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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第5回)

J. Krishnamurti Ojai 5th Public Talk 16th August 1952

私の写真を撮りたいと切望している方に、そうすることを控えるようお願いしてよろしいでしょうか。私はサインをしませんし、写真のためにポーズを取りたくありません。どうかそれを私に頼むことによってきまりのわるい思いをしないでください。

今晩、この基本的な変化の問題を一緒に話しあうことができるなら、それは非常に有益であるだろうと思います。私たちは大勢であり、それを個人的に討論することはできないので、おそらくあなたは心から私の言うことを聞き、私の言っていることを見出そうとしてくださると思います。私はこの根本的変化はある心の態度、ある意識の状態を必要とすると感じます。そしてそれをじっくり話し、それで問題とその解決の両方を、あなたと私で一緒に理解したいのです。私たちは今までのところ変化の問題を、単に能動的な意識のレベルで取り扱ってきたに過ぎないと私は感じます。変化、心理的な変化が必要なことを私たちは見て、そこでその変化を達成するやり方と手段を見つけることに着手します。そのような追求はなお能動的な意識のレベルに、心の表層のレベルにあるのではないでしょうか? そして時には、もしも私たちが無意識に達して、その隠れた動機・追求・切望をすべて解明したり表面にもたらすことができさえすれば、そのとき、たぶん、きわめて重大な変化が引き起こされるだろうと私たちは感じるのです。私はこの問題に近づくまったく異なるやり方があると感じ、それでそれをためらいがちに、むしろ試験的に、あなたとじっくり話したいと思います。

この問題を十分に考えるために、私たちは意識とは何なのかという問題を調べなければなりません。あなたがそれをあなた自身で考えてきたのか、それとも単に権威が意識について言ったことを引用してきたに過ぎないのかどうなのかな?と私は思います。私はあなたが、あなた自身の経験から、あなた自身によるあなた自身の研究から、この意識が何を意味するかをどんなふうに理解してきたのかわかりません―日常の活動と追求の意識のみならず、隠れた、より深い、より豊かな、そして到達するのがずっと困難な意識。私たち自身の中の、したがって世界の中の根本的な変化のこの問題を議論し、そしてこの変化の中で確かな展望、熱中、熱情、確信、希望、行為のための必要な衝動を私たちに与える必然性を起こさせるつもりなら―私たちがそれを理解するつもりなら、この意識の問題を調べることが必要ではないでしょうか?

私たちは心の表面のレベルの意識が何を意味するか見ることができます。明らかに、それは考える過程、思考です。思考は記憶、言語化の結果です。それは伝達できるように特定の経験を命名すること、記録すること、蓄積することです。そしてこのレベルではまた種々の抑制、制御、認可、規律があります。このすべてに私たちはよく親しんでいます。そしてもう少し深く進むとき、人類の蓄積、隠れた動機、集団的および個人的野心、偏見のすべてがあり、それらは知覚、接触、欲望の結果です。この意識の総体は、隠れたものも開かれたものも、「私」、自己の観念の周りに集中しています。

私たちがどうやって変化をもたらすか議論するとき、一般に表面のレベルでの変化を意味しているのではないでしょうか? 決意、結論、信念、制御、抑制を通じて、私たちが望む、私たちが切望する表面の目的に到達しようと苦闘します。そしてそれに、無意識の、心のより深い層の助けを借りて到達しようと望みます。したがって私たちは自分自身の深みを明らかにすることが必要であると思います。しかし表面的なレベルと、いわゆるより深いレベルの間には絶え間ない葛藤があります―すべての心理学者、自己認識を追求したすべての人たちは十分にそれに気づいています。

さて、この内部の葛藤は変化をもたらすでしょうか? そしてどうやって私たち自身の中に根源的な変化をもたらすか、それは私たちの日常生活の中で最も根本的で重要な疑問ではないでしょうか? 表面のレベルでの単なる変化がそれをもたらすでしょうか? 意識の、「私」の、さまざまな層を理解すること、過去、子供のときから今までのさまざまな個人的経験を明らかにすること、私の父、私の母、私の祖先、私の種族の集団的な経験、私が生きている特定の社会の条件付けを、私自身の中に検査すること―そういったすべての分析が単なる調整でない変化をもたらすでしょうか?

