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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第6回)

J. Krishnamurti Ojai 6th Public Talk 17th August 1952

私は思うのですが、苦闘は不可避であり、苦闘を通して私たちは理解に達するだろう、平和を持つだろう、葛藤を呼び起こす諸問題を超えたものを理解するだろうという観念に私たちは慣れてきました。この苦闘、私たちの内部と周囲の葛藤を理解すること、そしてそれが創造的に理解することと人間の幸福の解放のために必要であるかどうか見出すことが重要に思われます。私たちは苦闘を日常生活の、社会的な接触の、私たちの内側・心理的存在の不可欠な部分として受け入れます。そして苦闘、葛藤なしには私たちは停滞するだろうと私たちは思うのです。停滞の、ひとかどの者でないことの恐怖が、目的、ゴール、終わりに向かって努力をしないなら、苦闘しないなら、自分自身を破滅さすという恐怖があります。苦闘なしには、内部の緊張と重圧なしには、究極的な幸福には到達できないと私たちは思います。それゆえ私たちは苦闘を生の一部として受け入れ、そして苦闘を通して私たち自身の中に根本的な変化をもたらすことができると思います。今朝は、できるなら、苦闘が必要かどうか、葛藤が理解、開悟、人間の幸福に寄与するかどうか見出しましょう。

苦闘が特定の方向、特定のレベルで必要であることを私たちは見ます。すなわち、大地との苦闘、客観的な問題を解決する中での苦闘。生存の特定のレベルで、苦闘が必要であると思われます。しかし私たちはその苦闘を心理的領域の中に継続します。そこではそれは「ミー」の貪欲な存続になります。そして苦闘が自分自身の幸福、人間の安寧、そして平和な社会の創造に貢献するかどうか私たちが見い出さなければならないのはそこです。この関係の中での葛藤は複雑な問題です、そうでないですか? 何世紀もの間、私たちはそれを羨望に値するものとして受け入れてきました。それゆえ、問題全体を新たに調べるのは、それを深く調べてそのたくさんある意義を発見するのは非常に困難です。できるなら、今朝 どこまでそれは妥当なのか、そして私たちが人間のハートの及ぶ範囲を理解するつもりなら、苦闘は終わらなければならないのかどうかを見てみましょう。

なぜ私たちは内部で、心理的に苦闘するのでしょうか? 私たちは行為の型に順応するために苦闘します。私たちは特定の感情を外に示すために苦闘します。あるいは、苦闘を通して解決しようと願う問題を持っているからです。私たちは継続、実体としての「私」の存続、を獲得するために苦闘します。さて、この順応しよう、存続しようとするこの苦闘は、信念の中に、理想の中に表われるのではないでしょうか? 私たちは理想を投影し、順応しよう、私たち自身をそれに適合させようと苦闘します。その苦闘を通して、適合を通して、改善しよう、より幸福、より親切であろう、などなどと願って。すなわち、私たちは特定の結果を得ようとする欲望を通じて行動の型をつくり出し、それによって意識の種々の層の間の、絶え間のない内側の あるいは心理的な苦闘の習慣を確立します。私たちは個人的と集団的の両方の問題と苦闘します。問題を持つとき、私たちはそれらを検査し、分析し、可能な限り十分に調べ、このようなやり方でそれらを解決しようと思います。

私たちは心の些細なことと、それらを払いのけ、片付け、超えるために苦闘します。私たちの生は決して終わらない苦闘の連続です。私たちは常に尋ねています。常に見出そうと苦闘しています。私たちは見出すことをし始めますが、次第に特定の型の行為の習慣を確立します。あるいは、もっと深くかかわるなら、苦闘を通して創造的になるだろう、特定の心の平和を獲得するためにこの葛藤の過程を通り抜けなければならないと思うのです。こういったすべては私たちの生、私たちの日常の生活の見慣れた型であり、私たちはそれをより詳細に調べる必要はありません。

