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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第3回)

J. Krishnamurti Ojai 3rd Public Talk 9th August 1952

この二回の会合で、私たちは変化の問題を考えていました。そして私は、この午後、力の問題を、私たちが知っているような力が、自分自身の内側の基本的な心理的変容をもたらすことができるかどうかを調べたいと思います。この問題を調べることの中の難しさは、私はそう思うのですが、言葉の用い方を理解することにあります。それは私たちの主要な困難のひとつではないでしょうか? 神、愛、規律、力、共産主義者、アメリカ人、ロシヤ人、というような言葉は、私たちの生の中で非常に特定の心理的意味を持っています。そしてそれらに触れるとき、私たちは神経質に 感情的に反応し、心理的な応答があります。それゆえ、変化のこの問題をさらに調べるつもりなら、私たちはまた 特定の言葉が私たち一人一人に心理的な影響を持っているという事実をよく考えなければならないと思います。

私たちは非常に多くの言葉の上の障壁を私たち自身の周りに築いてきました。そしてそれらの障壁を超え、言葉の向こうに横たわる意味を見ることは非常に困難です。何といっても言葉は伝達の手段です。しかし特定の言葉が神経的、あるいは心理的反応を私たちの中に引き起こすなら、そのとき伝達することは非常に困難になります。そして確かに、次のことはもうひとつの私たちの困難です。すなわち、変化の問題を理解しようとする中で、私たちはすべての理想を私たち自身から剥ぎ取らなければなりません。なぜなら、特定の型への順応は、どんなに合理的であっても、どんなに論理的でよく考え抜かれていても、変化ではまったくないからです。そうでないでしょうか? 変化は修正された思考の継続ではなくて、完全な変容を意味します。それゆえ、どうやって基本的な変化をもたらすかのこの問題全体の中に、私たち自身の内側で心理的にのみならず、外部に向かっても考えるべき多くの要素があります。

私は私自身の中の確かな変化の必要性を見ます。そして私は問題を表面的に取り扱うか、それに非常に深く突っ込んで行きその意味が何であるか見出すか、そのどちらでもすることができます。私が変化しなければならないこと、それが必要であることが見えるとき、私は一般に意志を行使するのではないでしょうか? 変化のどの過程も抵抗、努力の適用を意味します。それが意志です。それに私たちはよく慣れています。すなわち、私は私自身の中に社会的によくない状態、あるいは私の中に葛藤をもたらす状態を知覚します。そして私はそれを超えたいのです。私はその特定の性質や条件付けを打破したいのです。そこで私はそれを抑圧します。あるいはそれに抵抗するように自己訓練をします。それは意志の一定の力を必要とします。私たちはその過程に慣れているのではないでしょうか? そこで私たちは種々の形の力―社会的、経済的、内的、精神的などなど―が必要であると思います。

さて、この意志の全過程は自己中心的な活動であって、その中には、私が捕らえられている、心が掴まえられている条件付けからの解放はなく、覆い隠すことと修正された形での同じものの継続のみがあるのではないでしょうか? そして私たちの教育、私たちの改良、私たちの宗教的な考え、心理的苦闘はすべてこの過程に基づいているのではないでしょうか? 私はこれである、そしてあれになりたい。そしてあれになる中で、私は一定の意志の力を使用するに違いありません。抵抗、制御があるに違いありません。そしてこの制御の、訓練の過程は、力の感覚を生む自己中心的活動ではないでしょうか? 訓練すれば、あなた自身を制御すればするほど、ますます一定の集中した活動に属するものがあります。しかしその活動はなお自己の、「私に」と「私の」の領域の内側にあるのではないでしょうか? そして実在、神、あるいはあなたの呼びたいもの、は自己中心的活動の結果でしょうか? すべての宗教的な本、教師、種々の、あるいはあなたが属する教派―すべて、基本的に強制を通して、順応を通して、成功を求める、すなわち ある結果を獲得しようとする欲望を通して、もたらすことができるということを意味していないでしょうか? しかしその全過程はより以上のものであろうとする欲望の中の「私」の活動ではないでしょうか? そして私たちは、それをよく理解して、その過程を終わりにすることができるでしょうか?

