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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第8回)

J. Krishnamurti Ojai 8th Public Talk 24th August 1952

今朝、私は、昨日の午後議論していた事、変化の必要性と変化することの中に含まれている問題を続けようと思います。私たちの大抵は少なくとも表面的に、そして時にはたぶん深く、外部の世界の中に重要な変化を見ていると思います。そこには非常に多くの悲惨があります。戦争、飢餓、階級差別、俗物根性、富者と貧者の間の驚くべき差、アジアの80ないし90%の人は適当な食事なしに眠りに就きます。一方ここでは十分満腹しています。明らかに完全な変容、重大な変化がなければなりません。そして多くの人がさまざまなやり方でそれをもたらそうとしました。血なまぐさい革命を通して、経済的調整を通して、さまざまな表面的な修正などなどを通して。しかし基本的な革命は完全な自己放棄、「ミー」の、自己の、全面的解消があるのでない限り、起こり得ないように私には思われます。そして昨日、私は、肯定的あるいは否定的に、絶えず自己を主張しようと苦闘しているこの「ミー」の解消に含まれる問題と過程に入っていきました。

今朝私は欲望、そしていったい欲望を変えることができるかどうかを論じたいと思います。というのは私は、根本的な変化の問題を考える中で、欲望は私たち一人一人に立ちはだかる主要な問題の一つであると思うからです。確かに、私たちが欲望、熱望すること、努力すること、どれほど高貴であるにせよ特定の対象を意識的あるいは無意識的に追求することの全過程を理解するまで―私たちがその過程を調べて理解するまで、単なる表面的な修正や暴力的革命はほとんど意味を持たないでしょう。そして再び、昨日申し上げたように、どうかこれをあなたが聞いている講話とみなさないでください。あなた自身の心の中で、一つの考えに別の考えで対抗し、私と議論しないでください。私たちがしようとしていることは、この欲望の過程に含まれている複雑な問題を見る事です。私は個人としてのあなたに話しているので、こういったすべてに特に関心を持っていない人々の大きくて異質の集団に話しているのではありません。私たちは問題を反目なしにもう一人の人に対する一人の個人として、どこまで調べることができるか、どれほど深く私たち自身の中に根本的な変容をもたらすことができるかを見るために討論しているのです。それをあなたとじっくり話す中で、私は単に問題を、そしてどんなふうにそれに接近できると私が感じるかをさらけ出しているに過ぎないのです。そして私は、理解しようと意識的に努力して聞くよりむしろ、いわば無意識的に聞くことがずっと重要であると思います。

私たちの大抵にとって、欲望はきわめて問題です。財産、地位、権力、慰安、不死、継続を求める欲望、愛されよう、永続的な、満足する、長続きする何か、時間を超えた何かを持とうという欲望。さて、欲望とは何でしょうか? 私たちを駆り立て、屈服させるこのものは何でしょうか?―それは私たちが持っているものや私たちの現状で満足すべきだということではありません。それは単に私たちが望むものの反対のものに過ぎません。私たちは欲望が何であるか見ようとしており、そしてそれに、おそるおそる、ためらいがちに入って行く事ができるなら、欲望の一つの対象を欲望のもう一つの対象で単に置き換えるにすぎないのではない変容をもたらすだろうと私は思います。しかしそれが一般に私たちが「変化」という言葉で意味している事ではないでしょうか? 欲望の一つの特定の対象に不満足なので、私たちはその代わりをするものを見つけます。私たちは欲望の一つの対象から、より高く、より高貴で、より洗練されていると考える別のものに絶えず移っています。しかし、どれほど洗練されていても、欲望はなお欲望です。そしてこの欲望の移動の中に、終わる事のない苦闘、対立物の葛藤があります。

