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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第4回)

J. Krishnamurti Ojai 4th Public Talk 10th August 1952

基本的かつ根本的な変化の必要性を話す中で、私たちは方法、「どうやって」の問題をよく考えなければならないのではないでしょうか? 私たちの大抵にとって、手段、方法、方式は非常に重要になります。私たちは変化が不可欠であることを見ます。それから私たちの心は直ちに、どうやって変化するか、どうやってそんなにも明白に必要である根本的な変換をもたらすかの問題に向うのです。しばらくの間、「どうやって」、テクニック、が重要であるかどうかをよく考えましょう。テクニック、「どうやって」、に私たちが関わるとき何が起きるでしょうか? 「どうやって」の養成、成功の意図を持っての特定の方法の実践、それは惰性を誘発しないでしょうか? それは私たち自身の中の惰性の主要な原因のひとつでないでしょうか? 私が「どうやって」、方式、を発見してしまうや否や、私はそれを実践し始めます。それは成功しよう、特定の結果を獲得しようとする欲望によってもたらされる順応を意味します。それで私たちのたいていにとって、「どうやって」は非常に重要になります。どうやって私は変化したらいいか、どんな方式に私は従ったらいいか、どうやって私は瞑想したらいいか、どんな修養を私は実践したらいいか? 私たちはいつもこの質問を尋ねないでしょうか? 私たちは絶えず「どうやって」を求めていないでしょうか?

さて、「どうやって」、方法―それは重要でしょうか? そして心が「どうやって」を要求していることに気づくこと、そしてなぜそれが方法を求めているのかを見ることがはるかに重要ではないでしょうか? 方法、テクニックを望むなら、あなたはそれを見つけるでしょう。というのはどの宗教的な教師も皆、特定の形の修養、制御、あるいは瞑想の方式を提供しているからです。この自己制御の過程の中に、特定の修養に従おうとする過程の中に何が起こるでしょうか? あなたが何か修養を実践したかどうか私は知りません。したことがあるなら、あなたは心が思考のパターンに順応していることに気づきませんか? そしてそうすることの中で、心はそれ自身の限界を造り出さないでしょうか? 確かに、それは思考と行為の特定の領域の内側で生き、作動することができるけれど、そのような心は順応によって束縛されており、その中には何かを新たに経験する自由がありません。それゆえ、目的を視野において修養を実践することによって、成功の希望の中で徐々に順応することによって、心は惰性を誘発しないでしょうか? 明らかに、それは私たちの最大の問題のひとつです。怠惰、途方もない心の惰性。そして私たちがこの惰性を打破しようと望めば望むほど、心はますます「どうやって」を尋ねます。それが私たちの大抵にとって、「どうやって」がそんなにも途方もなく重要になる理由です。

「どうやって」、方法、テクニックを求めないなら、私たちはどうすればいいでしょうか? 私がこの「どうやって」の追求の虚偽を見るとしましょう。私は方法を見つけて実践することは単なる反復に過ぎず、それは本質的に心を鈍くすることを見ます。私がそれを見る、その虚偽を見るなら、そのとき何が起こるでしょうか? そのとき、心は本当に注意深いのではないでしょうか? 何かの特定の方法を実践することの意味を見ること、それの意義に気付くこと、ただ表面的レベルにおいてだけでなく基本的に、深く―それは心を素早くしないでしょうか、より大きな油断のなさがないでしょうか? そしてそれは私たちが基本的な変化の問題を考えているとき、私たちの問題のひとつではないでしょうか? なぜなら、私たち自身の中に根本的な変化をもたらす方法を求める欲望、テクニックを求める探索は、心を遅くすること、鈍らせることを誘発すると私には思われるからです。方法、テクニックは特定の経験を生み出すかもしれません。しかし、それらの経験は単に非常に用心深い訓練の結果に過ぎないのではないでしょうか、それらは思考と行為の特定の形に絶えず従ってきた心の投影ではないでしょうか? そして実在、神、あるいはあなたの呼びたいもの、は何かの型を通して経験されるものでしょうか? 確かに、それは心が欲望、一層の経験への招待から自由であるときのみ生じることができます。

