤があることを理解するなら、そのとき私たちは、理想は単に葛藤を増すことを助長するに過ぎないということを見ることができます―それは私が私のあるがままで満足するということではありません。とんでもない。私がより以上のものであるのを望む限り、葛藤があるに違いありません、苦痛があるに違いありません、怒り、暴力があるに違いありません。私が本当にそのことを感じるなら、私がそれによって深く影響され、それを見、それに気づくなら、そのとき私は問題を即座に、これやあれであるように私を激励する理想の収集を持つことなしに処理することができます。そのとき私の行為は即座です。私のそれとの関係は直接です。

しかしまた、このことの中に別の問題が生じます。それは経験者と経験の問題です。私たちの大抵にとっては、経験者と経験は二つの違った過程です。理想と私自身は二つの違った状態です。私はあれになることを望みます。したがって、「私」、経験者、思考者、は思考と違います。そのことはそうでしょうか? 思考者は思考とは違うでしょうか? あるいは思考だけがあり、それが思考者をつくり出すのでしょうか? それゆえ、私が思考から分離している限り、私は思考を巧みに扱うことができます。それを変えることが、それを変容させることができます。しかし思考を操作している「私」は思考と違うでしょうか? 確かにそれらは共通の現象ではないでしょうか? 思考者と思考は別ではなく、一つです。自分が怒っているとき、自分は怒っています。つまり、私たちが怒りと名づける統合された気持ちがあります。そのとき私は「私は怒っている」と言います。したがって私はその怒りから私自身を分離します。それで私はそれを操作することが、それについて何かをすることができます。しかし私が怒っている、私はその性質それ自体である、性質は私と分離できないということを確かに実感するなら、私がそのことを経験するとき、そのとき、まったく違った行為、まったく違った接近があります。さて、私たちは思考から、気持ちから、性質から、私たち自身を分離します。したがって「私」は性質から離れた実体であり、したがって「私」は性質を操作できます。しかし性質は「私」と、思考者と違いません。そして思考者と思考が、別個でなく一つであるその統合した経験があるとき、そのとき、確かに、まったく違った接近、違った応答があります。再びこれを実験してください、するとわかるでしょう。なぜなら、経験している瞬間には、経験者も経験もないからです。経験者と経験があるのは、経験していることが消えるときだけです。そのとき経験者が言います。「私はそれが好きだ」あるいは「私はそれが好きでない」、「私はそれがもっと欲しい」あるいは「私はそれほどそれを欲しくない」。そのとき、彼は理想を養成することを、理想のものになることを望みます。しかし思考者が思考であり、二つの分離した過程がないなら、そのとき彼の全体の態度は変容していないでしょうか? そのとき思考に関してまったく違った応答があります。そのときもはや思考を理想に近づけること、あるいは思考を除くことはありません。そのとき努力の仕手はいません。そして私がそう言うから、あるいは他の誰かがそう言うからではなく、このことを自分自身で発見することが、直接このことを経験することが、本当に非常に重要だと私は思います。この経験に、思考者は思考であるという経験に到達することが重要です。それを新しい仲間言葉に、私たちが使う新しい言葉の一組にしないでください。言語化を通しては、私たちは経験しません。単に感情を持つに過ぎず、そして感情は経験ではありません。そしてこの共通の現象に、その中で思考者と思考は一つであるこの過程に気づくことができるなら、そのとき問題は、単に理想を持っている、あるいはひとつも持っていないだけのときより、それは実際に要点を外れています、ずっと深く理解されるであろうと私は思います。

