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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第10回)

J. Krishnamurti Ojai 10th Public Talk 31st August 1952

これは目下の一続きの講話の最後のものなので、この数週間にわたって私たちが話してきたことを私が簡潔に繰り返すなら、たぶんそれは適切であるかもしれません。しかしそうするにあたって、私は要約しているのではありません。要約は言ってきたことの回想とそれを再び話すことを意味するでしょう。それは私の意図ではありません。

私たちが討論してきた事は変化の問題です。私は私たちの多くは、単に外部、経済的社会的世界の中だけでなく、第一に私たちの存在の心理的なレベルでの変化の必要を理解していると思います。私たちが変化を考慮する時、一般に表面的な観点で考えます。私たちは国家、集団、共同社会、人種の関係の中に起こらなければならない変化を意味しています。私たちは経済的、社会的革命、そしてどうやってそれをもたらすかについて話します―そしてそこで私たちの大多数は停止するのです。私たちは知的概念、言葉の上の公式化、あるいはそれに忠誠を捧げる事ができ、それのために自分自身を犠牲にできる新しい世界の展望で満足します。それゆえ、私たちは変化の必要を見ます。しかし私は根本的な変化は周辺、外側・環境ではなく、中心、すなわち心理的レベルにのみ起こることができると感じます。この問題を議論するなかで、私たちはそれを様々な観点から考えてきました。そしてたぶん今朝は、権威、そして権威はどんなふうに根本的な変化を妨害するかという観点からそれに接近する事ができるでしょう。知識の権威、自分自身の経験の権威、金銭の権威、他人の言うことの権威、解釈者の権威があります。そして心が権威にしがみつき、それによって守られているどんな場合も、明らかに、根本的な変化はあり得ません。

権威はこの内部の変革を妨害する最大の障害の一つであると私は思います。戦争と飢餓の問題を解決できる外部の変化がなければならないなら、この内部の変革は絶対に必要です。心理的な革命、私たちの一人一人の中の根本的な変革があるまでは、単なる外部の改革は望まれる結果をもたらさないでしょう。そしてこの内部の変化は、個人としてのあなたと私が権威にしがみつくとき、妨害されます。私たちの大抵は変化を恐れます。私たちは、快適であるなら、物事がそのままに留まるように、特に心理的なレベルで望むのです。私たちは家、少々の財産を持っており、そこでの変化を恐れます。また信念における変化を恐れます。なぜなら私たちは将来に疑念を抱いているからです。いわゆる知性的な心は聡明で利口であるかもしれませんが、それは何かの形の信念にしがみつきます。信念は権威、理想、展望になります。私たちの関係の中に、経験の中に、安全でありたい、特定の心理的状態の中にいつづけたいという欲望があります。そして私たちはこれらの線にそって根本的な変化を持つのを恐れます。恐れるので、心は権威をつくり出します。政治的権威、宗教の、信念の、教条の権威、自分自身の経験の権威などなど。

いかに心が根本的な変容を妨げる権威というそれ自身の障害を絶えずつくり出しているか、見出す事が重要ではないでしょうか? 私たち一人一人が微妙な形の権威を持っていないでしょうか? 書物の権威があります。それは知識です。そして知識は、心が新しいものを自由に見ることが出来なければならないなら、完全に脇にやらなければならないのではないでしょうか? そして心はいったいこの知識の獲得から自由である事ができるでしょうか? 知識とは賢い人、知識人、考えを非常に明確 精妙に表現する事ができる人たちによって言われてきたことに関する情報を意味します。そして心は、その恐怖の中で、これをそれがしがみつく権威としないでしょうか? そして私たち自身の経験を権威に、それにしたがって私たちが動く行動のパターンにしないでしょうか? 私たちは信念を権威にしないでしょうか?