さて、苦闘が必要かどうか、苦闘がそんなにも不可欠な根本的な内部の変化をつくり出すことができるかどうか見出したいと思います。私たちが心理的問題、関係の問題を持つとき、なぜ私たちはそれを解決しようと苦闘するのでしょうか? そのような問題が苦闘を通して、葛藤を通して解決され得るでしょうか? 私たちは、その問題に対する特定の結果、特定の答えを望むときだけ、その問題と苦闘するのです。しかし私たちの意図が理解し、問題を超えることであるなら、確かに問題とのこの戦いは、私たちを助けないのではないでしょうか? 私たちが問題を理解できるのは、問題を非難、正当化、あるいは答えを問題の外側に見つけようとする何の欲望もなしに見ていることができるときだけです。心が問題を解決しようと望んで投影した特定の型に私たちが順応しようとするやいなや、苦闘の状態があります。そして私たちが苦闘すればするほど、ますます問題は複雑になります。それゆえ、問題を深く理解するためには、まず最初に、それに対する特定の答えを見出そうとする努力があってはならないことがわかります。

私が問題を持つとき、いつもその問題に対する特定の答えを私は捜していないでしょうか? 私は問題を理解することにかかわらないで、それに対する答えを欲しがっています。それゆえ葛藤が確立されます。ところが、もしも私が本当に問題を理解したいなら、私はその内容全体に気づいていなければなりません。それができるのは、私が特定の答えと結びついていないとき、私が判断していないとき、私が非難していないときだけです。十分に気づいているとき、心は静かです。そしてそのときだけ問題は解決されるのであって、答えを見つけようとする苦闘があるときではありません。一つのレベルでは私たちは答えを望みますが、別のレベルでは望まないのです。私たちは問題に対する特定の解決を捜しますが、それにもかかわらず私たちは、深いところで、特定の解決を求める追求は自分自身の中に葛藤を含んでおり、それゆえ別の方向に問題を増加させるだけであることを知っています。それゆえ、必要なことは問題の洞察であり、それは自分の意識の全体、自分自身の全過程を理解することを意味します。

私たちはそのとき、問題を解決しようとする苦闘はその問題からの自由をもたらさないことを見ます。それどころか、それは問題をいっそう複雑にするだけです。あなたはこれをあなた自身で観察することができます。

さて、生き残ることは苦闘を通して、闘争を通して、葛藤を通してのみ可能であると私たちは思います。けれども、私たちは個人の間に、集団の間に、国家の間に争いがあるところ、生き残る可能性はまったくありません。戦争と大量破壊は不可避です。心理的な安全のために私たちが苦闘している限り、外部の争いがあるに違いなく、それは戦争に帰着します。私たちは心理的に安全であるために、貪欲に生き延びるために、より以上のものであるために苦闘します。そしてこの世界の中にも、あるいは心理的領域の中にも、より以上のものであるために貪欲に苦闘する限り、争いがあるに違いありません。私たちの内側と周囲に絶え間ない戦いがあるに違いありません。

私たちは安全であるために、確かであるために苦闘します。なぜなら、心が不確かであることを、絶え間ない探究、絶え間ない理解、絶え間ない発見の状態にあることを恐れるからです。発見、理解があり得るのは、深い不確かさの状態があるときだけです。しかし心は不確かであることを嫌い、そこで安全であるために記憶から記憶へと進みます。それはそれ自身のためにさまざまな徳性、属性、習慣、それが作動できる行動の型を築きます。意識的にも無意識的にも、私たちの大抵はこの心理的な存続を求めていて、それは物理的な世界の中での存続を否定します。「ミー」、自己、「私」が栄養、力を与えられ、養成されている限り、絶えず続く葛藤があるに違いありません。

それゆえ、それが私たちの状態ではないでしょうか? そして私たちが根本的に変化したいなら、そのとき心がそれ自身の周りに築いた壁―徳、信念、観念の壁、不死を求める欲望など―は、心が真実であるものを完全に自由に発見することができるように、すべて崩壊しなければなりません。