それゆえ、私たちが変化の問題を議論しているとき、このテクニック、努力の複雑な問題を調べるべきではないでしょうか? あなたの心を見守るなら、いかに速やかにそれが思考の特定の習慣に陥るかが見えるでしょう。なぜならそれは一度快い感情、喜びの気持ちを経験したので、その反復を求める欲望があり、それで心はその楽しみを再び捕らえようと望んで、それを養成し、修養を実践するからです。そしてこの反復は、その欲望と共に、惰性の主要な原因のひとつでないでしょうか? テクニックを通じて、修養を通じて、方法を通じて、基本的な変化があり得るでしょうか? この基本的な変化は、思考の何かの操作を通してではなくて、心がそれ自身の活動、その自己中心の運動を理解し、それで終わるときのみ もたらされるのではないでしょうか? そのためには、修養・テクニックでなく、絶え間のない油断のなさを必要とします。

たぶん、あなた方の何人かはさまざまな形の修養を実践していて、それゆえむしろ用心深く聞いているかもしれません。抵抗しているかもしれません。あなたは「修養なしに私は何をしましょうか? 私の心はすっかり混乱してしまうでしょう」と言うでしょう。しかし私が伝達しようとしていることを理解したいなら、あなたは私の言っていることに抵抗するでしょうか? それとも、事の真実をあなた自身で見出そうとするでしょうか? あなたが私の言っていることを受け入れるべきだということではありません。そうではなく、あなたはこの事柄において、何が真実であるか見出そうと望むのではないでしょうか? そして見出すためには、あなたの心は抵抗の状態に、恐怖の状態にあってはなりません。なぜなら、あなたが多年にわたり修養を実践してきたことは、それが正しいということを意味しません。あなたがあなた自身の周りにそんなにも注意深く築いてきた柵を除去するなら、心は氾濫して途方にくれるだろうという恐怖があるかもしれません。そして何が真実であるか見出すためには、人は明らかに、自分の欲望、刺激と願望に従ってではなく、尋ねる心、発見の状態にある心で聞かなければなりません。私はそれはそれ自身の規律をもたらすと思います。それは特定の結果を獲得するために心によって課せられた規律ではありません。

例として、統合の問題をとりましょう。私たちは種々のレベルで矛盾の状態にあります。各レベルがそれ自身の中で、そして私たちの存在のほかのレベルと葛藤しています。意識と無意識のレベルの両方で葛藤があります。どうかこれをわかってください。統合しているのを感じようとしないでください。あるいはどうやって統合の状態に到達したらいいかを尋ねないでください。あなたが聞き、結果を獲得しようとしないなら、そのとき 多分 事はあなたの尋ねることなしに生じるでしょう。

私たちは私たち自身の中の、さまざまなレベルでの矛盾に気づきます。そしてこれらの矛盾のいわゆる統合をもたらす種々の方法があります。分析、催眠、絶え間のない内省など。そのすべては私たちの全存在の統合を確立しようとする苦闘を引き起こします。私は統一の感覚、内部の完全性の感覚が必要であることを認識します。そしてこの統合は矛盾を避けることによっては、心を思考と行為の特定の型の中に入れることによってはもたらされないこともわかります。統合の状態は明らかに必要です。なぜならその状態の中にだけ、葛藤からの自由があるからです。それは心が発見すること、経験すること、物事を新たに感じることを可能にします。もし、統合の、内部の統一のその状態の、完全性のその状態の重要なことを見て、どうやってそれを得たらいいか私が尋ねないなら、私はそのときあらゆる矛盾に気づかないでしょうか? そしてこの気づきは無意識、その中に矛盾のある 私自身の深い層が出てくるのを許さないでしょうか? 何の抵抗もありません。私は単に見出したいのです。それゆえ私の夢、目覚めている意識、葛藤のあらゆる暗示、矛盾を呼び覚ますあらゆるできごとを見守ります。