問題を私がそれを見るようにあなたが見るかどうかわかりません。この活動のすべては、どんなに合理的であろうが、どんなに高貴、あるいはよく計算されていようが、なお心の領域内にあります。それは自己の活動、欲望の、「私に」と「私の」の結果ではないでしょうか? そして自己、常に心の限界内にあり、したがって常に葛藤の中にあるその意識は―その自己はいったいそれ自身を越えることができるでしょうか? その自己は個人の間に、それゆえ集団の間に、国家の間に葛藤を常につくり出さないでしょうか?

さて、このことを理解することがとても重要だと私には思われます。しかしそれは私たち一人一人にとっての問題でしょうか? 私たちは根本的な変化が社会の中に、私たち自身の中に、私たち個人と集団の関係の中に必要であることが見えます。そしてどうやってそれはもたらされればいいでしょうか? 変化が心によって投影された型への順応を通して、合理的なよく研究し抜かれた計画を通してであるなら、そのときそれはなお心の領域内にあります。したがって、心が計算するものは何でも目的、未来像となり、そのために私たちは私たち自身と他人を犠牲にすることをいとわないのです。あなたがそれを保持するなら、そのとき、人間としての私たちは単に心のつくり出したものに過ぎないということになり、それは順応、強制、残酷、独裁、強制収容所を意味します―厄介ごとの全体。私たちが心を崇拝するとき、そのすべてが含まれるのではないでしょうか? 私がこれを理解するなら、規律の、制御の愚かさが見えるなら、種々の形の抑圧はただ「私に」と「私の」を強化するだけであることが見えるなら、そのとき私はどうすればいいでしょうか? あなたはいままでにその質問をあなた自身にしたことがありますか? 私自身にどんな力を行使することも邪悪であり、それは単に違った形での「私」の継続に過ぎないことを私は見ます。そして世界の中と私自身の中に平和がなければならないなら、「私」がまったく止まなければならないこともまた私は見ます。人としての、実体としての、蓄積の心理的過程としての「私」、常に何かになるために苦闘している「私」、断定的で、独断的で、攻撃的な「私」、親切で愛する「私」―それはすべての葛藤、すべての強制、すべての順応、成功を求めるすべての欲望の起こる中心です。そして私自身の内面と外に向かって平和の可能性があるのは、それに終わりにすることの中にだけあります。私がこれを実感するとき、私はどうすればいいでしょうか? どうやって「私」を終わりにすればいいでしょうか?

さて、これが私たち一人一人にとって真剣な問題であるなら、私たちのそれに対する応答は何でしょうか? 当然、私たちは皆答えを与えることができません。しかしよりよく、より高貴になるためのどんな自己の運動も、どんな抑圧の運動も、成功を求めるどんな欲望も、終わらなければならないということを私たちは見ることができます。すなわち、心は、それは「私」の中心ですが、非常に静かにならなければならないのではないでしょうか? 心は感情の中心です。それは記憶の結果、時間の蓄積物です。そして何かになろうという心の側の私の運動は、なお「私」の、感情の限界内にあります。そして心、それは感情です、それは記憶です、それは伝統です、それは「私」の計算機です、それは言葉の背後に隠れて、果てしなく安全を求めています―その心は、それ自身の欲望から、それ自身の意志の何らかの行使によって、終わることができるでしょうか? それ自身の意志の働きによって終わることができるでしょうか?