自分の人生の中の根本的な変化が不可欠であることを私は感じます。そしてきっとあなたも感じるに違いありません―単なる反応でない、環境の要求の圧力と緊張の結果でない変化。そしてどうやって人はそのような変化をもたらせばいいのでしょうか? 私の意識は人間の経験の総合計、加えるに現在との私の特定の接触です。そしてそれは変化をもたらすことができるでしょうか? 私自身の意識の、私の諸活動の研究、私の思考と感情への気づきと非難なしに観察するために心を静めることは―その過程は変化をもたらすでしょうか? 信念を通して、理想と呼ばれる投影されたイメージとの同一化を通して変化がありうるでしょうか? このすべては私がそうであるものとそうあるべきものとの間の特定の葛藤を意味しないでしょうか? そして葛藤は根本的変化をもたらすでしょうか? 私は私自身の内側で、そして社会と常に戦っていないでしょうか? 私がそうであるものと私がそうでありたいものの間に進行している絶え間のない葛藤があります。そしてこの葛藤、この苦闘は変化をもたらすでしょうか? 私は変化が不可欠であるのを見ます。そして私の意識の全体の過程を検査することによって、苦闘することによって、修養することによって、さまざまな形の抑圧の実践によって、私は変化をもたらすことができるでしょうか? 私はそのような過程は根源的な変化をもたらすことはできないと感じます。そのことに人は完全に確かでなければなりません。そしてその過程が根本的な変容、深い内部の革命をもたらすことができないなら、そのとき何がそうするでしょうか?

今までのところ私は私の言っていることを明確にしたと思っています。

私たちは自分の現状を変えるための苦闘が革命、内部の変容をもたらさないであろうということがわかるでしょうか? 私がそのことがわかるなら、そのとき次のステップは何でしょうか、何をしたらいいのでしょうか? 私がこのことの真理を見出すことができる前に、私はそのような過程―私が育てられ、条件付けられてきた社会によって私に刷り込まれた制限、道徳、強制、思考―は決して根本的な変化を引き起こすことはできないということに非常に明確でなければならないのではないでしょうか? 私はそれについて非常に明確でなければならないのではないでしょうか? そして私は私たちがそうであるかどうかなと思います。

それゆえ、私たちが私たち自身を変えるために試みてきたやり方はまったく虚偽であることを、自分自身で非常に明確に見ることがとても重要であると思います。というのは、その過程が虚偽であると見えるなら、そのとき、私たちは変化する本当のやり方は何であるかを発見する心の状態の中にあるでしょうから。しかし、私たちが私たちの心の中に、思考その他の私たちの習慣の中に虚偽の内容を見ないなら、そのとき、いったいどうしてもう一つのものを見出すことができるでしょうか? それゆえ、まず最初に、私たちがよく知っている追求がいったい根源的な変化をもたらすことができるかどうか、私たち自身で見出すべきではないでしょうか? 修養、抑圧、制御、分析、無意識を解放するためのさまざまな形の催眠術を経験すること、信念への固執、順応、特定の性質の絶え間ない開発、理想に従うための苦闘―この全過程はまったく虚偽ではないでしょうか? そしてそれが虚偽なら、そのとき私たちはそれをよく見て、それを理解し、それを調べ、完全にそれから自由であるべきではないでしょうか? 確かに、それは完全に私たちから捨てられなければなりません。そしてそのときのみ、新しいものの発見の可能性があるのであり、それが変容をもたらすでしょう。

どうやって根源的な変化をもたらすかを、言葉の上で伝えることは比較的簡単です。しかしその新しい要素、その変化させる性質を現実に経験することはまったく違います。それがあなたは聞かなければならないと私が感じる理由です。単に私が言っていることを聞くだけのためでなく、あなたが実践した修養、あなたが感じた野心、嫉妬、羨望、あなたが従ったさまざまな理想と信念、あなたが通過した分析、あなたが捕えられてきた内省と苦闘―これらのものが何か妥当性を持っているかどうか、あなた自身で見出すために。そしてそれらが妥当性を持っていないなら、そのとき、それらすべてを見抜き、終わりにした心の状態は何でしょうか?