私の関心は統合ではなくて、さまざまなレベルでの、さまざまな層の中のこれらの矛盾に気づいていることです。それゆえ、何が起こるでしょうか? 私は特定の状態を求めているのではなくて、私自身の中のさまざまな矛盾に、それらを瞬時瞬時観察して ただ気づいているので、この油断のなさは欲望のものでない、統合を求めてきた心のものでない統合をもたらさないでしょうか? 私は何をしたでしょうか? 私は葛藤を、それから逃げないで理解しました。私は私の存在のまさに奥底からそれを出てこさせました。そしてそのとき、多分、人は誘導されたのではなくてそれ自身から生じたこの統合の一閃を持ちます。統合の一閃があるとき、心はその経験の記憶の中に生き続け、それによって模倣、順応の機械装置を活動させます。その記憶は統合ではありません。それは単に記憶に過ぎません。それゆえ、人は再び心が、統合している代わりに統合の感覚を経験して、どんなふうにいま記憶の中に生きるかに気づいていなければなりません。それで、記憶を通して、どうやって生きている性質を維持するかという問題が起こります。それはそのとき私たちの問題になります。

それゆえ、変化の問題を考えるとき、私たちはこの記憶の問題、特定の習慣や行動の型の養成の問題を調べなければなりません。心はそれが「どうやって」を求めたり、養成したりしているとき、決して自由であることができません。私自身の矛盾をよく聞くこと、私の心が記憶を追跡し、安全であるために習慣を養成していて、それによって「私」の自己中心的活動の中に引き止められているのを見ること―そのすべてに、それに同調することや 反対して戦うことなしに、本当に気づいていることは、修養の特定の型を養成することよりずっと重要であり、はるかに大きなエネルギー、大きな油断のなさを要します。順応は明らかに惰性に通じます。そして私たちの大抵は、他人の中や私たち自身の中の成功を崇拝するので、私たちは当然順応しようと望むのです。

順応の状態の中で、修養の状態の中で生きることは、私たちの伝統のひとつではないでしょうか? どうか私が修養に反対していると思わないでください。それは問題ではありません。私たちは変化、私たち自身の内面の革命の問題を考察しているのです。そしてその革命、その基本的な変容は修養を通してもたらすことができるでしょうか? 明らかにそれはできません―少なくとも私にとっては、それはできません。修養はただ私をより順応させることができるだけです。そして順応は変化をもたらしません。私はなぜ心が順応を求めるか理解しなければなりません。そして心は一体この伝統の圧力、外部のもののみならず、絶え間のない自分で作った伝統、それは記憶です、から自由であることができるでしょうか? 私たちが見てきたように、心がすることは何でも、博学であろうが、広範であろうが、狡猾であろうが、思索的であろうが、それは基本的な変化を生み出すことはできません。そして基本的な変化は必要なのではないでしょうか?

どんな理由も、どんな論理も、どんな修養もこの永続する根本的な変容をもたらすことはできません。他の何かが生じ、私たちを変化させる可能性があるのは、心が静かであるときのみです。しかし私たちはそれを求めることはできません―それは生じなければなりません。そしてそれは、心がそれを受け取ることができるときのみ、生じることができるのです。それは心がもはや時間の見地から考えていないときです。というのは、すべての思考は時間の過程であるからです。そうでないでしょうか? 私たちは考えることを終わりにすることはできませんが、思考の運動を理解することができます。そして「私」、思考とは別の思考者、がある限り、明らかに私たちは時間の見地で考えているのです。心が修養を通して時間を超えることを求めているとき、それはただ障害を作り出し、時間を強化しています。

