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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第9回)

J. Krishnamurti Ojai 9th Public Talk 30th August 1952

この講話にかなり定期的に出席した方は、私たちが非常に複雑な変化の問題を考えてきたことがお分かりでしょう。今晩は私は、できれば、変化をもたらすパワー、そしてそれが何であるかを議論したいと思います。そしてそのパワー、そのエネルギー、あるいはあなたの呼びたいもの、を直接経験することがあり得るかどうか。私たちはある種のエネルギー、力、あるいはパワーが変化のために必要であることをよく理解していると私は思います。政治的に私たちはそれを非常にはっきりと見ます。極端な形の圧制があり、そしてまた、組織のパワーを通して変革をもたらすといういっそう説得力のある方法もあります。私たちは大抵何かの形の強制、政治的、宗教的、あるいは社会的な強要に頼ります。なぜなら私たちは惰性に囚われ、怠惰で、無精であるからです。私たちの大抵にとって、変化は危険を意味します。それゆえ、人間がきちんとまともに行動できる世界を作り出すつもりならばそんなにも不可欠な、この心理的革命を通り抜けたくないのです。

私たちはこの変化の問題への種々の接近を考えてきました。そして私たちはこの変化をもたらすものは何であるかに関しての中心的な問題に不可避的に到達すると私には思われます。そのパワー、そのエネルギー、その力は何でしょうか? 強制、自己訓練、何かの強要は抵抗を作り出します。そして抵抗は確かにエネルギー、パワーを作り出し、それはある形の変化をもたらします。あなた自身の人生の中で、何かに抵抗すればするほどますますエネルギーを持つことに、気づいたことがあるに違いありません。訓練すればするほど、集中し焦点を合わせれば合わせるほど、パワーはますます大きいのです。しかしそれは基本的な変化をもたらすでしょうか? それはこの内部の、心理的な革命のために必要なパワーでしょうか? 反対のものの養成はこの絶対必要な変容をもたらすでしょうか? 私が憎むなら、愛の養成が根本的な変化をもたらすでしょうか? 憎悪の反対はなお憎悪の範囲内にあるのではないでしょうか? 善は悪の反対でしょうか? 私は善を見出すために悪を通り抜けなければならないでしょうか? 善は何かの形の強制、何かの形の訓練、強要、抑圧の結果でしょうか? 善、思いやり、親切の養成は単に「ミー」、自己、を強化するに過ぎないのではないでしょうか? すなわち、私が憎むとしましょう。そして、その意味を理解して、私は善、親切をせっせと養成します。その過程は「ミー」、自己を強化しないでしょうか? 善の養成は明らかにある変化をもたらします。パワーがあります。エネルギーがあります。しかし確かに、その変化はなお「ミー」の、自己の、心の範囲内にあるのではないでしょうか? そして私が指摘したように、善を養成し、あなたが善であることを意識するようになればなるほど、ますます悪があるのです。というのは悪は自己の結果であるからです。

このすべてを理解するとしましょう。そしてまた根本的な変容の必要も見えます。どうやってその革命をもたらせばいいでしょうか? その革命をもたらすパワー、創造的なエネルギーは何でしょうか、そしてどうやってそれは解放されればいいのでしょうか? あなたは訓練に努めました。あなたは理想と種々の思索的な理論の追求に努めました。すなわち、あなたは神である、そしてその神性を理解すること、アートマン、至高のもの、そういったものを経験することができるなら、そのときその理解そのものが根本的な変化をもたらすであろうといったことを。そうなるでしょうか? 最初にあなたはあなたがその一部である実在があると仮定します。そしてその周りに種々の理論、思索、信念、信条、仮定を築き上げ、それにしたがってあなたは生きます。そしてそのパターンにしたがって考え、行動する事によって根本的な変化をもたらそうと期待します。そうなるでしょうか?