私たちは私たち自身、変化、起こるかもしれないことについて確信がなく恐れているので、常に信念、理想、究極の実在が、書物の 他人の経験の 私たち自身の希望の権威があります。私たちの大抵は心がしがみつく事ができる、心がその周りにそれ自身の安全、それ自身の継続を築くことができる何かを捜しているのではないでしょうか? そして心はいったいこの追跡から、心を守るこれらの壁を立てることから自由である事ができるでしょうか? 心は、権威によって窒息させられて、いったい変化することができるでしょうか? これは私たちの問題、あなたの、そして私の問題のひとつではないでしょうか? 心はいったい権威から、表面的なレベルにおいてさえ、自由である事ができるでしょうか?

あなたは私を権威にしないかもしれません。なぜなら、結局 私は、あなたが熱心であるなら、調べるとき油断なく気を配っているなら、あなた自身で見出せないことは何も言っていないからです。しかし権威を求める欲望は常にそこにあります。混乱しているので、あなたは私が何を言おうとしているかいないかをあなたに告げる解釈者に依存します。真理の解釈者を見つけます。あなた自身の中で、あなたはそんなに不確かで、迷い、混乱しており、それで誰かが指導し、助けて欲しいのです。あなたが他の人に頼るやいなや、彼が偉大であろうが愚かであろうが自由はなく、したがって根本的な変化の可能性はありません。それ自身の不確かさの中で、安全を見出そうというそれ自身の混乱と欲望の中で、心は次第に教会の、政党の、指導者、教師、書物の権威を組み立てます。そしてこの事を理解して、教会、国家、政治家、狡猾な人が権威を握り、私たちに何を考えるかを告げます。私たちの大抵は権威に、それが私たちに継続、確かさ、保護されているという感覚を与えるので満足します。しかしこの深い心理的革命の意味合いを理解したい人は権威から自由でなければならないのではないでしょうか?

彼は彼自身の創造であれ、他の人により課されたのであれ、どんな権威にも頼る事はできません。そしてこのことは可能でしょうか? 私が私自身の経験の権威に頼らない事は可能でしょうか? 私が権威の外部の表現―書物、教師、牧師、教会、信念―のすべてを拒絶した時でさえ、私はなお、少なくとも私自身の判断に、私自身の経験に、私自身の分析に頼る事ができるという感じを持っています。しかし私は私の経験、私の判断、私の分析に頼る事ができるでしょうか? 私の経験は、ちょうどあなたの経験があなたの条件付けの結果であるように、私の条件付けの結果ではないでしょうか? 私はイスラム教徒、あるいは仏教徒、ヒンドゥー教徒として育てられてきたかもしれません。私の経験は文化的、経済的、社会的、宗教的背景に、ちょうどあなたの経験がそうであるように依存するでしょう。そして私はそれに頼る事ができるでしょうか? 私は手引きに、希望に、私に確信を与える理想像に、私の判断に頼れるでしょうか? それは再び蓄積された記憶、経験、現在に出会っている過去のものの条件付けです。私は私自身の問題を分析できるでしょうか? そして分析するなら、分析者は彼が分析したものと違いますか?

さて、私がすべてのこれらの質問を私自身にし、私がこの問題に気づいている時、私はその中に実在、新しさが生じることのできるただ一つの状態があり得ることを見ます。それは革命をもたらします。その状態は心が過去のものが完全に空であるときです。どんな種類の分析者、経験者、判断、権威もないとき。何といっても、これは私たちの深い問題ではないでしょうか? 心が知識、記憶、判断で重荷を負わされ、過去のものによって不自由にされている限り、新しいものはあり得ません。心が自己の中心、「ミー」、それは時間の結果です、である限り、始めも終わりもないものの可能性はありません。私は始めも終わりもないもの、あの究極の実在が何であるか知りません。しかし心が単に経験、分析、判断、追従の状態にある限り、私は私自身の創作物以外の何ものにも、とても気づく事ができないことがわかります。