問題を違ったふうに述べましょう。違っているために、変化するために私がどんなに苦闘しても、その苦闘はなお結果を望んでいる、幸福の継続、特定の状態の永続を求めている「私」の一部でないでしょうか? 私は貪欲であるか、嫉妬ぶかいか、あるいはがめついのです。そして私はその意味を見ます。そこでそれに対して自己を律します。それを抑圧します、特定の反応を抑制しようとします。貪欲をほかのものに変えようとするこの欲望、この苦闘、それはなお、よりよい「私」になろうとしている「私」の活動ではないでしょうか? そして「ミー」、「私」、蓄積する過程のこの中心、それはいったい「よりよく」なることができるでしょうか? そして私たちは「私」が不在の、完全に不在のあの瞬間、あの稀な場合を知っています。その中には始めも終わりもない状態、心によって測られることのない幸福の感覚があります。

それゆえ、私たちの問題はこうです。どうやって努力なしに変化をもたらすか? 私たちは努力するのに慣れているのではないでしょうか? 私たちは努力の習慣の中で育てられてきました。これを好まないで、あれに変えるために努力します。努力の習慣の中で育てられてきたとわかって、これを好まないで、あれに変えるために努力します。私は私自身を醜い、利己的、あるいはあなたの言いたい何か、であると見て、それを変えるためにものすごい努力をします。それが私たちの知っているすべてです。さて、このすべてを理解して、心の働きに気づいて、努力をしないことができるでしょうか―そして何が起こるか見ることが? 私たちの努力は常に成功と順応の方向に向かっているのではないでしょうか? 私たちは望む目的に向かって働き、それを達成するために、私たちは順応しなければなりません。それが否定的あるいは肯定的に、さまざまな程度で私たちが知っているすべてです。そしてこの習慣から心を解放することができるでしょうか、すなわち、努力しないで、心が事実を見て、それを変えるために事実に働きかけない状態の中に単にいることができるでしょうか?

私たちが私たち自身を、変わろうという何の欲望もなしに見ることができるなら、そのとき根本的な変化の可能性があります。しかしそのことは極度に困難です。そうでないですか? 自分自身を、それについて何かしようとする欲望なしに観察することは容易ではありません。私たちが楽しい経験を持つとき、私たちはその経験の中にとどまろうと望みます。昨日楽しい経験を持ったなら、私は今日それを続けようと望みます。私の心は昨日のその経験に留まり、そこでそれは過去を取り戻そうとする、あるいは昨日の記憶から未来をつくり出そうとする絶え間ない努力をしています。心がこのすべてに気づいていることはできないでしょうか? そしてあなたが気づいていないなら、静かであることはできません、努力せずにはいられません。あなたは心のさまざまな活動を知らなければなりません。あなたはそれらを意識しなければなりません、心が何をしているか気づいていなければなりません。そして気づいているとき、いかにあらゆる種類の努力がなお何かになろうとする苦闘の、したがって順応の領域内にあるかが見えるとき―そのすべてに気づくとき、努力なしに観察することが、あなたの現状をほかの何かに変えようとする少しの欲望もなしに見ることができないでしょうか?

これを語ること、あなたが何の特定の変化も望まないとき現実に起こることを言葉で伝えること、は極めて困難です。結局、それは私たちが統合という言葉で言っていることではないでしょうか? あなたが心の全過程を見るとき、あなたがさまざまな苦闘、分離、分裂に気づいており、そして中心に、これらの分裂を変えよう、接合しようという何の運動もないとき、そのとき観察者は本質的に静かです。彼は何も変えようと望みません。これらの物事が起こっていることに単に気づいているに過ぎないのです―それは巨大な忍耐を要するのではないでしょうか? しかし私たちの大抵は変化しよう、私たち自身に何かしようと非常に熱心です。私たちは目的を、結果を、待ちきれません。心がそれ自身の活動に、意識のみならず無意識にも気づいているとき、そのとき、あなたは隠れた物事を表面に運ぶために無意識を調べる必要はありません―それらはそこにあります。しかし私たちはどんなふうに観察するか知りません。そして「私はどうやって観察すればいいでしょうか、テクニックは何でしょうか?」と尋ねないで下さい。あなたがテクニックを持つや否や、それは終わりです、あなたは観察しません。中心の静かさはあなたがこのすべてに気づいているときのみ生じます。そしてあなたは、それについて何もすることができないことを見ます。それはそうなのです。心がそれ自身を変えようとする欲望の中で活動的である限り、それはそれ自身の投影の手本であることができるだけです。したがって変容はありません。あなたがこのことの真実を本当に見るなら、そのとき、まったく変化にかかわらない心の状態がそこに生じます―それゆえ変化が確かに起こるのです。