あなたはいわゆる宗教的な人たちの大抵がするように、あなたの中に基本的に、深く、実在の精髄がある、そして徳の養成を通して、種々の形の訓練、制御、抑制、克己、犠牲を通してその実在に触れる事ができるなら、そのとき必要な変容がもたらされるだろうと思い込んでいるとしましょう。この思い込みはなお思考の一部ではないでしょうか? それは条件付けられた心、あるパターンにしたがって特定のやり方で考えるように育てられた心の結果ではないでしょうか? イメージ、観念、理論、信念、希望を作り出して、次に、この根本的な変化をもたらすために、あなたの創作物に頼るのです。

それゆえ、人はまず最初に「ミー」の、心の、途方もなく微妙な活動を見なければなりません。観念、信念、思索に気づき、それをすべて脇にやらなければなりません。というのはそれらは本当に欺瞞であるからです。そうでないでしょうか? 他の人は実在を経験したかもしれません。しかしあなたが経験したのでないなら、それについて思索することや、あなたが本質的に真の不死の神聖な何かであると想像することの利点は何でしょうか? それはなお思考の分野の内にあり、思考から飛び出すものはどんなものも条件付けられており、時間に属するものであり、記憶に属するものです。したがってそれは実在のものではありません。実際にその事をよく理解するなら―思索的にではなく、想像によってや馬鹿みたいにではなく、思索的な探索、哲学的な探求に従事している心のどんな活動も、どんな仮定や、どんな創造や希望も、単に自己欺瞞に過ぎないという真実を実際に見るなら―、そのとき、この基本的な変容をもたらすパワー、創造的なエネルギーは何でしょうか? 私はあなたが瞑想の中で、思考の中で、日常の気づきの中でこの点まで行き、すべての仮定、すべての想像、すべての思索的な希望、恐怖、要求を完全に拒絶したかどうかわかりません。確かに、本当に求めている人は誰でもそれに至らなければならないのではないでしょうか? そしてあなたがそこまで行ったなら、何が起こりますか? 根本的な変化をもたらす力、エネルギー、創造的な何か、は何でしょうか?

ほら、私が観念を追及している限り、高貴であっても、想像の上で神聖で、理論的にすぐれていても、常に探求者と彼が探求するものという二重性があるのではないでしょうか? 憎んでいる存在、そして平和、愛を追求している存在があります。善い存在ともう一つの悪い存在。それが私たちの苦闘、私たちの葛藤です。そして私はそれが中心的な問題であると思います―どうやって二重性に橋を架けるか、どうやって超えるか。すなわち、私が憎むとしましょう。私はハートに愛情を持っていません。私のハートは心の物事で一杯です。それは利口で、ずるく、打算的であり、私はそれを実感します。また私はより多くの愛、思いやりの状態、があるときのみ世界に変化があり得ると感じ、したがって私は愛を追求します。それで私の中に愛と憎しみの二重性が、その苦闘を伴ってあります。私的な考慮と公的な生活、私がそうであるもの、そしてそうあろうとしているもの。絶え間のない内部の戦い、葛藤があります―そしてそれを理解することが出来るなら、そのときたぶん私たちはどうやってエネルギーを、変化を引き起こすあの創造的なものを目覚めさせるかを見い出すでしょう。思考者と思考が一つであることを理解すること―それを経験すること、言葉の上で繰り返し話すのではなく、それは意味がありません―、それが中心的な問題であると私には思われます。自己、「ミー」はこの二重性の苦闘から成っているのではないでしょうか? 「ミー」と「非ミー」、記憶、条件付け、希望の束、そしてそれがそうありたいものがあります。そうであるものとそうあるべきものとの間の苦闘。私のそうであるものと私がそうありたいものとの間の果てしない葛藤。意識的のみならず、深い下で、無意識的に、心とハートのわかりにくい隠れ家の中で―それが「ミー」の過程の苦闘そのものではないでしょうか? しかし私が思考者は思考であること、観察者は観察されるものであることを実際に経験できるなら、そのとき根本的な変化を引き起こすあの創造的なエネルギーの解放があります。