それゆえ、私は私自身の心を研究しなければなりません。私はその反応すべてに気づいていなければなりません―それを変えようという何の欲望もなしに、ただ私の心に気づいていなければなりません。それが最初の必要な一歩でないでしょうか?―私がその「一歩」という言葉を時間の観念を導入することなく用いることができるならば。私の心の過程に非難なしに気づいていること、事実を判断なしに観察すること、いまあるものに単に気づいていること―それをすることができるでしょうか? ある人は「はい」と言うかもしれません。ある人は「いいえ」と言うかもしれません―しかし他の人たちがこのことについて言うことは全く重要ではないのではないでしょうか? あなたがこれを実験しなければなりません、経験しなければなりません。そしてイメージ、象徴を形成することなしに経験することができるでしょうか? つまり、私たちは一般に私たちが認識する物事だけを経験するのではないでしょうか? 私たちは、経験を認識するときのみ経験していることを意識します。そしてそれを認識することができないなら、経験はありません。それゆえ、私たちが経験と呼ぶものにとっては認識の要素が不可欠です。さて、神、真実、あるいはあなたの呼びたいもの、は認識の事柄でしょうか? 私が何かを認識できるなら、それは私がすでにそれを以前に経験したということを意味するのではないでしょうか? 私が以前に認識したものは記憶になります。そしてその経験の継続を求める欲望があるとき、私はその記憶を投影し、それを認識します。それを経験します。すなわち、記憶を通して、認識を通して、経験を通して、私は「私」の中心を築きます。

それゆえ、私たちのたいていにとって、変化のこの問題に突っ込んでいき、私たち自身の内部に変容を本当にもたらすのは極めて困難です。私が言葉の上のレベルであれ、心理的なレベルであれ、認識の過程を通して絶えず経験しているなら、私は変化することができるでしょうか? すなわち、あなたに初めて会うとき、私はあなたを知りません。しかしあなたに会う二度目には、あなたのある記憶を持っています。好きや嫌い、苦痛や楽しみがあります。それゆえ、苦痛や楽しみの指示を通して、私はあなたに会ったと言い、認識の過程があります。その認識は言葉の上で、あるいは心理的に確立されます。そして、私が越えて行き、単なる認識、回想、記憶でない状態を発見するつもりなら、「私」の中心、それは認識の過程です、は終わらなくてはならないのではないでしょうか? 外部に向けてにせよ心理的にせよ、絶え間なく経験を渇望し、それが知ったものをもっと多く捜し求めている「私」としてのこの実体があります。「私」が存在し続ける限り、私が経験するどんなものも「私」を強化するだけではないでしょうか? したがって私はますます多くの問題、絶え間ない葛藤をつくり出します。そして心が非常に静かであり、認識の過程が止むことができるでしょうか? 何といっても、それが創造ではないでしょうか?

どうか、これらの講話を聞く中で、重要なことは、このすべてを受け入れることではなく、言葉の意味を浸透させ、それらが何かの妥当性、何かの真実を持っているかどうかを見ることだと私には思われます。解放するのは、言葉の上の否定や断言でなく、真実のその性質です。それゆえ正しく聞くこと、すなわち、言葉に、ある声明の論理に、あるいはあなた自身の経験に捕らえられないことが非常に重要です。あなたはほかの人が何を言うか見出すためにここにいます。そして見出すためには聞かなければなりません。そして正しく聞くことはするのが最も困難なことのひとつではないでしょうか? なぜなら、私が「経験」、「真実」、などのような言葉を使うとき、あなたは直ちに特定の応答を持ちます。特定のイメージ、象徴が生じます。そして心がこれらの象徴に捕らえられてしまうなら、あなたは越えることはできません。