それゆえ、私が新しい何かがあるかどうか見出そうと本当に切望するなら、心はそれ自身の創作物の、それ自身の幻想の性質を見なければなりません。そしてこれは私たちの最大の困難の一つであると思います。なぜなら教育全体が知性、心を崇拝する事であるからです。それゆえ多くの書物が心について書かれており、私たちの読んだあらゆる事は私たちを案内し、整形し、条件付けています。これは私との同意や不同意の問題ではありません。しかし、あなたはあなた自身の生活の中でこれらの事柄に気づきませんか? そして過去のものによって、自分自身の経験によって、自分自身の動機、衝動、要求、野心、信念によって、何かであろうとする果てしない苦闘によって不自由にされた心―どうしてそのような心がいったい新しく見ることができるでしょうか? あなたが仮にもあなた自身の内部の問題に気づき、そして政治的、宗教的、経済的な全世界の危機は心理的葛藤と相関している事を見るなら、あなたはこれらの質問をきっと自問するはずです。心を過去から解放する事なしに起こるどんな変化も、なお時間の領域内に、したがって堕落の領域内にあります。そして確かにそのような変化は変化ではまったくなく、単に古いものの違った形での継続に過ぎません。

このすべてに気づいて、あなたもまたきっとそうするように、私は自分自身に尋ねます。心がともかく自由であり、完全に過去のものを空にし、それゆえそれ自身の投影、それ自身の製作に属しないものを見ることができるかどうかを。それが可能かどうか見出すためには、あなたは実験しなければなりません―それは自己が課した、あるいは外部の環境によって課されたどんな形の権威も完全に疑いの目で見るということを意味します。そして権威は非常に微妙に働きます。あなたは私によって影響されています。きっとそうです。しかし単に影響されるだけなら、そのとき根本的な変化はないでしょう―それは単に感情に過ぎず、反応し、この影響を捨て他のを取り上げるでしょう。ところが、あなたが根本的変化の問題に深く関わるなら、そのとき、世界に平和がなくてはならないなら、多くの人がいい食事をしているとき飢餓があってはならないなら、この変化が生じなければならないということをあなた自身で直接に見るでしょう。

人間の普遍的な幸福があるべきなら、変化が、表面的なレベルでなく、中心になければなりません。中心は「ミー」、「私」であり、それはいつも果てしなく否定的に蓄積しています。そしてその獲得のやり方の一つが権威を通してです。権威を通してそれは継続を持ちます。それゆえ、あなたと私がこの事を理解するなら、そのとき問題が起きます。心はその全部の内容をそれ自身から空にする事ができるでしょうか、それはその上に置かれた、課せられた、そして自己が課したすべてのものから自由になることができるでしょうか? 創造の可能性があるのは心が空のときだけです。しかし私は私たちの大部分の持っているこの表面的な空虚を言っているのではありません。私たちの大抵は表面的に空っぽです。そしてそれは気晴らしを求める欲望を通してそれ自身を示します。私たちは楽しみたいのです。それで本に、ラジオに向かいます。講演に、権威に走ります。心は果てしなくそれ自身を満たしています。私はその空虚を話しているのではありません。それは思慮がないことです。それどころか、私は、心が幻想を創造するそれ自身の力を見てそして超える時、途方もない思慮ぶかさを通して生じる空虚を話しているのです。

経験を集めるために、自分自身を強化するために、待機し 見張り 観察している思考者がいる限り、創造的空虚は可能ではありません。そしてそもそも心はすべてのシンボル、すべての言葉をそれらの感情と共に空にし、蓄積している経験者がいないようにする事ができるでしょうか? 心は推論、経験、賦課物、権威のすべてを完全に脇にやり、そのため空の状態にあることができるでしょうか? あなたは当然この質問に答える事が出来ないでしょう。それはあなたが答える事ができない質問です。