それゆえ、あなたがいやしくもあなた自身に気づいているなら、この絶え間ない苦闘が続いており、それはただ「ミー」を、「私という性質」を、自我(エゴ)を、自己(セルフ)を強調し、滋養を、強さを与えるだけであることを知るでしょう―それが高位の自己であろうが、低位の自己であろうが、それはまったく同じです。なぜなら、それはすべて思考の領域内にあるからです。そして思考者は思考によってつくり出されていないでしょうか? 思考者は思考と別でしょうか? 思考者が思考を制御し、形作り、それにある方向を与えようとしている限り、それは訓練の過程ですが、まさにその苦闘が思考者に強さを与え、それゆえ「ミー」に活力を与えます。そして革命、変化が起こらなければならないのはこの「ミー」の中心の中にです。そしてどうやってそれは生じればいいのでしょうか? 私は、明確に、どんな形の強制も、どんな訓練も、どんな誘引も、どんな希望も、どんな展望もそれをもたらすことができないのを見ます。なぜなら、これらすべての中に二重性、そうであるものとあるべきもの、観察者と観察されるものがあるからです。そして観察者が存在する限り、常に彼が観察した、彼がよく考えたものを獲得しようとする苦闘が常にあるに違いありません。この苦闘が思考者に強さを与えます。思考者が「ミー」、自己です。私はそれを非常に明確に見ます。そこで私はどうしたらいいでしょうか?

たぶん、この点に到達する中で、私たちは意識的な心を使ってきました。私たちは議論についてきました。それに反対したり受け入れたりしてきました。それを明確に、あるいはぼんやりと見てきました。すなわち、意識的な心は話し手の言っていることを追跡する中で能動的でした。しかしさらに進み、より深く経験するためには、静かで、見い出そうと油断のない心が必要ではないでしょうか? それはもはや観念を追跡していません。なぜなら、観念を追及するなら、言われたことを追っている思考者があり、それゆえあなたは直ちに二重性をつくり出すからです。基本的な変化のこの事柄にさらに入っていきたいなら、能動的な心が静かであることが必要ではないでしょうか? 確かに、心が静かであるときのみ、それは巨大な困難、二つの別の過程としての思考者と思考の複雑な含蓄を理解できるのです―経験者と経験されるもの、観察者と観察されるもの。革命、その中に「ミー」がいないこの心理的、創造的な革命は、思考者と思考が一つであるときのみ、思考を制御している思考者のような二重性がないときのみ生じるのです。そして私は示唆しますが、この経験のみが創造的なエネルギーを解放し、それが結果として根本的な革命、心理的な「ミー」の粉砕を引き起こすのです。しかしこれは理解・実感するのが極度に困難です。なぜなら心は苦闘するように、分離するように、安全であるように、永続するようにひどく条件付けられているので、それは問題を新たに考えることを怖れるからです。私たちはたぶん思考者がいない、観察者がいないこの状態を決して経験したことがないのです。なぜなら私たちは観念によってひどく条件付けられ、思考者は常に彼の思考とは別であるという感覚にひどく慣れているからです。そしてあなたは私の言うことを単に聞くに過ぎないことによって、それを経験しようとしていません。しかしあなたが真面目にこれらの講話についてきて 本当にこの一週間の間あなた自身で実験してきたなら、あなたは、思考者と思考の間のこの途方もない分離があることに十分に気づく点にきっと到達します。私たちの大抵はなおこの分離に気づいていないのです。私たちは思考者と思考の間の葛藤に、獲得しよう、拒否しよう、抑圧しよう、何かになろうとする「ミー」、自己の果てしない戦いに囚われています。そのことに私たちは非常に精通しています。しかし私たちは分離に気づいていません。もし、分離に気づいて、それを破壊することを、それに橋をかけることを思考者が求めるなら、彼は分離を増大させます。なぜならそのとき、思考者は再び彼がそうでない何かであることを求めているのであり、それによってより大きな強さ、より大きな安全を彼自身に与えるからです。

