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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第7回)

J. Krishnamurti Ojai 7th Public Talk 23rd August 1952

私は話しの中で自己と自己自身の内部の思考をあばく事が可能であると思います。そして私たちが今晩、それをする事ができるなら、たぶんそれは価値があるでしょう。というのはそのとき、これは講義、あなたが聞いている講話ではなくて、変容、このそんなにも不可欠な内部の革命の問題を調べる中で人が直面する問題と困難をさらけ出すであろうからです。私たちは私たちの周りに世界の崩壊を見ます。そして私たちは、歳を取るにつれての、私たち自身の途方もない劣化の過程に気づいています。エネルギーの欠如、しっかり確立された習慣の溝への定着、さまざまな幻想の追求など、そのすべては私たち自身の基本的で根本的な変化を理解することに対する障害を作り出します。

この変化の問題を熟考する中で、それを私たちはこの三週間していたのですが、私には誘因の問題が非常に重要であると思われます。私たちの大抵にとっては、変化は誘因を意味します。私は変化への誘因を必要とします。私たちの大抵は誘因、衝動、動機、目的、展望、あるいは特定の信念や、理想郷、主義との同一化を必要とするのではないでしょうか? そして誘因は根本的な変化をもたらすでしょうか? 誘因は単に、理想化もしくは擬人化された、自分自身の欲望の投影に過ぎないのではないでしょうか? あるいはその自己投影を追求することによって、何とか変化をもたらす事ができるという希望のもとに未来にほうり込まれた、自分自身の欲望の投影に過ぎないのではないでしょうか? この変化の問題は非常に深遠ではないでしょうか、そしてそれは社会が提供する、宗教的組織が私たちの前に見せびらかす、表面的な誘因によって解決され得るでしょうか? 基本的な変容は、変化のための論理的理由を与え、よりよい世界、地上の天国、階級差別のない社会という誘因を提供する革命のイデオロギーによって引き起こされ得るでしょうか? 私たちはそれらの誘因と同一化し、それらが約束する物事のために命を捧げます。そしてそれは根本的な変化をもたらすでしょうか? それが問題ではないでしょうか?

あなたがどれほど多くこういったことを考えたか、どれほど深く自分を変えるという問題を調べたかわかりません。しかし、どんな観点から、どんな中心から変容が起こらなければならないかを理解しない限り、単なる表面的な変化は、社会的、経済的にどれほど有益であろうとも、私たちの途方もなく複雑な問題を解決しないだろうとわたしには思われます。誘因、信念、約束、理想郷―私には、これらすべては非常に表面的です。根本的な変化は中心においてのみ、完全な自己放棄、完全な自己忘却、完全な「ミー」、自己の棄却があるときのみあり得るのです。それがなされるまで、どうして根本的な変化が起こり得るのか、私にはわかりません。そしてこの中心における根源的な変化は何かの種類の誘因を通してもたらされるでしょうか? 明らかにそうではありません。それにもかかわらず、私たちの思考のすべては誘因に基づいているのではないでしょうか? 私たちは絶えず報酬を得るために、よい事をするために、高貴な生活を生きるために、進歩するために、達成するために苦闘しています。それゆえ、成長しよう、改善しようと望むこの自己が何であるか、見出す事が重要ではないでしょうか?

自己、「ミー」とは何でしょうか? もしもあなたが尋ねるなら、その質問に対するあなたの答えは何でしょうか? ある人はそれは神の表われ、物質的な形の中に囲まれた上級自我、特定のものの中に表わされた限りないものと言うかもしれません。そしてことによると他の人たちは精神的な実体はない、人は環境の影響に対する一連の反応、人種的、風土的、そして社会的な条件付けの結果以外の何ものでもないと主張するでしょう。自己が何であろうと、私たちはそれを調べ、それを理解し、どうやってそれを中心において変えることができるか見出すべきではないでしょうか?

自己とは何でしょうか? それは欲望ではないでしょうか? どうか、私はこれらのことを、あなたが否定したり受け入れたりするのではなく、観察するために示唆したいのです。なぜなら、意識的な心で非常にたくさん聞くのではなくて、知らず知らずに、楽に聞くことができればできるほど、ますます私たちが問題に一緒に、さらに、より深く出会い、進む可能性があるからです。意識的な心が単に観念、教え、問題を調べるに過ぎないなら、そのとき、それはそれ自身のレベル、それは非常に表面的です、を越えることはできません。しかし、いわば意識的な心でではなく、リラックスした、観察している心、したがって言葉、象徴、イメージを越えたものを見ることができる心で聞くことができるなら、そのとき、私は思うのですが、直接の経験と理解の速くなることの可能性があます。それは意識的分析の過程ではありません。私たちは、観念によって観念に出会うのでないなら、これらの講話でそれをする事ができると私は思います。私が言っている事は覚えなければならない、反復したり、読み返えしたり、他の人たちに伝達しなければならない一組の観念ではありません。しかし私たちが、意識的な、判断するレベルではなく、それを私たちは後ほどすることができます、意識的な心が反対も、理解するための苦闘もしていないそのレベルで、お互いに出会うことができるなら、そのとき、単に言葉上でない、単に知的ではないものを見る可能性があると私は思います。