私は私の思考であり、思考は私と違わないなら、そのとき努力の仕手はいないのではないでしょうか? そのとき私はそれになりません。そのとき私はもはや徳を養成しません。私がすでに徳があるということでなく。私が徳があると意識するやいなや、私は徳がありません。私が謙虚であると意識するやいなや、確かに謙虚は止みます。それゆえ、努力の仕手―それ自身の自己投影された要求、欲望になっているミー、それらは私自身と同じものです―を理解することができるなら、そのとき確かに根本的な変容が私の見地全体にあります。それが正しい瞑想を持つこと、正しい瞑想が何を意味するか知ることが重要である理由です。それは理想への近似ではありません。それは手を伸ばして何かを得ようとすることではありません。それは達成すること、集中すること、特定の性質を発達させることなどではありません。それを私たちは前に議論しました。正しい瞑想はこのミーの、自己の全過程を理解することです。なぜなら、私が言ったように、正しい瞑想は自己認識であるからです。そして瞑想なしには、自己の過程が何であるか見出すことはできません。何かを瞑想する瞑想者がいないなら、そのとき瞑想はいまあるもの、思考としての思考者の過程全体を経験することです。そのときのみ心が本当に静かであることができる可能性があるのです。そのとき、心を超えたものがあるなら発見する可能性があるのです―それはあるとかないとかという、アートマン、魂、あるいはあなたの呼びたいものがあるという、単なる言葉の上の主張ではありません。私たちはそれらのことを議論しているのではありません。それはあらゆる言葉での表現を超えています。そのとき心は静かです―単により高いレベル、心の上層のレベルではなく、心の全内容、全意識、が静かです。しかし努力の仕手がいるなら静かさはありません。そして彼が思考から分離していると思っている限り、仕手が、意志の行為があるでしょう。そしてこれは大変多く調べること、考え抜くことを要します。ただそれを、表面的に、そして感覚的に経験することではなく。そして人がその直接の経験を持つとき、そのとき、理想のものになることは実体のないものです。それはまったく意味を持ちません。そのときそれはまったく間違った接近です。そのとき人は、このより多くのもの、より大きいものになる全過程が実在と何の関係も持たないことを見ます。実在は心が完全に静かなとき、何の努力もないときにのみ生じます。徳はその中に努力の仕手がいない、その自由の状態です。したがって、徳はその中に努力が完全に止んだ状態です。しかし有徳になろうという努力をするなら、確かにそれはもはや徳ではないのではないでしょうか?

それゆえ、私たちが思考者と思考が一つであるということを理解しない限り、経験しない限り、これらの問題すべてが残るでしょう。しかし私たちがそれを経験するやいなや、努力の仕手は終わります。それを経験するためには、自分自身の思考と感情の、自分のなりたいという欲望の過程に完全に気づいていなければなりません。そして、本当に実在や神やあるいはそういったものを求めているなら、この登る、進化する、成長する、達成するという全精神が終わりにならなければならないということを知るのが重要ですが、その理由はそのことなのです。私たちはあまりに世俗的です。番頭が主人になる、現場監督が重役になるという精神で―その精神で私たちは実在に接近します。私たちは同じことをしよう、成功へのはしごを登ろうと思います。私はそれはそのようにやることはできないのではないかと思います。そうするなら、あなたは錯覚の世界の中に、それゆえ葛藤、苦痛、悲惨と闘争の世界の中に生きるでしょう。しかし、そのような精神、そのような思考、そのような観点のすべてを捨てるなら、そのとき人は本当に謙虚になります。人は謙虚です。なるのではなく。そのとき実在の直接の経験を持つ可能性があります。それのみが私たちの問題のすべてを解消するでしょう―私たちの狡猾な努力ではなく、私たちの偉大な知性ではなく、私たちの深く広い知識ではなく。

質問: 私は野心がありません。私に何か間違っていることがありますか?(笑い)

クリシュナムルティ: 野心がないことをあなたが意識するなら、そのとき何か間違っていることがあります。(笑い)そのとき人は独善的な、お上品な、想像力の乏しい、思慮のない人になります。なぜあなたは野心から免れなければならないのでしょうか? そしてどうやってあなたは野心がないと知るのでしょうか? 確かに、何かから免れようという欲望を持つことは、錯覚の、無知の始まりではないでしょうか? ほら、私たちは野心が苦痛であるのを見出します。何かになろうと望み、そして失敗しました。そこで今、「それは苦しすぎる。私はそれを免れよう」と言います。もしもあなたの野心がうまくいくなら、もしもあなたがそうありたいことを実現するなら、そのときこの問題は生じないでしょうに。しかし、うまくいかないで、そしてそこに達成がないのを見て、あなたはそれを捨てて野心を非難します。明らかに野心は価値がありません。野心的な人は、確かに実在を見出すことができません。彼はあるクラブや、ある教会や、ある国の長になるかもしれません。しかし確かに、彼は実在を求めていません。しかし困難は、私たちの大抵にとっては、望むことに成功しないならつらく、冷笑的になったり、精神的になろうとしたりすることです。そこで私たちは「それをするのは間違ったことだ」と言い、それを捨てます。しかし私たちの精神は同じです。私たちは世間で成功しそこで偉大な人にならないかもしれませんが、「精神的に」私たちはなお成功を望むのです―小さいグループの中で、指導者として。野心は同じです。それが世間の中であろうと神に向いていようと。あなたが野心がないということを意識して知ることは、確かに錯覚ではないでしょうか? そしてあなたが本当にそれを免れているのなら、あなたがそうであるとか、そうでないとかという疑問が何かあるでしょうか? 確かに、世間の中で自分が野心的であるとき、人は自分自身の中でわかるのではないでしょうか? そして私たちは世間の中で野心のあらゆる影響を非常によく見ることができます―その不安、その冷酷、権力、地位、名声を求める欲望。しかし人が意識して何かを免れているとき、自分自身に満足して非常にお上品になることの、独善的であることの危険がないでしょうか?