それゆえ、欲望が何であるか、そしてそれを変容させることができるかどうかを見出す事が重要ではないでしょうか? 欲望とは何でしょうか? それは象徴とその感情ではないでしょうか? 欲望はその達成の対象に伴なう感情です。象徴とその感情なしに欲望があるでしょうか? 明らかにありません。象徴は私に感情を与える、私にそれが好きとか嫌いとか感じさせる絵、人、言葉、名前、イメージであるかもしれません。感情が快ければ、私は得よう、所有しよう、その象徴を持ち続け、その快楽にとどまろうと望みます。次から次へと、私の傾向と強烈さにしたがって、私は絵、イメージ、対象を変えます。快楽の一つの形で私は満腹し、疲れ、うんざりし、それゆえ新しい感情、新しい観念、新しい象徴を捜します。私は古い感情を拒否し、新しい言葉、新しい意義、新しい経験と共に新しい感情を取り上げます。私は古いものに抵抗し、より高級で、より高貴で、より満足がいくと考える新しいものに屈服します。それゆえ、欲望の中に抵抗と屈服があり、それは誘惑を含んでいます。そしてもちろん、特定の欲望の象徴に屈服することの中に、常に挫折の恐怖があります。

私が私自身の中の欲望の全過程を観察するなら、私の心がいっそうの感情を求めて目指している対象が常にあること、そしてこの過程の中に入り組んだ抵抗、誘惑、統制があることを見ます。知覚、感情、接触、そして欲望があり、心はこの過程の機械的な道具になり、その中で象徴、言葉、対象が中心であり、その周りにすべての欲望、すべての追求、すべての野心が築かれます。そしてその中心が「ミー」なのです。そして私はその欲望の中心を解消できるでしょうか?― 一つの特定の欲望、一つの特定の嗜好や渇望でなくて、欲望、懇望すること、希望することの全構造。その中に挫折の恐怖が常にあるのです。私が挫折すればするほど、ますます私は強さを「ミー」に与えます。希望すること、あこがれることがある限り、常に恐怖の背景があり、それは再びその中心を強めます。そして革命はその中心でのみ可能です。表面ではなく。それは単に気の散る過程、有害な行為に導く表面的な変化に過ぎません。

それゆえ、この欲望の全構造に私が気づいているとき、私はいかに私の心が死んだ中心、記憶の機械的な過程になったかを見ます。一つの欲望に疲れて、私は別のもので私自身を満たそうと自動的に望みます。私の心は常に感情の見地から経験しており、それは感情の道具です。特定の感情でうんざりして、私は新しい感情を求めます。それは私が神の認識と呼ぶものであるかもしれません。しかしそれはなお感情です。私はこの世とその苦しみはもうたくさんです。そして私は平和、永続する平和を望みます。それで私は瞑想し、制御します。私の心をその平和を経験するために形づくります。その平和を経験することはなお感情です。それゆえ私の心は感情、記憶の機械的道具、死んだ中心であり、それから私は行動し考えます。私が追跡する対象は、象徴としての 心の投影であり、それから心は感情を引き出します。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家主義」という言葉―これらはすべて、心に感情を与える象徴で、それゆえ、心はそれらにしがみつきます。あなたと私が知っているように、あらゆる感情は終わります。それで私たちは一つの感情から別のものに進みます。そしてどの感情も一層の感情を求める習慣を強化します。それゆえ、心は単に感情と記憶の道具に過ぎなくなり、その過程の中に私たちは囚われます。心が一層の経験を求めている限り、それはただ感情の見地で考えることができるだけです。そして自発的で、創造的で、活力ある、驚くほど新しいかもしれないどの経験も、心は即座に感情に還元し、そしてその感情を追跡します。その感情はそのとき記憶となります。したがって経験は死に、心は単に過去もののよどんだ貯水池になるに過ぎないのです。

私たちがいやしくもそれを深く調べたなら、私たちはこの過程に精通しています。そして私たちは超える事は不可能であるように思います。そして私たちは超えたいのです。なぜならこの果てしないお決まりの手口、この感情の機械的追求に疲れているからです。それで心は真理の、神の観念を投影します。それは重大な変化とその変化の中で主要な役割を演じることなどなどを夢想します。このゆえに、決して創造的な状態はありません。私自身の中に、欲望のこの過程が進むのを私は見ます。それは機械的で反復的です。それは心をお決まりの手口の過程の中に保ち、それを過去の死んだ中心にします。その中に創造的な自発性はありません。そしてまた、創造の、心のものでない、記憶のものでない、感情の、欲望のものでない突然の瞬間もあります。そこで、私はどうすればいいでしょうか?