それゆえ、根本的な変容を必要とする自己とは何でしょうか? 確かに、変化が起こらなければならないのは、表面的なレベルでなく、そこです。そして根源的な変化をそこに引き起こすために、私たちはこの自己が何であるかを、「ミー」を見出さなければならないのではないでしょうか? そして私たちはいったい「ミー」が何であるか見出す事ができるでしょうか? 永続する「ミー」があるでしょうか? それとも、何かを求める永続する欲望があり、それがそれ自身を「ミー」であると確認するのでしょうか?

どうかノートを取らないで下さい、どうか聞いてください。あなたがノートを取る時、本当に聞いてはいないのです。あなたはあなたが聞くことを明日読む事ができるように、あるいはそれを友達に伝えたり、どこかでそれを印刷できるように書き下ろす事によりかかわっているのです。私たちがしようとしていることはまったく違うことではないでしょうか? 私たちは、私たちが自己と呼ぶこのもの、それからすべての活動が飛び出すように思われる「ミー」の中心、が何であるかを見出そうとしているのです。というのはそこに変容がないなら、周辺の、外側の、表面の単なる変化はほとんど意味を持たないからです。

それゆえ、私はこの中心が何であるか、そして本当にそれを打破し、変化させ、引き裂いてしまうことができるかどうかを見出したいのです。私たちの大抵にとって、自己とは何でしょうか? それはさまざまな形の継続性を通して現れる欲望の中心ではないでしょうか? それは獲得を通して、記憶を通して、興奮を通して、象徴を通して、名前を通して、言葉を通して、もっと持とう、経験を永続させよう、豊かであろうという欲望です。非常に綿密に見るなら、記憶、私は何であったか、いま何であるか、何であるだろうかという記憶を除いて、永続する「ミー」のようなそんなものはありません。それはより多くを求める欲望、より大きな知識、より大きな経験を求める欲望、連続する同一性、身体、家、国、観念、人々、との同一性を求める欲望です。この過程は意識的なレベルだけでなく、より深い無意識の心の層でも進行します。それで自己、「ミー」の中心は保持され、時間を通して育てられます。しかしそのどれもが、記憶を通じる以外は、連続性の意味において永久的ではありません。本質的にそれは永久的な状態ではありません。しかし私たちは特定の経験、特定の関係や信念にしがみつくことによってそれを永久的にしようとするのです―意識的でなくて、たぶん、無意識的に、私たちは種々の欲望、切迫、衝動、経験を通じて、それに向かって駆り立てられます。

それゆえ、このすべてが「ミー」ではないでしょうか? それが自己、「私」です。それはいつもより多くを望んでいます。それは絶えずいっそうの経験、いっそうの感情を探り、中心でそれ自身を強化するために徳を養成していて、決して満足しません。したがって、それは決して徳ではなくて、徳の見せかけの中でのそれ自身のただの拡大なのです。それゆえ、それが「ミー」、「私」です。つまり、それは名前、形、そして象徴の背後、言葉の向こうの感情であり、それは獲得しよう、保持しよう、拡大しよう、あるいは少なくなろうというその苦闘の中で、獲得的社会を作り出し、その中に敵対、競争、無慈悲、戦争、その他すべてがあります。

中心に変容が、置換ではなくて根源的な「ミー」の根絶がない限り、どんな根本的変化もありません。これを理解する時、人はどうやって深い内部の変化をもたらしたらいいでしょうか? それが問題ではないでしょうか?―真剣な人にとって。何かの快い幻想、導師、教師、その他のナンセンスのすべてを求めている表面的な人にとってではなく。それゆえ、どうしてその中心がそれ自身を変化さす事ができるでしょうか? 皆さん、変化が起こらなければならない事がわかり、そしてそれがどんなふうに生じるのか知らない人たちは、容易に誘因によって捕らえられるのではないでしょうか? 彼らはイデオロギー的な理想郷によって、大師によって、崇拝によって、教会によって、組織によって、救い主などなどによって気を散らされてしまいます。しかし私がすべての気を散らすものを、それらが中心を変化させないので捨てて、そして中心の変化にのみかかわるとき―私が本当にそれの緊急性、必要性を見るとき、そのとき、これら表面的な修正のすべてはほとんど意味を持ちません。