それゆえ、このすべてをよく聞く時、どんなふうにあなたが聞いているかを見出すことが重要ではないでしょうか? あなた自身の反応を見、あなた自身の心を学んであなた自身を知り始めることが重要ではないでしょうか? 結局、私が言っていることは、私たち一人一人が、多かれ少なかれ考えていることです。しかし私たちは、このことの真実を見ず、忍耐と油断のなさを持って、私たち自身の思考の運動に気づかないなら、言葉のレベルを超えることはできません。それをするなら、そのとき、多分、何か他の要素、心に属するものでない何か他の性質がやって来るでしょう。しかし、それがやって来ることができるのはそれを求める欲望がないとき、心が認識の過程に捕らえられていないときだけです。

質問: あらゆる精神的教師の中で、あなたは内部の平和を得るための瞑想の方式を提供しない、私の知っているただ一人の人です。私たちはみな内部の平和が必要であることに同意します。しかし、東洋のヨガにせよ、西洋の心理学にせよ、技法を練習することなしに、どうしてそれに到達することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: 教師、精神的教師とその追従者があるということはひど過ぎないでしょうか? 教師を持ち追従者になるや否や、あなたが見出なければならないなら、発見しなければならないなら、絶えず消さずに保たなければならないあの炎をあなたは消してしまったのではないでしょうか? あなたを助けてくれるように教師に頼るとき、教師はあなたが求めている真理よりもっと重要になるのではないでしょうか? それゆえ、教師と追従者の態度を捨てましょう。私たちの方式から、完全に追い出しましょう。そして問題それ自身を、それが私たち一人一人に影響しているとみなしましょう。どんな教師も、明らかに、あなたが真理を発見するのを助けることはできません。人はそれを自分自身の中に見出さなければなりません。苦痛、苦しみ、探究を通り抜けなければなりません。物事を自分自身で発見し、理解しなければなりません。しかし特定の教師の追従者になることの中で、あなたは惰性、怠惰を養成したのでないでしょうか、心を暗くしてしまうことがないでしょうか? そして、もちろん、さまざまなグループを持つさまざまな教師はお互いに矛盾しています、競争し、宣伝して―あなたはそれをめぐるあらゆるナンセンスを知っています。

それゆえ、追従者と教師の全問題はばかげていて子供じみています。質問の中の重要なことはこうです。東洋であれ西洋であれ、平和に到達する方法があるでしょうか? 平和が特定の方法を練習することによって到達されるなら、あなたが到達した、あなたが平和と呼ぶものは、もはや生きている質ではありません。それは死んだものです。公式化によって、あなたは平和が何であるべきか知っています。そしてあなたはそれに向かって追随する道を敷きました。確かに、その平和はあなた自身の欲望の投影ではないでしょうか? したがって、それはもはや平和ではありません。それはあなたが望むもの、あなたがそうであるものに正反対のものです。私は葛藤の、悲惨の、矛盾の状態にあります。私は不幸で、暴力的です。そして隠れ家、掻き乱されない状態を望みます。それで私はさまざまな教師、案内人のところに行きます。私は本を読み、私が望んでいるものを約束する修養を実践します。私は平和を得るために抑圧し、制御し、順応します。そしてそれは平和でしょうか? 確かに平和は追い求められるものではありません。それは生じます。それは副産物です。本質的に目的ではなく。私が私自身の全過程、私の矛盾、欲望、野心、誇りを理解し始めているとき、それは生じます。しかし私が平和を本質的に目的にするなら、そのとき私は停滞の状態の中に生きています。そしてそれは平和でしょうか?