昨日言ったように、私が言っている事を聞き、私が間接的に伝えようとしている事に単に気づいているだけであることが重要だと私は思います。私は思考の特定の型をあなたに納得させようとか、印象付けようとしているのでありません。それはただ表面的に考える事、それゆえ有害な行動に通じるだけです。私が言っている事がどこまで真実であるかを見るために、あなたが聞いているとき、判断なしにあなた自身の考える過程に気づいていてください。すると、あなたが真実である何かに気づくやいなや、それに機会を与えるなら、それは作用するでしょう。しかしあなたが真実であるものを、それをしてあなたに作用させないで聞くなら、それは毒になります。それは悪化の状態をもたらします。意識的あるいは無意識的に、私たちの大抵は何が真実か見出す事を避けます。私たちは常習的でない、思考の伝統的追求でないものを聞きたくないのです。それゆえ、示唆してよろしければ、どうか聞いてください。納得させられるのを期待してではなく、あなた自身の心がどう働くか見出すために聞いてください。私がどんなふうにいま考えているか、どんなふうにいま行動しているかを見るやいなや、私は他の人が私のいまそうであるものを私に納得させることを望みません。自己認識は知恵をもたらします。そして知恵は納得、意見、情報、知識ではありません。それは心では測れない何かです。私が伝えようとしているすべては私たち自身の思考する過程、そしてどうやってそれに気づいているかです。そしてそれ自体に気づいている過程の中で、心は言葉の向こうに、象徴とその感情の向こうに横たわる意義をつかまえます。

それゆえ、私たちの問題は欲望を理解することです―それがどこまでいくべきかや、どこでそれが終わるべきかではなく、欲望、渇望、熱望、燃える欲求の全過程を理解すること。私たちの大抵は物をほとんど所有しない事が欲望からの自由を示していると思います―そして私たちはわずかなものしか持たない人を如何に崇拝することか! 腰布、法衣は欲望から自由であろうという私たちの欲望を象徴します。しかしそれも再び、非常に表面的な反応です。あなたの心が無数の欲望、信念、苦闘で不自由にされているとき、なぜ外部の所有をあきらめるという表面的なレベルで始めるのですか? 確かに革命が起こらなければならないのはそこです。どの程度所有するかや、どんな服を着るかや、どれほど多く食べ物をとるかではなく。しかし私たちの心は非常に表面的なので、これらのことによって印象付けられるのです。

それゆえ、あなたの問題と私の問題は、心がいったい欲望から、感情から、自由であることができるかどうかを見ることです。確かに創造は感情と何の関係もありません。実在、神、あるいはあなたの呼びたいもの、は感情として経験され得る状態ではありません。あなたが経験を持つとき、何が起こりますか? それはあなたに特定の感情、高揚や意気消沈の感情を与えました。当然、あなたは意気消沈の状態を避けよう、やめようとします。しかしそれが喜び、高揚の気分なら、それを追求します。あなたの経験は快い感情を造り出しました。そしてあなたはそれをより多く望みます。そしてより多くは心の死んだ中心を強化します。それはいつも一層の経験を渇望しています。このゆえに心は新しい何も経験する事ができません。それは新しい何かを経験する事が不可能です。なぜならその接近は常に記憶を通して、認識を通してであるからです。そして記憶を通して認識されるものは真理、創造、実在ではありません。そのような心は実在を経験することはできません。それは感情を経験できるだけです。そして創造は感情ではありません。それは瞬時瞬時、絶えず新しいものです。

さて、私は私自身の心の状態を理解します。私はそれが感情と欲望の道具であること、いやむしろ、それは感情と欲望であること、そしてそれは決まりきった手口に機械的に囚われていることを見ます。そのような心は新しいものを受け取ったり、感じきることは決してできません。というのは新しいものは明らかに感情を超えたものであるに違いないからです。感情は常に古いものです。それゆえ、感情を伴なうこの機械的な過程は、終わらなければならないのではないでしょうか? より多くを望むこと、感情を伴なう象徴、言葉、イメージの追求―そういったすべては終わらなければなりません。そのときのみ、新しいものが常に生じることができるあの創造性の状態の中に心があることができるのです。あなたが言葉によって、習慣によって、観念によって催眠されることなしに聞き、常に心に衝突する新しいものを持つ事が如何に重要であるかを見るなら、そのとき、たぶん、あなたは欲望の過程、決まりきった手口、退屈、経験を求める絶え間ない渇望を理解するでしょう。そのときあなたは欲望が、本当に求めている人にとっては、生の中に非常にわずかな意義しか持たない事が見え始めるだろうと思います。明らかに、一定の物理的必要があります。食事、衣服、住処、などなど。しかしそれらは決して心理的な欲求、心が欲望の中心としてそれ自身をその上に築くものになりません。物理的必要以上は、どんな形の欲望―偉大さを求める、真理を求める、徳を求める欲望―も心理的な過程となり、それによって心は「ミー」の観念を築き、それ自身を中心で強化します。