さて、すべての誘因、追求、欲望を脇においてしまったとき、そのとき、中心を変えることができるでしょうか? あなたと私はこの問題を二人の個人として熟考しているのです。私はグループに話しをしていません。あなたは問題がわかりますね? 明らかに変化がなければなりません。表面的、あるいは抽象的なレベルでなく、まさに中心で。新しい流れが、時間、記憶に属するものでない存在の新しい状態がなければなりません。左翼や右翼の理論や信念の結果でない変化、信じる者や信じない者の条件付けではない変化がなければなりません。私はこの複雑な問題を見ます。そしてどうすれば自発的な変化が中心に起こることが可能でしょうか―強制の結果、単なる置換にすぎない訓練の結果でない変化。あなたがこのように自問したかどうかわかりません。そして自問したなら、何を見出しましたか、どうやってその変化、その変容をあなたはもたらしますか? これらの気を散らすもの、誘因、追求、欲望の理解は単なる言葉上の、知的な、表面的なものでしょうか、それともそれは本当のもの―誘因がもはや何の価値も持たず、それゆえそれらは消えたという意味での本当のものでしょうか、それとも、それらの未熟な誘発を知って、なお、あなたはそれらをもてあそんでいるのでしょうか?

それゆえ、私はまず、問題を見て答えを求めようとする、私の心の状態がどんなであるか見出さなければならないのではないでしょうか? 私は私の言おうとしている事を明確にしているでしょうか? 問題があります。それを私たちは皆知っています。そしてそれを私たちの生活のさまざまな瞬間に十分に気づいています。私たちがその意義、深さを見る機会があります。そして一緒に議論するとき、問題を見ている自分の心の状態はどんなですか? それが重要ではないでしょうか? 問題に接近する時の心の状態が非常に重要です。なぜなら心のその状態が答えを見出そうとしているからです。それゆえ、私は最初に問題を見て、次に私は問題を見る私の心の状態がどんなであるかを見なければなりません。どうか、これらは第一と第二の段階ではありません―問題は全体、トータルな過程です。問題がこのようにして打破されなければならないという事を言葉で述べているだけです。私たちが問題に段階を追って、最初に問題を見て、次に心の状態がどんなであるかを調べる、などなどで近づくなら、私たちは迷ってしまうでしょう。私たちは中心の論点からどんどん離れて行くでしょう。それゆえ、問題に近づくとき、心の状態全体に私が十分に気づいている事が非常に重要です。

まず第一に、私は私が根本的な変化を持つことを望んでいるかどうか、築かれたすべての伝統、価値、希望、信念を砕きたいのかどうかわかりません。私たちの大抵は望んでいません、明らかに。問題に非常に深く、かつ根本的に入っていきたい人はほとんどいません。大抵の人は置き換えで、信念の変化で、よりよい誘因でまったく満足します。しかしそれを越えるとき、私の心の状態はどんなでしょうか? そして心の状態は問題と違うのでしょうか? 問題は心の状態ではないでしょうか? 問題は心と別ではありません。問題をつくり出すのは私の心です。時間の、記憶の結果、「ミー」の座である私の心。それは果てしなくより多くを、不死を、継続を、現世と来世に永続性を熱望しています。それゆえ、心はそれ自身を問題から切り離し、問題を見る事ができるでしょうか? それは理性をもって抽象的に、論理的にそうすることができます―しかし現実に、心はそれがつくり出した、そしてそれがその一部であるものから、それ自身を切り離す事ができるでしょうか? これはなぞなぞではありません、これはトリックではありません。それは事実ではないでしょうか? 私の心は、それ自身の不十分さ、それ自身の貧困を見て、財産、地位、称号、永続する神を獲得する事に着手します。それゆえ、それは「ミー」の中にそれ自身を強化します。「ミー」の中心である心は、「私は変わらなければならない」と言います。そしてそれは善を追求し、悪を拒絶して、それ自身のために誘因をつくり続けます。