それゆえ、私が方式、方法、テクニックを通して平和を求めている限り、私は平和を持つでしょうが、それは順応の平和、死の平和であるでしょう。そしてそれが私たちの大抵が望んでいることです。私は何かのかすかな光、言葉にすることができない経験を持ちました。そして私はその状態の中に生きたいのです。私はそれが続くことを望みます。絶対の実在を望みます。絶対の実在があるかもしれません、あるいは大変大きな意味のある経験があるかもしれません。しかし私がそれや他のものにしがみつくなら、私は緩慢な死を育てているのではないでしょうか? そして死は平和ではありません。それゆえ、私は混乱のこの状態の中で、葛藤のこの状態の中で、平和が何であるかとても想像できません。私が想像できるものは正反対のものです。そして私のそうであるものに正反対のものは平和ではありません。それゆえ、テクニックは単に私が私のそうであるものの正反対のものである何かを手に入れるのを助けるに過ぎません。そして私がそうであるものを、意識のみならず無意識のレベルでも完全に調べ、理解することなしに―私自身の全過程を理解することなしに、単に平和を求めることはほとんど意味を持っていません。

ほら、私たちの大抵は怠惰です。私たちは非常に不活発です。私たちは私たちを助ける教師、僧院を欲しがります。私たちは漠然としているけれど、微妙で捕らえどころがないけれど、独力で、私たち自身の調査を通して、私たち自身の絶え間ない気づきを通して、私たち自身の経験を通して見出したいのではないのです。それで私たちは教会、グループに参加します。これやあれの追従者になります―それは一方に苦闘があり、もう一方に惰性の養成があるということです。しかし見出そう、直接に経験しようと本当に望むなら―そして私たちはその経験することが何であるか、他日議論することができます―、そのとき確かに、人はあらゆるこれらのものを捨てて、自分自身を理解することが絶対必要です。自己認識は知恵の始まりであり、それのみが平和をもたらすことができます。

質問: 心はいったい静かであることができるでしょうか、そしてそれは静かであるべきでしょうか?

クリシュナムルティ: 見出しましょう。なぜ心は静かであるべきでしょうか? そして私は心を静かにすることができるでしょうか? 心を静めようとしている「私」は心とは別箇の実体でしょうか? 心を制御しようとしている「私」は誰でしょうか? そして心が静かでなければならないかどうか尋ねている「私」は誰でしょうか? 思考者、質問者、は心の一部はでないでしょうか? なぜ心の中に思考者と思考、「私」と「私でないもの」のようなこの分割があるのでしょうか? なぜこの分割があるのでしょうか? どうか、それが問題ではないでしょうか? 私は心が静かであることができるかどうか、あるいはそれは静かであるべきかどうか知りませんが、見出したいと思います。そしてこの質問を尋ねている実体が誰であるか調べたときのみ見出すでしょう。彼は心と違うでしょうか? 私たちの大抵にとっては、彼は違うのではないでしょうか? 調教者、思考者、制御者、経験者、観察者があります、観察されるものとは別個の、経験とは別個の、思考とは別個の。この分割をもたらしたので、私たちはそのとき、どうやって思考者は彼の思考を制御したらいいかを尋ねます。そしてそのことからテクニックの問題が生じます。

さて、質問者、思考者は思考とは別個の実体でしょうか? どうかこれを調べましょう。議論のためでなく、あなたの考えで私の考えに対立できるようにではなく、この事柄の真実が何であるか共に見出しましょう。まず最初に、私たちは心が静かであるべきかどうか、あるいはそれが静かであることができるかどうかさえ知りません。しかし心が静かさを経験できる前に、あるはそれが静かであることができるかどうか見出すことができる前に、心は思考者と思考の間のこの溝に橋を架けなけれはならないのではないでしょうか? 常に制御しようとしているこの実体、これは正しい、それは間違っていると言う検閲者、裁判官は誰でしょうか? 彼は、彼自身の中に彼が観察しているものと違っているでしょうか? 私たちの大抵にとって、彼は違っています。彼は思考を監視し、導き、形作り、制御し、抑圧している全く別個の実体です。さて、なぜこの実体は違う、別個なのでしょうか? しかしまず最初に、違う実体、低位のものを制御している高位の自己があることにあなたは気づいていませんか?―ほら、そのごたごたのすべて。私たち一人一人の中に、あらゆる思考を案内し、形作り、監視している別個のものがあります。私たちはそのことを知っていないでしょうか?