それゆえ、あなたがこの過程を見るとき、本当にそれに、対立なしに、誘惑の感覚なしに、抵抗なしに、それを正当化したり判断することなしに気づいているとき、そのとき、あなたは心が新しいものを受け取る事ができること、そして新しいものは決して感情ではないことを発見するでしょう。したがってそれは、決して再認識され、再経験されることはありません。それは存在の状態であり、その中に招待なしに、記憶なしに、創造性が生じます。そしてそれが実在です。

質問: 私はたまたま、かなりの資産の成功した実業家です。私はこの間の日曜日に偶然、あなたの講話を聞きに訪れました。そして私は直ちに、あなたの言っていることが完全に真実であることがわかりました。それは私の中に真剣な葛藤をつくり出しました。というのは私の背景と仕事全体は私が今欠かせないと実感する生の種類とまったく反対であるからです。私はどうやって仕事に戻る事ができるのかわかりません。私はどうすればいいでしょうか?

クリシュナムルティ: 私はあなた方の何人かが笑ったのはなぜかなと思います。それは同じようなあなたの、私たちの葛藤を覆い隠す神経質な反応だったのでしょうか? この人は真剣な質問を尋ねました。そしてあなたは笑いと共にそれを払いのけます。彼は関心があります、どうすればいいか知ることを望んでいます。彼はどうすべきでしょうか? 彼が真剣であり、言葉によって、快い朝の単なる感情によって動かされるのでないなら、明らかに彼は思いきって行動しなければならないのではないでしょうか? 彼は仕事を諦めなければならないかもしれません。なぜなら彼が実感した事は仕事より、金をもうけることより、地位、名声、家族、財産よりずっと重要だからです。彼は彼の望む事でない、彼の生ではないと実感する仕事に戻る事ができるでしょうか? しかし私たちは普通、この苦闘、この不満を言葉によって、説明、正当化によって覆い隠し、以前の状態にそっと戻るのです。私たちは実業家、あるいはそういったものとして過ごしてきた生が無価値で、堕落しており、破壊的であると実感します―それを実感します。それを骨身で感じます。しかし行動し、考え抜き、私たちが考える事を追跡するかわりに、私たちは結果を恐れます。それで実感した事と社会の独裁にしたがってするはずの事の間に進む、果てしない葛藤があります。それゆえ私たちは心身相関の病を招きます。心の劣化、心の奥での葛藤を招きます。あなたは本物の何かが、真実であるとわかる何かが動くのを感じました。しかしあなたは金をもうける機械や、典礼主義や、そういったものの中に囚われます。あなたが十分にそれを理解し、ただ言葉の上でそれを受容するだけでないなら、そのとき思い切った行動が、古い習慣からの決別があるでしょう。しかしほら、その理解に達する人は今までほんの僅かしかいません。私たちは年をとります。私たちの習慣は定着します。私たちは安楽を望みます。私たちは人々が評価してくれる事を、愛してくれる事を、私たちが慣れている行動のパターンで親切であることを望むのです。それゆえ、思い切った行動をするかわりに、私たちは葛藤を覆い隠し、言葉の中に、説明の中に見失ってしまうのです。あなたが所有に、責任に愛着すればするほど、関与する事はますます巨大になり、行動する事はますます困難です。しかしあなたがそれは成されなければならないということを実感するなら、事の終わりがあり、あなたはそれをするでしょう。何が真実であるか知覚するとき、その知覚そのものが行為です。