必要なことは、まず第一に、説得や議論なしに私たち自身で、いかに私たちが記憶から記憶へ、知識からより多くの知識へと移動するかを知覚することです。そしてこの移動を私たちは革命と考えるのです。伝統、環境、教育、条件付け、すべて修正することができます―そしてそれがあらゆる外部の革命がしようとしている事です。それが資本主義者、共産主義者、ファシストのどれであろうと。彼らは皆 環境、条件付け、伝統を変えようとします。それはもちろんすることができます。

しかしそれは人を苦しみから解放しないのではないでしょうか? そしてそれが私たちが考えていることです。すなわち、どうやって心を悲しみから解放するか、そしていったい悲しみは苦闘によって解決されるかどうか。悲しみの原因は、それは自己中心的な諸活動を伴なう「私」ではないでしょうか? 私が有徳であろうと苦闘するとき、それは徳でしょうか? 私たちは苦闘を通して、葛藤を通して、修養を通して、影響を通して、教育を通して、徳のある状態を獲得することができると信じるように育てられてきましたが、その全過程は悲惨の原因そのものである「ミー」を強化しませんか? 私がもっと寛大であろうと私自身を律するとき、私は貪欲の源である「ミー」を強化していませんか? 私が誇りなしに謙虚であろうと苦闘するとき、それは自己中心的活動ではないでしょうか?

これは非常に複雑な問題です。そして、それは一つのレベルだけで、いいかげんに取り扱うことはできません。この複雑な問題を見て、そして苦しみの根は「ミー」、「私」、自己、自我―あなたがそれにどんな名前を与えるかは重要でありません―、であることに気づくとき、どうやってその基礎を、どうやってその基盤を打ち壊すことが、破壊することができるでしょうか? どうやってこの自己、「ミー」を苦闘なしに脇にやることができるでしょうか?

それが本当の問題です。そして革命、変化、変容が起きなければならないのはそこです。この変容は葛藤を通してもたらされるでしょうか? 私は「ミー」を、それに種々の規則、強制を課そうとすることによって解決するでしょうか? それともその解決は心がこの複雑な問題全体に気づき、それに関して非活動的になるとき生じるのでしょうか? 何といっても、「ミー」の中心であるのは心ではないでしょうか? たぶん私たちの大抵はこの問題を考えたことがないのです。自己が存在する限り、葛藤、悲惨があるに違いありません。自己が存在する限り、創造的な存在はあり得ません。しかし私たちの大抵は自己を受け入れ、それをさまざまなやり方で養成します。さて、私が自己の性質をよく理解するなら、私たちがその複雑な問題に広く気づくなら、心がそれらについて非活動的であり、そのため それが「ミー」に寄与せず、それに栄養を与えないことが出来ないでしょうか?

私は「ミー」の、「私」の解消に、自己の否定にかかわっています。どうやって目的になることなしに、それは達成されるべきでしょうか? 苦しみ、欲求不満、葛藤は、私の心が意識的あるいは無意識的に「ミー」とその活動に占められている限り、避けられないことが私にはわかります。

さて、どうやってそういったすべては解決されるべきでしょうか? 国家、観念、信念、私たちが神と呼ぶものと私たち自身を同一化させることがそれを解決するでしょうか? そのような同一化は「ミー」の活動ではないでしょうか? それはただの「ミー」の拡張、瑣末事からなる「ミー」から広大なもの、宇宙と称するもの―それはなお私の取るに足らない心の一部です―への逃避です。それゆえ、同一化は「ミー」を解決しません。「ミー」の壁を打ち壊しません。また修養、行為の特定の型の練習も解決しません。また祈り・祈願も、解決しようという絶え間のないねだりも、解決しません。こういったすべてはただ「ミー」を強化し継続を与えるだけです―記憶、経験、快楽、苦闘、苦痛、苦悩の束である「ミー」。