私はあなたに保証しますが、油断なく気を配っていること、気づいていること、反対物に捕らえられないで繊細に、敏感に歩むのは非常に困難なことです。それは多量の油断のなさと英知と注意深さを要します。それで、たとえあなたが野心がないとしても、あなたはどこにいるのでしょうか? あなたはいまではもう親切で、いまではもう聡明で、いまではもう外部と内部の出来事に敏感でしょうか? 確かにこういったすべての中に、だめになる、活気がなくなる、鈍く、退屈してしまう危険があるのではないでしょうか? そしてますます敏感で、油断なく、注意深くなくても、実際に自由である可能性があります―これやあれやからの自由ではなく。自由は英知を要し、英知はあなたがせっせと養成するものではありません。英知は関係の中で直接に経験することができる何かです。関係はそうあるべきだとあなたが思うもののスクリーンを通してではありません。結局、私たちの生は関係の過程です。生は関係です。そしてそれは途方もない注意深さ、油断のなさを要します。あなたが野心から自由であるとか自由でないとか思索することではなく。しかし野心はその関係を歪曲します。野心的な人間は孤立した人間です。したがって彼は妻や社会と関係を持つことができません。生は関係です。ひとりの人とであろうが多くの人とであろうが。そしてその関係は野心を通して歪曲され、破壊され、腐敗させられます。そして人がその腐敗に気づくとき、確かにそれから自由になる問題はありません。

それゆえ、こういったすべての中で、私たちの困難は注意深いこと、私たちが思い、感じ、言っていることに注意深いことです―それを他の何かに変化させるためにではなく、まさにそれに気づいていること。そしてそのように気づいているなら―その中に非難、正当化がなく、単なる注意が、あるがままのものの十分な認知があります―、その気づきそれ自体に途方もない影響があります。しかし私たちが単により何かでないようになろう、あるいはより何かになろうとしているに過ぎないなら、そのとき鈍さ、退屈、独善的なお上品さがあります。そしてお上品な人間は、確かに、決して実在を見出すことができません。気づきは何かの充足や満足によって容易にはけ口を与えられない、大きな内的な不満を要します。

さて、このすべてを、今朝討論してきたすべてを見るなら、単に言葉のレベルではなく実際にそれを経験するなら、時たまの瞬間ではなく、おそらくあなた方の何人かがそうであるように隅に追い詰められるときでなくて毎日、瞬時瞬時。静かに観察して気づいているなら、そのとき私たちは極度に敏感になります―感傷的にではなく、それは単に曇らせ歪めます。内部で敏感であることは大きな簡素を必要とします―腰布を身につけたり、わずかな衣服しか持たない、あるいは自動車を持たないという事ではなく。だが、その中で「私に」や「私のもの」が重要でない、その中に所有の感覚のない簡素。もはや努力の仕手のない簡素。そのときその実在を経験する、あるいはその実在が生じる可能性があります。結局、これが実際の永続する幸福をもたらすことができる唯一のものです。幸福は本質的に目的ではありません。それは副産物であり、実在と共にのみ生じます。あなたが実在を追いかけるということでなく―あなたはできません。それがあなたに生じなければなりません。そしてそれがあなたに生じることができるのは完全な自由、静寂があるときだけです。あなたが静かになるということではなく。それは瞑想の間違った過程です。静かであることと静かになることの間には巨大な相違があります。組み立てられたのではない実際の静寂があるとき、そのとき説明のできないものがあります。そのとき創造が生じます。

1949年8月13日

(訳者: N.Goto)2003.03.掲載

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