質問: すべての刺激、感情、希望、信念を取り去ったあと、自分はまったくの無気力の感覚と共に残されます。思考者はこの無気力をどうする事もできないとあなたは言うので、自分は挫折したように感じます。どうやって無気力を、それに何かする事なしに超えればいいでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちの大抵がこのように感じると思います。そうでないですか? 私たちは意識して私たち自身から信念、希望、感情を取り除きます。なぜなら私たちはより大きな希望、より多く刺激する感情、より多く満足させる信念を望むからです。私たちは希望の、信念の、感情の意義を全体の過程として見ないのです。私たちは特定の信念、感情、希望が愚かで、空虚であるのを、意味もなく単に見るに過ぎないのです。そこで私たちはそれらを脇にやり、私たち自身から取り除いたり、特定の協会をやめたりするのです。より多く獲得するためにそれ自体を取り去ることの中で、当然心は無気力になります。それはなお希望の、信念と感情の型の中で作動しているのです。それゆえ、それは挫折したように感じます。それで問題が起こります、「どうやって私は挫折感から自由であればいいのだろうか?」。信念の全過程を理解する事なしに、信念は安全でありたい、確かでありたい、観念の中に、感情の中に隠れ家を得たいという欲望です―そのすべてを理解すること、それを調べること、その含み、ニュアンスのすべてに気づくことなしに、私たちは一つの信念を取り除き、他のものを追求します。ところが、いかに心が信念を作り出してそれに執着するか、いかにそれがいつも経験を通して感情を果てしなく求めているかに気づくなら―そのことの全意義を見るなら、そのとき挫折感の問題はありません。そのとき心は無気力ではありません―心は油断なく気を配っています。心は見出すために、それ自身の安全の中に潜んでいる場所を発見するために絶えず見守っています。心はそれ自身の過程を絶え間なく観察し、それ自身に十分に気づいています。そしてどうしてそのような心が無気力であり得るでしょうか? どうしてそのような心がいったい挫折したように感じる事ができるでしょうか? あなたは特定の感情、特定の信念、特定の希望の中にあなた自身を満たそうと望むので挫折したように感じるのです。満たそうという欲望のあるところ、恐怖があります。それが挫折感です。

感情、幸福、安全、確実を求めるその欲望の中に、心は同時にそれらがないだろうという恐怖を作り出します。それ自身の投影を追跡する中で、それは満たされる事がない、確かでないという恐怖に囚われます。私たちが理解しなければならないのはこの全体の過程です。そして理解は私たちがこの過程に気づいているとき、それを判断なしに観察するとき生じます。心は行為しているそれ自身を観察します。心を観察しているあなたのようなそんな実体はありません。心はそれ自身に、その思考のすべてに、その隠れたそして明らさまな追跡に気づいています。そのような心は決して無気力ではあり得ません。なぜなら達成の、成功の、服従の一瞬も決してないからです。心が無気力になり、うんざりするのは、心が成功しようというその欲望に従う時だけです。感情を通して、いっそうの経験を通してそれ自身を拡大することを求めていない心は、挫折を感じる妨害、障害を持っていません。あなたと私がこの過程を理解できるなら、心が日常生活の中で瞬時瞬時、作動しているそれ自身を見る事ができるなら、そのとき、無気力の、挫折感の問題は完全に消えるであろうと私は思います。