なぜならあなたは知らないから、あなたはやってみようとしたことが決してないからです。しかし、示唆してよければ、それをよく聞いてください。質問をあなたにさせてください。種を蒔かせてください。するとそれは実をならせるでしょう。あなたが本当にそれを聞くなら、それに抵抗しないなら、「どうやって心は空であり得るのでしょうか? それが空なら、それは機能する事が出来ません、その日常の仕事をする事が出来ません」と言わないなら。そしてその日常の仕事とは何ですか? お決まりの、退屈なうんざりする継続。私たちは皆それを知っています。それゆえ、あなた自身で見出す事が重要だと私には思われます。そして見出すためには、あなたは聞かなければ、調べなければなりません。私が話しているとき、私は調べるようにあなたを助けています。私は何かをあなたに売り込もうとか受け入れさせようとしていません。私もまた調べています。それがこの講話の目的です。

この講話の、この変化の問題を調べるこれら数週間の結果、私たちは、いったい心が新しいものを受け取るために空であることができるかどうかというこの質問に、究極的に到達しなければなりません。変容し得るのは新しいものだけです。古いものの三つ揃い、どんな変化も修正された古いものの継続です。その中に新しい何もありません。創造的な何もありません。創造的なものは心それ自身が新しいときのみ生じることが出来ます。そして心は、表面的なレベルでなく深い奥で、それ自身の活動のすべてを見ることができるときのみ、それ自身を一新する事ができます。心がそれ自身の活動を見るとき、それ自身の欲望、願望、衝動、追求、それ自身の権威の創出、恐怖、に気づいているとき、それがそれ自身の中に、規律により、制御によりつくり出された抵抗、そして信念、理想を投影する希望を見るとき―心がこの全過程を見抜き、気づくとき、それはこれらすべてのものを脇にやり、新しくあること、創造的空虚であることができるでしょうか?

それが出来るか出来ないかを、あなたがそれについての意見を持つことなしに、その創造的な状態を経験しようと望む事なしに実験するなら、あなたは見出すでしょう。それを経験する事を望むならあなたは経験するでしょう。しかしあなたが経験する事は創造的な空虚ではありません。それはただ欲望の投影だけです。あなたが新しいものを経験する事を望むなら、あなたは単に幻想にふけっているに過ぎません。しかし、あなた自身の全過程を鏡の中に見るように見守って、来る日も来る日も、瞬時瞬時、あなた自身の活動を観察し気づき始めるなら、そのとき、あなたが深く深く行くにつれて、その中にのみ新しいものがあることができる、この空虚という究極の問題に到達するでしょう。真実、神、そういったものは経験されるものではありません。というのは経験者は時間の結果、記憶の、過去のものの結果であるからです。そして経験者がある限り、実在はあり得ません。心が分析者から、経験者と経験されるものから完全に自由である時のみ実在があります。

さて、あなたはこれを、土壌が種を受け容れるようにただ聞き、心が自由、空であることができるかどうか見ることができないでしょうか? それはそれ自身の投影、それ自身の活動のすべてを、時々でなくて、来る日も来る日も、瞬時瞬時、理解することによってのみ空であることができます。そのときあなたは答えを見いだすでしょう。そのとき、あなたは変化があなたの求める事なしに生じること、創造的な空虚の状態は養成されるものでないことを見るでしょう―それはそこにあります。それは何の招待もなしに、ひそかに生じます。そしてその状態の中にのみ、再生、新しさ、革命の可能性があるのです。

質問: 私は最近、インドの少女が最高の数学者でさえ困難な高等数学の問題を容易に解くことができたということを読みました。生まれ変わりによる以外、どうやってこれを説明できるでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちが説明によっていかに満足させられるかということは、非常に奇妙ではないでしょうか? あなたは継続の特定の理論を持っています。それは生まれ変わりです。あなたはその信念、その確信を持っています。私はなぜかわかりませんが、あなたはそれを持っています―あるいはむしろ、私たちは理由を知っているのです。あなたが継続することを望んでいるからです。その信念、その説明を持っているので、あなたはあらゆるものをその周りに適合させたいのです。そしてあなたの信念の権威はあなたが新しいものを発見するのを不自由にします。この少女の途方もない能力は生まれ変わりの結果であるかもしれないし、ないかもしれません。しかし、確かに、重要な事は少女のそれでなく、あなた自身の状態を、なぜあなたの心が言葉、説明によって捕らえられ、不自由にされているかを見出す事です。おや、これに対する1ダースもの説明があり得ます。しかしなぜあなたは個人として、あなたを満足させる特定の説明を選ぶのでしょうか? それを見出す事が重要ではないでしょうか?