それゆえ、どうやってあなたと私は、個人として、この経験に、この理解に到達することができるでしょうか? 私たちはパワーによるやり方を知っています―支配を通してのパワー、訓練を通してのパワー、強制を通してのパワー。政治的なパワーを通して私たちは基本的に変化させようと望みます。しかしそのようなパワーはただ一層の暗黒、崩壊、悪、「ミー」の強化を引き起こすだけです。私たちは個人的と集団としての両方で、獲得のさまざまな形をよく知っています。しかし私たちは決して愛のやり方を試みてこなかったのです。そしてそれが何を意味するか知りさえもしません。愛は思考者、「ミー」という中心がある限り可能ではありません。このすべてを理解するとき、人はどうすればいいでしょうか? 確かに、根本的な変化、創造的、心理的な解放をもたらすことが出来る唯一のものは、日常の注意深さ、私たちの動機、意識的なものと無意識的なもの、に瞬時瞬時気づいていることです。訓練、信念、理想はただ「ミー」を強めるだけで、したがって全く無駄であるということを理解するとき―来る日も来る日もそのことに気づき、その真理を見るとき、思考者が絶えず彼の思考から、彼の観察から、彼の経験から、彼自身を分離している中心的な要点に到達しないでしょうか? 思考者が彼の思考、それを彼は支配しようとしているのですが、それから離れて存在している限り、基本的な変化はあり得ません。「ミー」が観察者、経験を集め 経験を通して彼自身を強化している者、である限り、根本的な変化、創造的な解放はあり得ません。その創造的な解放は思考者が思考であるときのみ生じます―しかし間隙はどんな努力によっても橋をかけることが出来ません。心がどんな思索、どんな言語化、どんな形の思考もただ「ミー」に強さを与えるだけであることを理解するとき、思考者が思考から離れて存在する限り限界が、二重性の葛藤があるに違いないことを心が見るとき―心がそれを理解するとき、そのときそれは注意深く、どうやってそれがそれ自身を経験から分離し、それ自身を主張し、パワーを求めているかに絶え間なく気づいています。その気づきの中に、もし心がそれをいつも より深く広く、結果、ゴールを求めることなしに追跡しているなら、思考者と思考が一つである状態が生じます。その状態の中に努力はありません。成ることはありません。変化しようという欲望はありません。その状態の中に「ミー」はありません、というのは心に属するものではない変容があるからです。

質問: 人は善を知るためには明らかに悪を知らなければなりません。これは進化の過程を意味しないでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは酒に酔っていない状態を知るために酔っ払うことを知らなければならないでしょうか? 思いやりがあるとはどういうことか知るために、憎しみを経なければならないでしょうか? 平和が何であるか知るために、あなた自身や他の人を滅ぼして戦争を経なければならないでしょうか? 確かに、これは全くの虚偽の考え方ではないでしょうか? 最初にあなたは進化、成長、悪から善への移行があるとします。そして次にあなたの思考をその型に当てはめます。明らかに物理的な成長はあります。小さな苗木は大きな木になります。技術的な進歩があります。車は数世紀を経てジェット機に進化しました。しかし心理的な進歩、進化はあるでしょうか? それが私たちが議論していることです。邪悪で始まり善に終わる「ミー」の成長、進化があるかどうか。進化の過程を通して、時間を通して、「ミー」が、それは邪悪の中心ですが、一体高貴に、善に成ることができるでしょうか? 明らかにできません。邪悪なもの、心理的な「ミー」、は常に邪悪のままでしょう。しかし私たちはそのことに直面したくありません。時間の過程を通して、成長と変化を通して、「私」は究極的に実在に成るであろうと私たちは思います。それが私たちの希望です。それが私たちの切望です。「私」は時間を通して完全にされるであろうということが。この「私」、この「ミー」は何ですか? それは名前、形態です。記憶、希望、挫折、懇望、苦痛、悲しみ、過ぎ行く喜びの束です。私たちはこの「ミー」を継続し完全になりたいのです。それで私たちは「ミー」を超えて「至高」、上位の自我、永遠の精神的実体があると言います。しかし私たちがそれを考えたので、その「精神的」実体はなお時間の領域内にあるのではないでしょうか? 私たちが考えることができるなら、それは明らかに時間の領域内にあるのではないでしょうか? それを考えることができるなら、それは明らかに私たちの判断の領域内にあります。