質問: 私は神を経験しました。そして私自身で神が存在する事を知っています。それは信念ですが、単なる逃避ではなくて現実の経験に基づいています。私は先週、初めてあなたの言う事を聞き、あなたがすべての信念は障害であると言うとき、あなたは間違っていると感じました。直接の経験に基づいた信念は、実在や神の理解に役立つのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: 信念とはどういう意味でしょうか? 確信? どうか、私はそれを辞書にしたがって定義しようとしているのではないのです。あなたは信念を持っています。それらは何に基づいていますか? 経験に。そうですね? そしてあなたの経験はあなたの伝統、あなたの背景、あなたの教育、あなたの社会の影響の結果です。あなたの環境の影響があなたの信念を条件付けます。あなたはキリスト教徒として育てられ、そしてその伝統にしたがって、その背景にしたがって信じます。別の人は神がタブーである、ばかげた 不合理な 実在しないものとしてみなされる社会の中で育てられます。それで彼もまた彼の背景にしたがって信じます。それゆえ、彼が彼の経験にしたがって経験するように、あなたはあなたの背景にしたがって経験します。あなたはあなたが無意識的にまた深く教化されたものを経験します。あなたは子供のころから教え込まれ、植え付けられてきた特定の思考のパターンにしたがって教育されました。そして当然、あなたはそのパターンにしたがって神を経験します。そしてあなたの経験はそのときあなたにとって実在になります。そしてあなたはそれはもはや単なる信念の事柄ではなくて、知識に、確信に、真理に基づいていると言います。そのような信念はあなたが神と呼ぶものをさらに経験する事を助けるでしょうか? もちろん助けるでしょう。しかしあなたがあなたの条件付けにしたがって経験するもの―それは神でしょうか? それは真理でしょうか? そしてその経験はあなたの信念、それはあなたの条件付けです、を強めないでしょうか? あなたはこれは逃避ではないというかもしれません。しかしあなたはあなたの条件付けにしたがって反応していないでしょうか、別の人が彼の条件付けにしたがって反応するように? 

それゆえ、重要な事は、あなたが神を信じるか信じないかではなく、心をその条件付けから解放すること―そしてそれから発見することです。もし、それ自身の条件付けからそれ自身を解放することなしに、心が神があるとかないとか主張するなら、それはどんな意義を持っているでしょうか? それゆえ、心はその条件付けから、すなわち、その自己投影、その欲望、確実性 安全 それ自身の継続を求めるその切望からそれ自身を解放しなければなりません。国家においてでも神においてでも。そのときのみ絶対の実在が、あるいは一連のいつも拡大して行くいっそうの意義ある経験があると言うことができるのです。確かに、それが重要な点です、あなたの信念があなたの条件付けを強めるかどうかや、あなたの経験が神に属するものであるかどうかではなく。心が神を認識するやいなやそれは神ではありません。言葉はものではありません。記憶は実在ではありません。名づけられないものは認識される事が出来ません。それは感情ではありません。それは瞬時瞬時生じる、完全に異なったものです。したがって継続性はありません。私の心が継続性を求めている限り、それはそれ自身の欲望によって条件付けられています。したがってそれはそれに継続性を与えるものを経験します。それをそれは神と呼ぶかもしれませんが、しかしそれは神ではありません。それゆえ、この問題の中で肝要な事はどうやって心はそれ自身の背景、条件付けからそれ自身を解放できるかということです。そして自由であることがいったいできるでしょうか? それが問題です。継続する信念や不信、あるいは信念があなたを助けるかどうかではなく。私たちは神が私たちの取るに足らないこと、野心、追求に対して私たちを助けるように望みます。そのような神は助けではなく障害です。

それゆえ、私たちの問題はこうです。心はそれが育てられ、教育され、制御され、形作られてきたその条件付け、背景からそれ自身を解放することができるでしょうか? 自由であるためには、まず束縛されていることに気づいていなければなりません。心はそれ自身の条件付けに、意識的なものにも隠された、潜行的な条件付けにも気づいていなければなりません―それは分析の過程ではありません。すなわち、心の一部が心自体を分析するなら、分析を通して問題に深く入って行くなら、心をその条件付けから解放することはできないからです。心はそれがその条件付けの全過程に、そしてなぜそれがこの条件付けを受容するかに気づいているときのみ、それ自身を解放する事ができるのです。そしてあなたはそれに気づいている事ができます。それはそんなに難しくはありません。心が自然との、人々との、観念との、物事との関係の中でその条件付けに絶えず気づいているなら、そのとき存在の全体が、鏡であり、その中にあなたは分析なしに発見することができるでしょう。分析は一時的にわずかな困難への扉を開くかもしれません。しかし心をその背景から、条件付けから、伝統から解放しそれを新しくする事―それは私たちが苦闘なしに瞬時瞬時気づいているとき、努力なしに、心の回廊、隠れ家のなかに何が起こっているかを見るときのみ可能です。心が新しく、自由であるときのみ、名づけ得ぬもの、はじめも終わりもないものを受け取る事ができるのです。

1952年8月24日

(訳者: N.Goto)2002.04掲載

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