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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 オハイの公開講話(第1回)

J. Krishnamurti Ojai 1st Public Talk 2nd August 1952

私たちの大部分は、私たち個人の生の中だけでなく、集団として、人種として、国家として、ある種類の変化が必要であるということに気づいていると私は思います。私たちは根本的な変化、永続する希望をもたらす、心に属するのではなくて、心の上にあり心を超えたものに属する確信、確実性を与えるような変化、の重要性を見ます。確かに、私たちの大部分は―少なくとも私たちの真剣なものは―私たち自身の内側に、このきわめて重大な変容がなければならないと感じます。しかし変容は心に属するものではありません。なぜなら、心は人間の問題を何も決して解決できないからです。私たちが思考の過程を調査し、私たちの問題を心のつくる制裁によって解決することを追求すればするほど、複雑さはますます大きくなります。いっそうの堕落と苦しみがあり、創造的な生存の減少があります。けれどもきわめて重大な変化が必要なことは明白であり、そしてそれがこの連続講話の間に私が討論したいことです。すなわち、何かの直接の挑戦に対する表面的な改良やおざなりの調整ではなくて、変化、革命、私たちに根本的な、永久的な、時間に属するものでない、そして真理、神、あるいはあなたが呼びたいもの、と呼べるかもしれないものの直接の経験を私たちに与えるような根源的革命をどうやってもたらすか。特に私たちが個人的にも歴史的にも危機の状態の中にある今、これが唯一の欠くことのできない研究、唯一の根本的な探究であると私は感じます。変革を何かの哲学や、どこかの教師、何かの理想や手本に求めたり、あるいは私達自身の複雑さを分析し、それらについて心の領域の範囲内で、時間の領域の範囲内で何かをしようとすることは、いかにも全く無益です。

ではこの、そして続く講話の間に、どうやって変化するか、どうやって私達自身の内面に本当の変容をもたらすかということを、平和に、試験的に、そして深く調べることが出来ないかどうか見ることにしましょう。ひとはそのような変化の重要性、必要性、緊急性を見ることができます。なぜなら、単なる改良、観念への、視野の中の特定の目的への表層の調整はまったく変化ではないからです。私たちの大抵は目前の変化にのみ関わります。私たちは問題をより深く、より根本的に調べたいとは思わないのです。変化を求める私たちの欲望は表面的な思考を通してもたらされ、そして私たちの変化する過程の中に、作用している持続する害があります。私たちの大抵はこのことにきっと気づいていると思います。だが私たちはそれをどうやって超えるかを知らないのです。そして、示唆してよろしければ、私はこれらの講話を、心に属するものでない、時間に属するものでない、特定のどんな哲学や政治的方式とも、どんな組織宗教、道徳のおきてや社会の改良とも何の関係もないあの源泉に、私自身を含めて私たちひとりひとりが、どうやって触れるかの発見に終わるようにしたいのです。宗教は名付けることのできないものの発見です。そして私たちがそれを直接に経験することができ、それを作動させ、それを起動力、動因にすることができるなら、そのときそれはそんなにも不可欠なこの変容をもたらすでしょう。

私はここで、聞く正しいやり方があるということを付け加えていいでしょうか。私の言っていることを受容、あるいは拒否しなければならないということではなく、あなたは見出したいのではないでしょうか? 確かに、それがなぜあなたがここにいるかです―おそらく何年ぶりで会った友達の間で、楽しい午後を過ごすためにではなく。そういったことは後程することができます。あなたはわざわざ来ました。そしてある程度真剣であるに違いありません。聞く術は単にぼんやりと受容的であることではなく、私が伝えたいことが何であるか見出すことです。一緒に―私はこれを本気で言っているのです―一緒にそれを発見することが、単に言葉のレベルにあるに過ぎないのではないものを発見することが私たちはできます。別の観念で対抗される観念ではないもの、単なる知識ではない、獲得することはできないが、あなたと私が一緒に直接経験することができるもの。唯一超越的な価値であり、あなたに途方もない自信、どんな理論、どんな政治的、宗教的議論も引き出すことができない自信、を与えるもの。

それゆえ、これらの講話はあなたが聞き、私が詳しく述べる単なる講義ではなくて、私たち自身で心によって作られていないものを見出すために、いっしょに旅をしましょう。私は考案し、思索することができます。そしてあなたもそうできます。私はある考えを提出することができます。そしてあなたは別の考え、違った議論でそれに対抗することができます。しかし確かに、私が時間に属するものでない、心に属するものでない、特定の挑戦に対する単なる反応でないものを見出したいなら―私が本当に見出したいなら、私は反応を、行き当たりばったりの、表面的な反作用を超えなければなりません。

適切に聞くことは、そのとき、非常に重要です。私たちは非常に難しい、すべての人類が、あらゆる個人が直面する問題を議論しています。一緒にじっくり話し合っています。そしてそれは非常に繊細で、ためらいがちな、尋ねている心、深く、深く行くことができる、そして単に結論に達してそれにくっつくに過ぎないのではない心を要します。それゆえ、示唆してよろしければ、これらの講話一つ一つのあとで、あなたひとりで立ち去ってください。それを考えてください。直ちに興奮し、会合したおしまいのその時、その場で話し始めないでください―行われる浅薄なあの種の会話をご存知ですね。