どうか、もし私が精神的な状態を考えることが出来るなら、もし私がそれがどんなふうに見えるか、それがどんな味わいであるか、その感覚が何であるか知っているなら、それはすでに私の知識の範囲内にあります。そして私の知識は記憶、条件付けに基づいています。確かに、私が呼ぶ、考えるものは精神的な、永遠のものではありません。思考は過去のものの、記憶の、時間の結果です。そして私はその理論を受け入れるように条件付けられ、そのように考えるように子供のときから育てられてきたので、思考はこのいわゆる精神的実体をつくり出しました。たぶん他の人たちは精神的な実体を信じないように条件付けられているでしょう―それは現実に世界に起こっています。彼らは精神的な実体があることを否定するでしょう。なぜなら彼らはそれらの見地で考えるように条件付けられてきたからです。

心はそれ自身の永続的でないこと、それ自身のはかなさを見て、永続する状態を渇望します。そしてまさにその渇望が私たちのしがみつく象徴、感情、観念、信念をつくり出します。それゆえ、はかない「ミー」、そして「超自我」、上位の自我があり、後者を私たちは永続的であると考えるのです。そして心は永続するものを追求しており、それによって二重性、対立物の葛藤をつくり出しています。思考を永久的でない表面的な「ミー」と、うぬぼれた、彼方の、永遠の、精神的な「ミー」とに、二つの間の種々の階位のすべてを伴なって分割する中で、私は二重性の葛藤を誕生させたのです。そして永遠を獲得するために、私は時間を持たなければならない、心理的な成長、成ることがなければならないと言います。この過程の中に常に「ミー」、観察者、そして彼が観察し、得ようとしているものがあります。そしてこの苦闘に彼自身を捧げる中で、彼は彼の熱望、欲望を強めます。そして彼は、追っているものを獲得するために時間、未来を持たなければなりません。したがって彼は生まれ変りを持ちます―今でないなら、明日。しかし私たちがそのすべてを乗り越えるなら、そのとき私たちは、思考を離れた思考者、観察されるものから分離した観察者がある限り、葛藤があるに違いないことが見えるでしょう。そして葛藤を通しては何の理解も、何の平和もあり得ません。

さて、思考者と思考が、観察者と観察されるものが一つであることができるでしょうか? あなたが単にこの問題を一瞥し、これやあれやによって私が意味していることを説明してくれと表面的に私に言うに過ぎないなら、決して見いだすことはないでしょう。確かにこれはあなたの問題です。それは私の問題だけではありません。あなたはこの問題、あるいは世界の問題を私がどんなふうに見るか見い出すためにここにいるのではありません。この内側の絶え間ない戦い、それはそんなにも破壊的で、そんなにも悪化しています―それはあなたの問題ではないでしょうか? そしてどうやって根本的な変化をあなた自身の中にもたらすか、そして政治や経済や様々な官僚制度の中の表面的な革命で満足させられないこともまたあなたの問題です。あなたは私を、あるいは私の生の見方を理解しようとしているのではありません。あなたはあなた自身を理解しようとしています。そしてこれらはあなたが直面しなければならないあなたの問題です。そしてそれらを一緒によく考えることによって、それは私たちがこれらの講話の中でしていることですが、たぶんもっと明確にそれらを熟視し、もっとはっきりそれらを見るのをお互いに助けることが出来るでしょう。しかし単に言葉のレベルで明確に見ることは十分ではありません。それは創造的な心理的変化をもたらしません。私たちは言葉を超え、すべてのシンボルとそれらの感情を超えなければなりません―愛のシンボル、神のシンボル、ヒンズー教とキリスト教のシンボル。というのは、それらはある反応をつくり出すけれども、それらはすべて言葉のレベル、イメージのレベルにあるからです。私たちはこれらのものすべてを捨て、中心的な問題点、すなわち、時間の結合であり、その中に愛も慈悲もない「ミー」をどうやって解消するか、に到達しなければなりません。超えることは心がそれ自身を思考者と思考として分離しないときのみ可能です。思考者と思考が一つであるとき、そのときのみ静けさが、イメージを作ることや一層の経験を待つことのない静けさがあるのです。その静けさの中に経験している経験者はありません。そしてそのときのみ創造的な心理的革命があるのです。