なぜなら、それを調べるなら、信念によって、感情によって、あなた自身の継続を求める欲望によって、いかにあなたの心が不自由にされているかをあなたは見出すでしょうから。確かに、継続するものは新しいものではあり得ません。死の中にのみ新しいものがあるのです。しかし私たちは死ぬ事を望みません。私たちは継続することを望みます。私たちの全社会構造、私たちのすべての宗教的信念はこの「ミー」の、「私」の継続に基づいています。それは私たちは死を、終わるのを恐れているということです。恐れているので、その恐怖を覆い隠すために無数の説明を私たちは持ちます。それでなおさら私たちは、この恐怖は何でしょうか? どうかこれをわかってください。存在しない、継続しないというこの恐怖は何でしょうか? 継続を願う「あなた」は何でしょうか? それはあなたの財産、あなたが家に集めたもの、家具、ラジオ、洗濯機、特質、あなたが得るために苦闘した徳、名前、評判、記憶と経験でないでしょうか?

そしてあなたがそれを本当に調べるなら、まじめに見るなら、これらのものすべては何でしょうか? それらは空虚な言葉、あなたに感情を与えるシンボル以外の何ものでしょうか。そしてこれらの感情に私たちはしがみつきます。それが私たちが継続したいものです。それゆえ決して新しいものはありません、決して死はなく、延期があるだけです。新しいものを見るのは死の中でだけです。創造的なものの可能性があるのは古いものを終わりにすることの中でだけです。そして毎日死ぬ事ができるでしょうか? 憤懣、観念、目標を胸に蓄えないことが、果てしない苦闘を産み出すこの達成の過程を終わりにすることができるでしょうか? 恐怖は私たちが決して見たことのないものです。私たちは決して死に直面しません。私たちは他の人が死ぬのを見守りますが、死を恐れるので、死が何を意味するか知りません。

それで私たちは説明を通して、言葉を通して、観念、信念を通して逃げます。そして心は恐怖に向き合うことができるでしょうか? 心はそれを見ることができるでしょうか? この恐怖は何でしょうか? それは言葉でしょうか、それとも現実でしょうか? どうか聞いてください、見出してください。私たちが恐れているもの、それは「恐怖」という言葉でしょうか、それとも現実である何かでしょうか? 死の事実があります。しかし私たちは死についての観念、意見を持ちます。事実についての観念は恐怖をつくり出します。恐怖をつくり出すのは事実についての言葉です―事実それ自身でなく。そして心は言葉から自由であり、事実を見ることができるでしょうか? それは、実際に、心の活動なしに事実を見ることを意味します。

心は言葉の中で、シンボルの中で、意見の中でのみ活動的です。それで心は障壁を作り出し、そして障壁を通して事実を見ます。それゆえ恐怖があります。心は事実をそれについての観念を持つことなしに、意見、判断なしに見ることができるでしょうか? もしできるなら、そのとき完全な革命があるのではないでしょうか? そのとき死を超える可能性があります。

質問: 苦しみとは何でしょうか?