心が「ミー」の解決に活動的である限り、何事も「ミー」を解決しないでしょう。というのは心はそれが作り出した障壁、壁を打ち砕くことができないからです。しかし「ミー」、それは現在を通って未来に向かう過去です、の複雑な構造に気づいているとき、私が外部のみならず内部に、開かれたもののみならず隠されたものにも気づいているとき―私がそういったすべてに十分に気づいているとき、そのとき心は、それは安全でありたい、永続したい、継続性を持ちたいという欲望の中で障壁を作り出したのですが、途方もなく静かになり、それはもはや活動的ではありません。そしてそのときのみ「ミー」の解消の可能性があるのです。

さて、その種の声明を聞く中で、どんなふうにあなたが聞くかが重要ではないでしょうか? なぜなら、結局、これらの講話の中で、私たちは何をしようとしているのでしょうか? 私たちは一組の観念を他のものにつけ足そうとか、一つの信念を他のものの代わりにしようとか、他の教師を捨てて一人の教師に従おうとかしているのではありません。私たちがしようとしていることは、問題を理解すること、それを徹底的に話し合うことです。そしてそれを話し合う中で、あなたは示唆に対して開かれ、含蓄を見ます。それによってあなたはあなた自身でこの苦闘の虚偽を直接に発見します。あなたは変化のために意識的努力をしません。変容は直接の理解があるとき生じます。それゆえ、強制のどんな感覚もなしに、確かな自発性があります。

しかしそれはあなたが何の障壁もなしに、非常に静かに、内部で、聞くことができるときのみ可能です。議論のために、論理的にそれがそうであるために、影響されたために変化するなら、そのときあなたは違う方向に条件付けられただけであり、それは再びその悲しみをもたらします。ところが、あなたが悲しみのこの問題を、表面的に逃げ去るべきものとして理解するのでなく、全体として、総体として理解するなら、そのとき心は非常に静かになります。そしてその静けさの中に、誘導されたのではない、どんな形の強制の結果、欲望の結果でもない変容が起こります。それが不可欠であるその変容です。

そしてその変容は、影響を通しては、知識を通しては可能でありません。知識は私たちの苦しみを解決しません―説明である知識。知識が完全に抑圧されるとき、私たちがもはや知識に導きの手段として頼っていないときのみ、そのときのみ心が名づけられないものを経験する可能性があるのです。それが根本的な変容、革命を引き起こす唯一の要素です。

質問: 偉大な心は何が究極の実在であるかに決して同意できないできました。あなたはどう言いますか? それは一体存在するのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはどう言いますか? それがもっと重要ではないでしょうか? つまりあなたがどう思うかが。あなたは究極の実在があるかどうか知りたいと思い、偉大な心が、あるとか ないとか言ったと言います。それはどんな価値のものなのでしょうか? あなたは見出したいのではないでしょうか? あなたは絶対の実在、変えることができない、永続する、時間を超えているもの、があるかどうか知りたいのです。さて、どうやってあなたは見出すつもりですか? どんな道具であなたは見出そうとしているのでしょうか? あなたは心だけを持っているのではないでしょうか?―時間の結果、記憶の、経験の残渣である心。その心で、あなたは究極の実在があるかどうか見出そうとします。あなたはこれらの事柄について読みました。そしてあなたが読んだことはあなた自身の偏見、意見、異議を強めました。そしてその心であなたは見出そうとしています。出来るでしょうか? そしてこれは聞くのに本当に愚かな質問ではないでしょうか?

もしも私が、究極の実在があるとかないとか言うなら、それはどんな意義を持っているのでしょう? 現実に、あなたの生の中にそれはどんな意義を持つのでしょう? それは単にあなたの特定の概念、あなたの特定の経験、あなたの特定の知識を強めるに過ぎないでしょうに。しかしあなたの観念を強めること、あなたの信念の強化は究極の実在ではありません。そうですね? それゆえ、重要なことは、確かに、あなたが見出すことです。そして見出すためには、あなたの心は創造的な経験の状態になければならないのではないでしょうか? あなたの心は発見することができなければなりません―それはこういうことです。すなわち、究極の実在があるのか、あるいはいつも広大で意義深い一連の経験があるだけなのかについてのすべての知識から、心は完全に自由でなければなりません。