さて、そのような心は問題を見て、問題に働きかける事ができるでしょうか? そしてそれがまさに働く時、それはなお誘因の、欲望の、時間の、記憶の領域内にあるのではないでしょうか? それゆえ、私の心が問題をどんなふうに見るかを私が見出す事が重要でないでしょうか? 心は観察されるものから離れた観察者として、問題から切り離されているのでしょうか、それとも心それ自体が問題の総体でしょうか? 私たちの大抵にとって、それが要点ではないでしょうか? 私は「ミー」であるその中心を根源的に、深く、どうやって解消するかという問題を観察しています。そこで心は言います。「私はそれを解消するつもりだ」。すなわち、心、「私」、はそれ自身を観察者と観察されるものとして切り離し、次に観察者は観察されるもの、問題、に働きかけます。しかし観察者は問題の作り手です。観察者は問題から切り離されてはいません。彼自身が問題であるのです。それゆえ、彼はどうすればいいでしょうか? 私たちが本当にこれを感じ抜き、ただ問題と留まり、答え、即座の解答を見つけようとか、教師や本からの引用に手を伸ばそうとか、過去の経験に頼ろうとしないことができるなら、私たちが単純にこの問題全体に 判断なしに気づいていることができるなら、そのとき私たちは答え―言葉のレベルの答えでなく、心によって考案されたのでない解決―を見つけるだろうと私は思います。

それゆえ私の問題はこうです。私はそれがあなたの問題でもあると思います。すなわち、私は根本的な革命が、表面でなく、中心に起こらなければならないことがわかります。表面での変化は意味がありません。よりよく、より高貴になる事、より多くの徳を獲得する事、多くの あるいは少々の財産を持つ事―これらは非常に表面的な心の表面的な活動です。私はそれらの変化を話してはいません。私は中心での変化にのみかかわっています。私は「ミー」が完全に解消されなければならない事がわかります。そこで私は「ミー」とは何であるか調べます。私は哲学的な抽象としてではなく、日々「ミー」に気づきます。瞬時瞬時私は「ミー」が何であるかを見ます―常に見守り、観察し、収集し、獲得し、拒否し、判断し、憎み、打破し、あるいはより安全であるために集合する「ミー」。変化はそこに起こらなければなりません。その中心は完全に根こそぎにされなければなりません。そしてそれはどうやって起こるべきでしょうか? 心は、それは問題の作り手ですが、それ自身を問題から抽出し、次に神の名のもとに、上位自我の名のもとに、理想郷のために、あるいは何か他の理由のために、それに働きかける事ができるでしょうか? そしてそれをするとき、それは中心を解消したでしょうか? 明らかにしていません。したがって、私の問題はこうです。心は論証を通じて、あるいは歴史的過程の知識を通じて、根本的な革命をもたらす事ができるでしょうか? これは重要な質問ではないでしょうか? なぜなら、根源的な変化が中心に起こることができるなら、そのとき私たちの全生活は違う意義を持つからです。そのとき美があります。そのとき幸福があります。そのとき創造があります。そのときまったく違った存在の状態があります。愛があり、それは果てしのない許しです。

それゆえ、その状態は心によってもたらす事ができるでしょうか? 「できない」とあなたが言うなら、あなたは問題に気づいていません。それは非常に速い、非常に表面的な答えです。そしてあなたが「私は神に、こういったすべてを変える何か高い精神的な状態に頼らなければならない」と言うなら、再びあなたは言葉に、象徴に、心の投影に頼っているのです。それゆえ、人はどうしたらいいでしょうか? これはあなたにとって問題ではないですか? この「ミー」の、その暗黒のすべて、その影と光、その緊張とストレスを伴なう複雑な問題を見て、私、観察者は観察されるこのものに影響する事ができるでしょうか? どうか問題を聞いてください、答えを捜したり、それを解決しようとしないでください。ただそれを聞いてください、大地を潤すやわらかい雨のように、それをあなたに染み込ませてください。あなたが本当に問題とともにあるなら、どうやってその変化がもたらされる事ができるかを見ることがあなたの瞬時瞬時の毎日の関心であるなら、そしてあなたが積極的であると思ってきたそれらの物事を否定的に捨てているなら、そのときあなたは、あなたが知ることなしに、そんなにも密やかに生じる要素を見出すだろうと思います。これは約束ではありません。あたかもあなたが理解したかのように微笑まないで下さい。