クリシュナムルティ: 調べ、見出しましょう。肉体的な苦痛があり、それは次第に精神的な苦しみになります。そして心はそれを、状況、問題を作り出し、それ自体を強めるか減じるかするために用います。次に、十分に愛されていないことによって、愛を望むことによって、引き起こされる苦しみがあります。あなたが誰かを愛し、その人が去ったとき、死を通しての苦しみがあります。挫折を通しての苦しみ、あなたが野心的であり、野心を達成できない時の苦しみがあります。財産の喪失を通して、悪い健康を通して苦しみがあります。こういったすべては何を示しているでしょうか? 私たちが苦しみと呼ぶこのものは何でしょうか? 心のこれらの活動を通じて、「ミー」の自己閉鎖の過程がますます深刻化し、強化するということではないでしょうか? あなたが囲われ、押さえられているのに気づくとき、それは苦しみでないでしょうか? あなたがあなた自身を、あなたの戦いを、あなたの苦闘を、あなたの挫折した野心を意識する時、苦しみが存在しないでしょうか? あなたが自己の葛藤に囚われれば囚われるほど、ますます苦しみに属するものがあります。それゆえ、苦しみは自己の反応です。そして苦しみの意味を理解することは「ミー」の、「私」の過程全体を調べる事です―それはこれらの講話の中で私たちがしていたことです。

苦しみは心の活動のしるしです。苦しみは否定されるべきではありません。しかし私たちの大抵はそれを隠そうとします。説明を通して、満足のいく言葉を通して、私たちはそれから逃げようとします。私たちは苦しみの問題の中に入って行きません。それはその剥き出しの状態にある「ミー」をあらわにすることです。そしてそれが突然あらわにされるとき、私たちはそれと共に留まりません、それを見守りません、逃避しようとします。逃避の中にいっそうの葛藤、いっそうの苦闘がつくり出されます。それゆえ私たちはこの果てることのない苦しみの過程に捕らえられます。ところが、もし、苦しみが生じるとき、その剥き出しの状態、その孤独、自己であるその空虚を見ることができるなら、そのときにのみ、それを超える可能性があるのです。

質問: 瞑想とは何でしょうか?

クリシュナムルティ: たぶんあなたと私は一緒に瞑想が何であるか見出す事ができるでしょう。そこでそれを調べましょう。あなたは、言葉によって、説明によって満足させられることができるように、私からの答えを待っているのではありません。あなたと私は瞑想が現実に何であるか見出そうとしています。

瞑想とは何でしょうか? 足を組んで座ること、あるいはリラックスして横になること? 明らかに身体の解放があるに違いありません。しかし、あなたの身体はリラックスしているけれど、心は非常に活動的で果てしなくしゃべりちらしています。これに気づいてあなたは「私はそれを制御しなければならない。それを止めなければならない。静かさの特定の感覚がなければならない」と言います。それで、あなたは制御し、心を訓練し始めます。どうかこのすべてを追ってください。すると見えるでしょう。あなたはあなたのおしゃべりする心を制御し、訓練して何年も過ごします。あなたのエネルギーは心を望まれる型に順応させる事に費やされますが、決して成功しません。そしてもし成功するなら、心は非常に疲れ、無気力に、空虚に、鈍くなります。明らかに、それは瞑想ではありません。それどころか、心は、習慣、訓練の日課に捕らえられるのでなく、この上なく油断なく気を配っていなければなりません。

それゆえ、私の心は、それは果てしなくしゃべっているけれど、訓練する事が、思考の特定の型に適合させる事ができないことを私は見ます。それではどうやってそれを静めたらいいでしょうか? どんなふうにしゃべる心は静かにされればいいでしょうか? 問題の含む意味をただ見てください。観察者、分析者がしゃべる心に訓練を課しているなら、そのとき観察者、分析者と彼が観察した、分析したものとの間に葛藤があります。観察者は彼の思考を、彼が望む、心を静めるはずの型に順応させるために苦闘しているのです。それゆえ彼はそれを訓練します。制御します。支配します。それを抑圧します。その中に二重性の葛藤が含まれています。観察者と観察されるものとの間に分離があり、その分離の中に葛藤があります。そして瞑想は明らかに果てしない葛藤の過程ではありません。