さて、どうやってその分離した実体は生じたのでしょうか? それは心の結果、思考の結果ではないでしょうか? 明らかにそうです。それは思考と異なりません。もしも私がそれについて考えなかったなら、それは存在できないでしょうが。それゆえそれは思考の産物ではないでしょうか? そして思考の産物であるものが、思考と離れて、精神的実体であることができるでしょうか? それは始めも終わりもない実体、思考の過程を超えた永遠の何か、であり得るでしょうか? それがはじめも終わりもない実体であるなら、私は時間の観点で考えることしかできないのでそれを考えることができません。しかし私はそれを考えるのです。というのはそれを別個に設定したのは私だからです。私はそれに関係しているのです。したがって、それは私自身の記憶の投影、思考の産物です。それは私と別個のものではありません。だが、私はそれを別個に設定しました。なぜ? 私は私の思考は移り変わること、私をめぐるあらゆるものは永久でないこと、死、衰退があることを見ます。あらゆるものは運動の中に、流動の状態にあります。それゆえ私は私の中に永続的である何かがなければならないと言い、そしてその永続的なものを欲しがります。したがって私は、私とは別個の実体、思考者、裁判官を作り出します。すなわち、思考はそれ自身の一部を切り離し、監視し、案内し、形作る永続的な実体として確立します。それで、どうやってこの実体、思考者が隙間に橋を架けて彼の思考と彼自身を統合すればいいかという問題が起こります。私がこの問題を本当に理解し解決するまで、静かな心を持つこと、あるいは心がいったい静かであることができるかどうかを見出すことはできません。

それゆえ、どうか、私の言っていることをただ聞き、観察者と観察されるものがひとつであること、思考者と彼の思考が統合していることができるかどうか見出そうとしてください。それらが分離している限り、心は静かであることができません。私が思考と別箇である限り、私が経験とそれの観察から離れている限り、私が私は静かであると意識する限り、平和はあり得ません、静けさはあり得ません。私がこの基本的な問題を理解し解決するまで、平和を探索すること、あるいは心は静かであるべきかあるべきでないか尋ねることは、ほとんど意味がありません。

それゆえ、私は種々の断片的な状態にばらばらになっています。そしてどうやってそのすべてが一つになればいいでしょうか? 私はそれについて何かすることができるでしょうか? すなわち、思考者、行為者、行為の型の作り手―彼はそれについて何かすることができるでしょうか? そして彼が何かするなら、そのとき、関心の的にされ、吸収されなければならないもう一つの断片があるのではないでしょうか? 型の作り手、思考者、がある限り、彼は統合をもたらすことができるでしょうか? 確かにそれは不可能ではないでしょうか? それゆえ、私は思考者としてのこの分離した実体がどうやって生じるか見出さなければなりません。どうやってそれが、記憶、富、知識、財産、へつらい、侮辱を蓄積するかを見なければなりません―私は全体の物事に気づいていなければなりません。私がますますその反応、その意味に気づいているとき、私はこのとてつもない統合が起こることができるかどうかを見出し始めるのです。心に属するものでない、規律 制御 思考や行為の特定の型への順応の産物でないこの静寂。その状態は何でしょうか? 心がもはやそれ自身を思考者と思考に分離していないとき、それは「静か」と言うことができるでしょうか? そのとき、時間に属するものでない違った種類の運動、「私に」と「私の」に属するものでない違った種類の成り行くことがないでしょうか? 私たちは「私」の活動の内側の反応としてのみ静寂を知っています。しかし「私」に属するものでない静寂がないでしょうか? しかしその状態は、思考者と思考の間の分割がある限り、思考者が静寂を経験しようとしている限り、とても知覚されることはできません。それは思考者が思考であるときのみ生じます。

1952年8月10日

(訳者: N.Goto)2001.12掲載

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