私が言ったように、これは話すのが非常に困難な主題です。それは問題以上のものです。言葉の上やいわゆる知的な理解の問題ではなくて、いかに心の活動が根本的な変化を妨げるかを、自分自身で感じ抜くことの問題です。

私はこれらの質問のいくつかに答えてみましょう。

質問: 私は神秘主義はすべて愚かであると思います。そしてあなたの講話は神秘的な底流を持っているように思われます。これはあなたの意図なのでしょうか、それともあなたの講話に対する私の反応が、排他的に、私自身の先入観に基づく特有のものなのでしょうか?

クリシュナムルティ: 「神秘主義」とはどういうことでしょうか? 隠された、神秘的な何か? インドに由来する何か? あなたの心が不合理なとき、あなたが感じる何か? 預言者や教師が語った漠とした、はっきりしない何か? それとも、それは真実な何か、理性の総括でしかも理性を超えた 言葉の上のものでない何か、心の単なる投影でない経験、でしょうか? 非難や受容なしに、事の真実を見出すことが重要ではないでしょうか?

私たちは経験の中に生きているのではないでしょうか? 私たちは生を経験としてのみ知っています。そしてその「経験」という言葉で私たちは何を意味しているでしょうか? 私たちが認識できるもの、ではないでしょうか? 私たちが命名できる、他の人たちに伝えることができるもの。私はそれを認識することができるときのみ経験を持つのです。さもなければ私は経験を持ちません。一度ある経験を持ったとき、私はそれを記憶の中に蓄え、命名し、特定の用語を与えます。そして類似の経験が生じたとき、私はそれを認識し、それに以前に用いた同じ用語を与えます。それゆえ、私たちが気づくすべての経験は認識に基づいていないでしょうか? そして真理、神、名づけられないその何か、は認識の事柄でしょうか? すなわち、実在は認識し得るでしょうか? それを認識するためには、私は以前にそれの経験を持っていなければなりません。それの以前の経験を持っているので、私は「そこにそれがまたある」と言います。したがって、私が経験することは決して新しくありません。

認識と経験のこの問題を調べることが重要でないでしょうか? 私がある経験を認識することができるなら、それは私がすでにそれを経験したことを示していないでしょうか? したがって私がいま持つ経験は新しくありません。それはすでに古いものです。再経験、再認識されるものは決して新しくなく、常に古いものであるので、それは実在、神であり得るでしょうか? 認識のこの過程は、新しいものがあり得る前に終わらなければならないのではないでしょうか? そして新しいものであるものは言語化されること、言葉にされることができるでしょうか? できないなら、そのとき神秘主義は言葉のレベルを超えた、心の認識を超えたものを経験することでしょうか? 確かに、その状態に、それが何であろうが気づいているためには、私たちはすべてのイメージ、すべての知識を超えなければならないのではないでしょうか? 実在、神、あるいはあなたの呼びたいものを見つけるためには、私たちはキリスト教、ヒンズー教、仏教のシンボルを超えなければならないのではないでしょうか? 心をあらゆる習慣、伝統から、あらゆる個人的および集団的野心から解放しなければならないのではないでしょうか? あなたはこれを「神秘主義」と呼び、それは愚かに響くと言うかもしれません。しかし、心が新しいものを受け取ることができるのは、心が無としてあるときのみです。私たちが道案内をすっかり心に頼るなら、私たちの行為がもっぱら理性に、論理に、結論に、物質的な反応に基づくなら、そのとき、私たちは明らかに冷酷な、無慈悲な世界を作り出すでしょう。このすべてを見て、心が超えて、新しい、始めも終わりもないものを発見することはできないでしょうか?

質問: 私は集中することが極めて困難であるのを見出します。どうかこのことを調べて頂けないでしょうか?

クリシュナムルティ: このことをいっしょに調べ、集中するための努力をすることなしに集中するとはどういうことか、理解できないかどうかを見ましょう。現実に、あなたが集中しようと試みているとき何が起こりますか? 葛藤があるのではないでしょうか? あなたは心を特定の思考に固定しようとしています。そして心はわき道にそれます。それで心の中に、それが集中したいものと、興味のあるものとの間の分離、分裂があります。進行する絶え間ないこの戦いがあります。私たちは心を律しようとします。思考を特定の観念、語句、イメージ、シンボルに集中することを練習します。そして心はいつもさまよっています。それを私たちはよく知っているのではないでしょうか?