しかしあなたの心は知識で、情報で、経験で、記憶でいっぱいです。そしてその心であなたは見出そうとします。確かに、心が究極の実在があるのかないのか見出すことができるのは、心が創造的に空白であるときだけです。しかし心は決して創造的に空白ではありません。それは常に獲得しており、常に集めており、過去か未来の中に生きています。あるいは直近の現在に集中しようとしています。新しいものが起こり得る創造のその状態に決してありません。心は時間の結果であるので、とても始めも終わりもない永遠のものを理解できません。それゆえ、私たちの仕事は、究極の実在があるかどうかではなくて、心が、記憶である時間から、この蓄積の過程、経験の収集、過去や未来に生きることから、いったい自由であり得るかどうかを探求することです。

すなわち、心は静かであり得るでしょうか? 静けさは修養や制御の結果ではありません。心がこの複雑な問題全体に静かに気づいているときのみ、静けさがあります。そして究極の実在があるのか、ないのかを理解できるのはそのような心なのです。

質問: 何で心は占められるべきでしょうか?

クリシュナムルティ: ここにどんなふうに葛藤が生じるかの非常にいい例があります。あるべきものとあるがままのものとの間の葛藤。最初に私たちはあるべきもの、理想、を確立します。そして次にその型にしたがって生きようとします。心は高貴な物事で、非利己性で、寛大で、親切さで、愛で占められるべきだと私たちは言います。それが型、信念、あるべきもの、ねばならぬものであり、そして私たちはそれに応じて生きようとします。それゆえ、あるべきものの投影と、現実・いまあるものとの間に進行している葛藤があります。そしてその葛藤を通して変化させられるのを私たちは期待します。あるべきものと苦闘している限り、私たちは徳があると感じます。善いと感じます。しかしどちらが重要でしょうか、あるべきもの、それとも あるがままのもの? 何で心は占められていますか?―観念的にではなく、現実に。取るに足りないことで。それで占められているのではないでしょうか?

どんなふうに人が見るかで、野心で、貪欲で、羨望で、噂話で、冷酷さで。心は取るに足りないことの世界に生きています。そして高貴な型をつくり出す取るに足りない心はなお取るに足りないものではないでしょうか? それゆえ、問題は何に心は占められるべきかではなくて、心は取るに足りないことからそれ自身を解放できるか?です。私たちが仮にも調べているなら、私たち自身の特定の取るに足りない物事を知っています。絶え間のない話し、絶えず続く心のおしゃべり、これやあれについての悩み、人々がしていることや していないことについての好奇心、結果を得ようとすること、自分自身の拡大を模索することなどなど。それで私たちは占められています。私たちはそれをよく知っています。そしてそれは変えることができるでしょうか? それが問題ではないでしょうか? 何で心が占められるべきかと尋ねることは単なる未熟です。

さて、私の心が取るに足らなくて、取るに足らないことで占められているのに気づくとき、心はそれ自身をこの条件から解放できるでしょうか? 心はまさにその性質によって、取るに足りないのではないでしょうか? 心は記憶の結果以外の何でしょうか? 何の記憶? どうやって生き延びるかの。特定の性質、徳の開発、経験の蓄積、自身の活動の中でそれ自身を確立することを通して、物理的のみならず、また心理的に。そのことはなお取るに足らないのではないでしょうか? 記憶の、時間の結果である心は、本質的に取るに足らないものです。そしてそれはそれ自身の取るに足りなさからそれ自身を解放するために何をすることができるでしょうか? それは何かすることが出来るでしょうか?