それゆえ、私たちの問題はどうやって心をこの自己中心的活動から、社会的な関係のレベルからだけでなく、心理的なレベルからも解放するかということです。私たちの個人的生活の中と、集団としての、国家としての生活の中の両方にある災厄、悲惨を引き起こしているのはこの自己の活動です。そして私たちが私たち自身の思考の過程全体を理解するなら、それを終わりにすることができます。思考が肝要な変化をもたらすことができるでしょうか? 今までのところ、私たちは思考に頼ってきたのではないでしょうか? 政治的革命は、右翼にせよ、極左にせよ、思考の結果です。そして思考は根本的に人を、あなたと私を変えることができるでしょうか? できるとあなたが言うなら、そのときあなたはすべての意味を見なければなりません。すなわち、人は時間の産物であるということ、時間を超えるものは何もないということ、等々。それゆえ、私が私自身の中に根本的な変化をつくり出すつもりなら、その変化を引き起こす道具として思考に頼ることができるでしょうか? それとも、思考の終わりがあるときのみ根本的な変化があり得るのでしょうか? 私の問題は、では、実験すること、見出すことです。そして私は、自己認識を通して、私自身を知ること、見守ること、私が油断している瞬間に気づくことを通してのみ、見出すことができます。私が根本的な変化の可能性があるのかどうか、あるいはないのかを見出すことができるのは、私が私自身の考える過程を理解し始めるときのみです。そのときまで、私が変化できるとかできないとかの単なる断言はほとんど意味がありません。私たちは世界の中と私たち自身の中に根源的な変化の重要性を見ますが、私たちが思考者と彼の思考を理解しない限り、そのような変化の機会はほとんどありません。エコノミストと政治家は決して革命的ではありません。革命的であるのは真に宗教的な人だけです、実在、神、あるいはあなたが呼びたいもの、を求めている人。単に信じているに過ぎない、型に従っている、特定の協会、宗派や集団に属している人たち―彼らは探求者ではありません、したがって彼らは本当の革命家ではありません。私たちは、私たち自身の考える過程を理解するときのみ、私たち自身の内側に変容をもたらすことができるのです。

質問: 野心とはどういう事でしょうか? あなたは野心的な自己の何かの改善を考えようとしているのでしょうか? どんな地点から野心は始まるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは、いつ野心的であるのか知っていないでしょうか? 私がより多くのものを望むとき、自己を主張するとき、何かになろうと望むとき、それが野心ではないでしょうか? それはどこで始まり、どこで終わる、と言うことができるでしょうか? あらゆる自己改善は野心の一形態ではないでしょうか? 私はこの世で野心的でないかもしれません。大きな政治権力を持つ指導者であろうとか、たくさんの財産、地位をもつ大実業家であろうと望んでいないかもしれません。しかし私は精神的に非常に野心的であるかもしれません。すなわち、私は聖者になろうと望みます。あらゆるうぬぼれを免れようと望みます。何かでありたいという主張そのものが、野心の始まりではないでしょうか? 野心的でないようにという欲望―それは自己改善、それゆえ自己中心的活動ではないでしょうか? 私が高慢であって、そして高慢の意味合いを見るとき、私は謙虚を養成します。その養成された謙虚は自己中心的活動ではないでしょうか? そしてそれは野心ではないでしょうか?

そしてあなたが謙虚を養成していないなら、そのとき、あなたは高慢をどうしようとしているのでしょうか? 人はそれをどのように取り扱えばいいでしょうか? 他の何かであるために一つのものを除こうとする欲望そのもの―それは自己中心的活動ではないでしょうか? それは野心です。どうか、あなたがあなたのありのままを知るとき、他の何かであろうと苦闘しないことがいかに極度に困難であるか見てください。この苦闘の過程、この偉大、あるいは謙虚、あるいは寛大になろうとすること、が進化と呼ばれているのではないでしょうか? 私はこれです。そして苦闘を通してあれになろうとしています。定立から私は反定立に進み、その結果から統合をつくり出します。この過程は成長、進化と呼ばれているのではないでしょうか? さて、そのことの中に自己中心的活動、自己・「私」の改良が含まれています。しかしいったい「私」が改良され得るでしょうか? それはそれ自身の領域の内側で改良されるかもしれません。しかし私が越えて行き、「私」に属しないものがあるかどうか見出したいなら、自己改善はその発見をもたらすのを助けるでしょうか? それゆえ、野心的であるとき、私はどうすればいいでしょうか? 野心を抑圧すべきでしょうか? そして野心の抑圧そのものが、「私」を否定的に強化し、その中に力、支配の例の感覚がある野心の一形態ではないでしょうか?