それゆえ、どうやって心は、それは絶え間なくしゃべっていますが、静かであればいいでしょうか? 私がその質問を尋ねる時、あなたの心の状態はどんなでしょうか? どうかあなた自身を見守ってください。私がその質問をするときあなたの心の状態はどんなですか? あなたは訓練する事、制御することに慣らされていますが、しかし今あなたはそのばかげている事、その錯覚的性質がわかります。したがってあなたの心の状態は、あなたはどうやって心を静めればいいか知らないということです。あなたは説明を、知識を終わらされます。それは条件付けです。現実の事実はあなたの心はおしゃべりしているという事です。そしてあなたはそれをどうやって静めるか知りません。それゆえ、あなたの心の状態はどんなでしょうか? あなたは本当に尋ねているのではないでしょうか? あなたは見守っています。答えを持っていません。あなたが知っているすべては、心がしゃべっているという事です。そしてあなたはどうやって心が静かであることができるか見出そうと望んでいます―しかし方法によってではなく。

確かに、あなたが「どうやって心は静かであれば、おしゃべりを止めればいいのだろうか?」という質問をあなた自身にする瞬間、あなたはすでに心が静かである領域に入っているのではないでしょうか? あなたはあなたの心が活動的で、絶え間なく乱打していることを知っています。一つの層が別の層に対抗し、観察者が観察されるものと戦い、経験者はもっと多くを望んでいます。あなたは思考の絶え間ない気まぐれな運動に気づいています。そしてそれをどうやって減じるか、どうやってそれは静かであるべきか、現実に知りません。あなたはすべての方法を追い出しました。なぜならそれらは意味がないからです。方法に従うこと、型を模倣することは習慣を通して心を不自由にするだけです。習慣は瞑想ではありません。訓練の日課は新しいものを発見できるように心を解放しません。それゆえあなたはそういったすべてを完全に拒絶します。しかしあなたはなお質問を持っています、どうやって心は静かであればいいのだろうか?

その質問をあなた自身に、本当に、命に関わるほどに、実際に尋ねる瞬間、そのときあなたの心の状態はどんなでしょうか? それは静かではないですか? それは見守っています。観察しています。なぜならあなたは知らないからです。知らないという状態そのものが静かさの始まりです。望むパターンとあなたがそうであるものとの間に苦闘がある限り、戦いがあるに違いないことをあなたは発見します。そしてこの戦いはエネルギーの浪費であり、それは惰性をつくり出します。それゆえ、心はそういったすべての虚偽を見てそれを拒絶します。観察するので、心は静かになります。それにもかかわらずなお思考と離れた思考者の問題があり、それゆえ再び戦いがあります。

瞑想はこの過程のすべてです。単なる特定の目的で限定された過程ではなく。それは、心のどんな投影も幻想、催眠であるということに気づいて、どんな特定の観念、信念、経験にも囚われることのない、この広大な調査、探索です。そしてあなたが、動機なしに、特定の結果を求めるどんな欲望もなしに、あなた自身の全過程を単純に見守って、ますますそれに深く入っていくなら、そのとき、あなたはどんな形の強制、抑圧、訓練もなしに、心は創造的に空虚に、静かになるという事を見るでしょう。その静寂はあなたにこの世界で何の富もあなたに与えないでしょう―それをそんなにすばやくお金に翻訳しないでください。あなたがそれに物乞いの鉢を持って近づくなら、それはあなたに何も提供しないでしょう。その静寂は継続のあらゆる感覚から自由で、その中に経験している経験者はありません。経験者がそこにいるとき、それはもはや静寂ではありません。それは単に感情の継続に過ぎません。瞑想はこの過程のすべてであり、それは心が静かで、もはや投影すること、願望すること、防衛すること、判断すること、経験することのない状態をもたらします。その状態に中に新しいものがあることができます。新しいものは言語化されるものではありません。それはそれを説明する言葉を持ちません。したがってそれは伝達できません。それは心それ自身が新しいとき生じるものです。そしてこの、自己認識の複雑な過程全体が瞑想です。

1952年8月31日

(訳者: N.Goto)2002.06掲載

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