質問: 正しい教育の不可欠な要素は何でしょうか?

クリシュナムルティ: 確かにこれは非常に複雑な問題ですね。そしてあなたはそれが数分で答えられるとお思いですか? しかしたぶんこの質問の中で何が重要であるか見ることが出来るでしょう。

何のために私たちは私たち自身と子供たちを教育しているのでしょうか? 戦争のため? より大きな知識のため?、私たちがお互いを破壊できるように? 技術のため?、日々の糧を稼ぐことができるように? 情報、文化、名声のため? 現実に、なぜ私たちは私たちの子供を教育しているのでしょうか? 私たちは本当は知らないのではないでしょうか? 私たち自身がそのように全く混乱しているとき、どうして知ることができるでしょうか? 実際上、私たちのするあらゆることが戦争に、隣人と私たち自身の破壊に導きます。私たちは子供を競争するように教育し、「ミー」を強め、この戦いの中で生き延びることができるように条件付けます。そしてさまざまな形の情報、知識を投げ込みます。それが私たちの教育と称するものです。あるいは、子供を特定の線にそって考え、確立された型にしたがって行動するように条件付けます。子供がカソリック教徒、クリスチャンサイエンスの信者、共産主義者、ヒンドゥー教徒などなどであることを望みます。それゆえ、まず最初に、教育者自身が教育されることが重要ではないでしょうか? 確かに教育は単に事実を教えることではありません―誰でも、読み方を知っていればそれらを百科事典の中に拾うことが出来ます。不可欠なことは英知を目覚まし、それゆえ、心が尋ね、見い出し、そして宗教的、社会的、政治的な何かの形の条件付けに捕らえられることなく、生に出会うことが出来るようにすることです。そしてそのためには、教師と両親の両方が聡明でなければならないのではないでしょうか?

このことは種々の角度から接近しなければならない非常に複雑な問題であるので、正しい教育の不可欠な要素が何であるかを単に規定することは出来ません。しかし私たちは、今世界中で行っていることが虚偽で、破壊的で、非創造的であることを見ることが出来ます。創造性は絵や発明の製造ではありません。それは詩を、エッセイ、本を書くことではありません。それは創造的であるかもしれないし、そうでないかもしれません。しかし重要なことはその中に恐怖がなく、自己拡大の欲望がなく、攻撃性がなく、心理的な依存もない内的な創造性、自由、孤独でない単独性の感覚のある状態です。これが本当に創造的な状態であり、「ミー」を強調することなしに、生徒を才能、勉学、関係の中で助けることが出来るのは、私たちが私たち自身の中に創造的な状態を目覚めさせたときだけなのです。しかし心の自己閉鎖する活動を打破し、その創造性に到達するには、自分自身の内に途方もない注意深さ、絶え間ない油断のなさを要します。

それゆえ、私たちの問題は容易ではありません。しかし私たちは私たち自身で始めなければならないのではないでしょうか? 自己認識は知恵の始めです。そして知恵は他の誰かの経験や語句の単なる反復ではありません。知恵は権威をもちません。それは心がそれ自身の性質の深さと広がりを理解し始めるときに生じます。それを思索することはできません。創造的なものを発見するには、それに新たに到達しなければなりません。心は空でなければ、すべての知識から、すべての記憶から自由でなければなりません。そのときのみ、新しい関係と新しい世界の可能性があるのです。

1952年8月30日

(訳者: N.Goto)2002.05掲載

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