どうかこのことの重要さをわかってください。自己中心的な活動である心が、それ自身をその活動から解放できるでしょうか? 明らかにできません。それが何をしようが、それはなお取るに足りません。それは神について思索できます。それは政治のシステムを考案できます。それは信念を案出できます。しかしそれはなお時間の領域内にあります。その変化はなお記憶から記憶へです。それはなおそれ自体の制限によって束縛されています。そして心はその制限を打ち砕くことができるでしょうか? それとも、その制限は、心が静かであるとき、それが活動的でないとき、それがそれ自身の取るに足りないことを、それらを偉大であるとイメージしてきたかもしれないけれども認識するとき、崩れ落ちるのでしょうか? 心がその取るに足りなさを見て、十分それらに気づいて、それゆえ本当に静かになるとき―そのときのみこれらの取るに足りなさが消えていく可能性があるのです。

しかしあなたが心は何に占めれるべきかを尋ねている限り、教会を建てようが、祈りに行ったり礼拝堂に行ったりしようが、それは取るに足らないことに占められているでしょう。心それ自体がつまらなくて狭量です。そして単に、それがつまらないと言うことによって、あなたはそのつまらないことを解消したのではありません。あなたはそれを理解しなければなりません。心はそれ自身の活動を認識しなければなりません。そしてその認識の過程の中で、心が意識的、無意識的に築いた取るに足りない物事への気づきの中で、心は静かになります。その静かさに中に創造的な状態があります。そしてこれが変容をもたらす要因です。

質問: 私は私が俗物であるのを見出します。私は興奮を好みます。しかし私はそれは悪い態度であると感じます。どうやって私はこの俗物根性を免れたらいいでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは皆すぐれていることを、あるいはすぐれていると感じることを好むのではないでしょうか? 私たちは卓越した、物事の中心にいる友達を持ちたいと思います。偉大な人を知りたいと思います。私たちは皆偉大な人と関係したい、あるいは偉大な人と一緒に見られたい。あるいは自分自身偉大な人でありたいのです、遺伝か自分自身の特定の努力のどちらかによって。事務員から国の最高の人へ、私たちは皆何者かでありたいのです。それで俗物根性、重要の感覚が始まります。そして質問者は何者かである感覚は快いと言うけれど、どうやってその俗物根性を免れればいいか知ろうと望んでいます。

確かに、その俗物根性を免れることは非常に簡単ではないでしょうか? 何者でもなくありなさい。いいえ、皆さん、笑って受け流さないでください。何者でもなくあることは非常に困難です。なぜなら、教育、社会的環境、宗教的教え、すべて私たちを何者かであるよう励まします。世俗的に、あなたは何者かでありたいと思わないでしょうか? よい作家でありたい、あるいは途方もなく上手に書き、一般的で、有名な誰かを知りたいと思わないでしょうか? 第一の絵描き、最大の演奏家、最も美しい人、最も徳の高い聖者でありたくありませんか? 知ること、得ること、所有すること―それが私たちが皆やっきになっていることではないでしょうか? 自分自身に正直であるなら、そうなのです。

私たちの苦闘、私たちの果てしない葛藤はすべてそれを、何者かであることを達成することです。それは大きな刺激、大きなエネルギーを与えないでしょうか? 野心は大きな拍車です。そして私たちは思考のその習慣に捕われます。あなたは容易にそのすべてを否定し、無であることができるでしょうか? それにもかかわらす、私たちは無としてあるのでなければなりません―しかし規律を通じてではなく、強制を通じてではなく。愛することが何であるか知るとき、私たちは無としてあります。しかし自分自身の重要さに関わっているとき、どうして人は愛することができるでしょうか?

それゆえ、「私は無としてあるのでなければならない」と言うことは容易です。しかしそれをもたらすことは巨大な活力、エネルギーを要します。習慣、慣わし、伝統、教育の影響、競争の感覚を打ち砕くには―それらの外殻をすべて打ち砕くには、多量の注意深さ、油断のなさを要します。表面的なレベルだけでなく、広く、深く。しかしあなたが無としてあることを意識していることは何かであることです。無としてあることは招待なしに生じる状態です。そして人は、愛があるときのみその状態を知ります。しかし愛は捜し求めるべきものではありません。それは内部の革命があるとき、自己が重要でないとき、自己が自分の存在の中心でないとき生じます。

1952年8月17日

(訳者: N.Goto)2002.02掲載

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