私は私が野心的であるのを見ます。そして私はどうすればいいでしょうか? それを免れることができるでしょうか?―それは私が非野心的にならなければならないということを意味しません。野心を免れることができるでしょうか? 私はそれを論理的に考え抜くことが、葛藤、無慈悲さ、私の関係の中の野心の残酷さ、などなどを見ることができます。そしてそれは私を助けるでしょうか? 野心が破滅的であることの説明が、私が野心を免れるように助けるでしょうか? それとも、ただひとつの道があるだけでしょうか? それは非難なしに野心の意味合いのすべてを見ること、私が野心的であるという事実に、意識的レベルにおいてだけでなく、私自身の思考のより深いレベルでただ気づいていることですが。確かに、私は何の抵抗もなしに、それに完全に気づいていなければなりません。なぜなら私がそれに対して苦闘すればするほど、ますます私はそれに活力を与えるからです。野心は私には習慣になっています。そして習慣に抵抗すればするほど、ますますそれは強くなります。ところが、それに気づいているなら、単にその事実を見ているに過ぎないなら、それは根源的な変化をもたらさないでしょうか? 私はもはや野心を抑圧すること、あるいはそれを捨てることにかかわっていません。あるいは何かの説明で満足させられることもありません―私は直接、野心の事実にかかわっています。それゆえ、それを見るとき、私は何を見るでしょうか? 野心は単なる習慣でしょうか? 私は野心、成功、ひとかどの者になることに基づいている社会の習慣に捕らえられているのでしょうか? 挑戦によって、達成の感覚によって私は刺激され、そしてその刺激なしには私はどうにもならないように感じ、それゆえ刺激に依存するのでしょうか? このすべてに気づくこと、その意味合いを見てそして反応しないこと―ただ事実を見ること、はできないでしょうか? そしてその知覚は根源的な変化をもたらさないでしょうか? 私が野心的であることを認め、その意味合いを言葉のレベルだけでなく内面的にも見るなら、それは習慣、感情、伝統等の影響に気づいているということですが、そのとき何が起こりましたか? 私の心はその事実に関して静かなのではないでしょうか? 私の心はもはやそれに反応しません。つまり それは事実です。そしてあるものの静かな受容―はその事実からの解放ではないでしょうか?

どうかこれを受け入れないでください。それを実験してください、すると見えるでしょう。まずあなたが野心的であることに、あるいは何であるにせよ、気づいてください。それからそれに対するあなたの反応のすべてを見てください。それらの反応が習慣的、伝統的、言葉の上であろうがなかろうが。言葉の上の応答に別の一連の言葉によって単に反対することは、あなたを解放しないでしょう。あるいはそれが伝統であるなら、新しい伝統や習慣を単に養成しているなら、あなたは解放を見つけないでしょう。野心を抑圧しようとする欲望そのものが他の何かであろうとする心のトリックです―それは野心の一部です。それゆえ、心が特定の性質に関して行うどんな運動も、それ自身の維持と安全の過程の一部であることを心が見るとき、それは何をすることができるでしょうか? それは何もすることができません。したがって、その性質に関してそれは直ちに静かです。それはもはやそれに関わりません。しかしこれは骨の折れる仕事です。そうでないでしょうか?

革命的な内面の変化は不可欠です。そして私たちが変化の問題を理解するつもりなら、このすべてに突っ込んで行き、さまざまな角度から「私」の問題を学ばなければなりません。

1952年8月9日

(訳者: N.Goto)2001.11掲載

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