さて、心はどうやって集中されればいいのでしょうか? 興味があるなら集中する努力があるでしょうか? そしてなぜさまざまな思考の追跡、欲望の間にこの分離があるのか、それが理解できるなら、そのとき自然な集中があるのではないでしょうか? なぜ私が関心を持とうとしていることと それとは別個の思考との間に、注意のこの分離があるのでしょうか? そして私たちがこの分離に気づいているとき何が起こるでしょうか? 私たちは心がひとつのことにのみ集中し得るように、隙間に橋を架けようとします。

それゆえ、私たちの問題は思考者と思考のことではないでしょうか? 私はひとつの特定の思考を考えようと望み、私の心をそれに置きますが、私のほかの部分はさまよいます。私はそれを引き戻し集中しようとし、そしてそれはまたさまよいます。それで私はこの葛藤を進行させます。私はなぜ思考から離れた思考者があるのか、なぜ思考者は常に思考を制御しよう、それを連れ戻そうとしているのか、決して見出そうとしません。なぜこの分離があるのでしょうか? それが問題ではないでしょうか? 思考とは別個の思考者がないなら、そのとき、あらゆる思考は集中なのではないでしょうか? どうかあなた自身の考えるさまを観察してください、すると見えるでしょう。思考を制御しようとしている、思考について何かしようとしている、それを変えよう、支配しようとしている思考者があります。さて、なぜこの分離があるのでしょうか? そして思考者はいったい彼の思考のすべてを支配することができるでしょうか? 彼は、ひとつの特定の思考に完全に熱中し、ひとつの信念、ひとつのシンボルにまったく同一化しているときのみ、そうすることができます。そのような状態は明らかに狂気に通じないでしょうか?

さて、なぜ思考者はさまざまな思考の間で選択し、ひとつの特別な思考に浸ろうとするのか理解できるでしょうか? それを理解できるなら、それは選択の過程を理解することですが、そのとき、私たちは葛藤のない集中に自然に到達するでしょう。それゆえ、選択の問題、なぜ思考はひとつの思考を選択し、他を退けるかを理解しなければなりません。思考者が特別な思考を選択するとき、種々のほかの思考は常に衝突し、そして思考者は常にそれらを押しのけています。それゆえ選択は集中に導くでしょうか? 心はそれが絶え間なく選択し、除外し、拒絶しているとき、集中されるでしょうか? 集中は心が完全に特定の思考と同一化され得るように心を狭める過程でしょうか? だがそれが私たちが一般に集中と言っていることではないでしょうか? 私たちは心が非常に完全に特定の観念、選ばれた思考に熱中し、そのため他の思考がそれを妨げない、他の反応が入ってこない状態を言います。それなのに、いつも進行している選択の葛藤があるのです。

それゆえ、集中を理解するためには、私たちは最初に選択の問題を理解しなければならないのではないでしょうか? 私たちが一つの特定の思考を選択してそれにひたろうとする限り、他の思考との葛藤は不可避ではないでしょうか? 私たちは、ひとつを選び他を除外するより、むしろあらゆる思考を調べ、気づいていなければならないのではないでしょうか? あなたは「私はそうする時間がない」と言うかもしれません。しかしあなたは衝突する思考の大群に対して苦闘する時間を持っていますか? そしてそれは時間の浪費ではないですか?

あらゆる思考が起こるとき、それを見てください。選択しないで下さい。「これはよい、それは悪い。私はよいものを保持し、悪いものを除外しよう」と言わないで下さい。非難なしに、それぞれの思考にそれが起こるとき気づいていてください。すると排除的でない、選択の結果でない、心を狭めることでない集中が生じるのがわかるでしょう。そのような集中は広大であり、そしてそのときのみ心が静かであることが、心が静寂であることができるのです。静寂は集中の結果ではありません。それは選択の結果ではありません。静寂は種々の活動、苦闘を伴う選択の過程全体を私たちが理解するとき、自発的に起こります。そしてその静寂の中に認識できないものが、過去に属するものではない経験があります。

1952年8月16日

(訳者: N.Goto)2002.01掲載

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