それゆえ、私たちがしなければならない事は、確かに、単に意識的にだけでなくて特に無意識的に、この問題の全体に気づいている事です。私たちはそれに内側で、深く気づいていなければなりません。表面的な心は理由、説明を与える事ができます。それは論理的に特定の問題をやり抜く事ができます。しかし深遠な問題にかかわるとき、表面的な接近は価値がほとんどありません。そして私たちは非常に深遠な問題にかかわっているのです。それは変化、中心における革命をどうやってもたらすかです。その根本的な変容なしに、単なる表面での変化は意味がありません。そして修正は絶え間ない修正を要します。私たちがこの問題を全体として見ることが、それを味わい、それを嗅ぎ、それを無意識に吸収することができるなら、そのとき私たちは「ミー」の活動とトリックのすべてに精通するでしょう。どんなふうに観察者が彼自身を観察されるものから切り離し、これを拒否し、あれを受容しているかが見えるでしょう。私たちがこの全過程を知れば知るほど、表面の心はますます働かないでしょう。思考は問題の解決者ではありません。それどころか、思考は終わらなければなりません。それは判断し、正当化し、受容し、拒絶する観察者です。そのすべては思考する過程です。思考は私たちの問題をつくり出しました―財産の中に、物事の中に、関係の中に、観念の中に、知識の中に、もっと多くのものを求める思考。そしてその思考で私たちは問題を解決しようとしています。思考は記憶です。そして記憶が静まる事は心が静まる事です。そして心が静かであればあるほど、それはますます深くこの問題を理解し、中心を解決するでしょう。

質問: この絶え間ない自己認識の過程は自己中心性に通じないでしょうか?

クリシュナムルティ: それは通じるのではないでしょうか? あなたが、見守り、改良し、あなた自身について考え、あなた自身にかかわればかかわるほど、ますますあなたは自己中心的なのではないでしょうか? それは明白な行為です。私が私自身を変えることにかかわるなら、そのとき私は観察しなければなりません、私は私がその中心を打ち砕くのを助ける技法を形成しなければなりません。私が意識的に、あるいは無意識的に、結果、成功にかかわっている限り、私が獲得し、また捨てている限り、自己中心性があります―それは私たちの大抵がしていることです。誘因は私が追及している目標です。その目的を得ることを望んでいるので、私は私自身を見守ります。私は不幸です。私は惨めで失望しています。そして幸福で満たされて、完全であることができる状態があると感じます。それで私はその状態を得るために気づくのです。私は気づきを私が望むものを得るために利用します。それゆえ私は自己中心的です。気づきを通して、自己分析を通して、読む事、学習を通して私は「ミー」を解消する事を望みます。そしてその次に私は幸福であり、開悟し、解放されるでしょう。私はエリートの一人であるでしょう―それが私が望んでいる事です。それゆえ、私が結果を得ることにかかわればかかわるほど、ますます思考の自己中心性は大きくなります。しかし思考は常にどうしても自己閉鎖的ではないでしょうか?

それで、何だというのですか? 自己中心性を打破するには、なぜ心が目的、目標、特定の結果を追求するのか理解しなければなりません。なぜ私の心は報酬を追うのでしょうか? なぜ?それは何か他のやり方で作動することができるでしょうか? 心の動きは記憶から記憶へ、結果から結果へではないでしょうか? 私はこれを獲得しました。私はそれを好みません。それで私は他の何かを得るつもりです。私はこの考えを好みません。しかしあの考えはもっとよく、より高貴で、より快く、より満足が行くでしょう。私が考えている限り、私は他の項目で考える事ができません。というのは心は知識から知識へ、記憶から記憶へ動くからです。考えることはその性質そのものからして自己中心的ではないでしょうか? 私は例外があることを知っています。しかし私たちは例外を議論しているのではありません。日常生活の中で、私たちは意識的あるいは無意識的に目的を追求し、獲得し回避し、継続する事を求め、妨害し 安全でない不確かなものを脇にやっていないでしょうか? それ自身の確かさを追求する中で、心は自己中心性をつくり出します。そしてその自己中心性が「ミー」ではないでしょうか? それはそのときそれ自身を見張り、分析します。それゆえ、私たちが結果を追求している限り、自己中心性は存在するに違いありません。個人の中、グループの中、国家や人種の中のどれにせよ。しかし私たちがなぜ心が結果、満足できる結着を求めるのか、なぜ心は確かであることを望むか理解できるなら、そのとき「ミー」として思考を囲い込む壁を打ち破る可能性があります。しかしそれは意識的レベルのみならず無意識のレベルにおける、全体の過程についての驚くべき気づき、収集のない、蓄積のない、「そう、私はこれを理解した。それを明日使うつもりだ」と言うことのない瞬時瞬時の気づき、心に属しない自発性を必要とします。そのときのみ、自己閉鎖する思考の活動を越える可能性があるのです。

1952年8月23日

(訳者: N.Goto)2002.03掲載

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