重要なことはどうやって根本的な変化を私たち自身の中にもたらすかを見出すことです。これがあなたにとって問題であるかどうか私はわかりません。たぶんそうではないでしょう。なぜなら私たちはたいてい惰性に、習慣に、伝統に捕らえられているからです。私たちは特定の政治的、宗教的確信に身をゆだね、長続きする根本的な変化、変容、革命を私たち自身の中にもたらすように願って、それを追求します。私たちは特定の型の思考にかかわって、それを何年も追求し、私たちは変化していると思うのです。確かに、根本的な変化は、高貴であっても思考の型の追及の中や、伝統に従うことの中や、何かの観念や信念、模範の受容の中にはありません。そうではなくて、必要とされるのは心に属するものでない変化です。それゆえ、どうか注意深く聞き、私が示唆していることを即座に、あなたがなじんだ型に翻訳しないでください。それがあなたが読んだ何かの本のものであるにせよ、あなたの属する特定の社会や宗教的団体のものであるにせよ。それらのことをすべて脇にやり、問題を新たに考えましょう。

さて、私は私自身の中の根本的な変化の巨大な重要さを見ます。私は野心的かもしれません。私は貪欲かもしれません。私は嘘をつくかもしれません。どうやってこれらのことが完全に変化すればいいのでしょうか? 私は野心は、個人的にも集団的にも、非常に破壊的な過程であることを見ます。人は充分に持たなければならないけれど、我が物にしようとする全精神、もっともっと多くを求める渇望、究極には嘘言、欺瞞、幻想に終わる自己防衛―このすべては世界に大混乱をつくり出しています。私たちが捕えられているこれらすべての型、反応、愚かさ、虚栄、偏見を見るとき、どうやってそれらを、ただ言葉の上でなく現実に変容させればいいでしょうか? 私たちのうちの、これらのことを試みた者は、すでにいくつかのやり方を試したのではないでしょうか? 私たちは意志の行為を通じて私たち自身を訓練しました。私たちは教師、指導者、崇拝される権威に従いました。けれども、これらのことから自由であろうという、さまざまな種類の努力にもかかわらず、私たちは浅薄で空っぽのままです。私たちの問題はなおそこに、さまざまな形であります。私は嘘つきであるのをやめるかもしれません。あるいは野心的であるのをあきらめるかもしれません。だが何だと言うのでしょう? 私は非常に親切で、優しいかもしれません。しかしあのきらめき、あの焔はなお決して触れられていません。生の質を与えるあのものを私は味わったことがありません。それゆえ、私がそれに触れるまで、それの経験があるまで、すべての表面的な改良、調整する外部の能力は、ほとんどまったく意味を持ちません。なぜなら外部でのより多くの調整はあの信頼、あの希望、あの確信、あの確かさ、あの永遠に新しいものの驚くべき感覚を与えないからです。そして私たちがそれに触れることができるなら、そのとき、変化は途方もない意味を持つであろうと私は感じます。確かに、それは実在の、神、あるいはあなたの呼びたいもの、の探索です。それに触れたことなしに、私たちは心を整形しよう、変えよう、型にはめようと努力してあらゆる事をしています。不可避的にそうなるように、いわゆる宗教が失敗したとき、政党が非常に重要になるのはそういう訳です。彼らは展望、確信、希望を提供し、私たちは私たち自身の中に名付け得ぬものの源、源泉を失っているので、これらのものに飛びつきます。

それゆえ、それは単なる社会的改良、表面的な変化の問題ではなくて、どうやって永続する信仰を与える経験をもたらすかという問題です―私が"信仰(faith)"と言う言葉を、それに伴うあらゆる迷信的感傷性をまったく導入することなく用いることができるならですが。私たちの愚かさと利己的な傲慢さのすべてを剥いだ確信を、明晰さから生まれた、破壊されることのない 私たちがそのために生きそして死ぬあのものから生まれた確信をもたらす経験。何かへの表面的な希望でなく、本質的に、心の機能を超えたものの開花である感覚を与える確かさ、特別の性質があります。私たちが触れなければならないものはそれです。そして私たちが本当に熱心であるなら、それを見つけることが私たちの問題、あなたと私の問題です。それに触れることなしには、私たちは永続的に悲惨の中に、混乱の中にいるでしょう。終わりのない戦争、国家、種族、団体、個人の間の永遠に続く争いがあるでしょう。それなしには思いやりはなく、愛はありません。

さて、あなたと私は素晴らしくありません。私たちは膨大な知識で悩んでいません。私たちは普通の人です。たぶん中には平衡の取れていない人も幾らかいるでしょうが、それは問題ではありません。普通の人が、あなたと私が、このことの中に突っ込んでいき、心が案出しそれから経験する何かでなく、まったく心に属しないものを経験することができるでしょうか? それが私たちが見出そうとしてるものです―それは非常に多くの否定、犠牲、種々の個人的野心、偉大になろうとする欲望をやめることを課すかも知れません。というのはそれ自身の思考の型に捕らえられている心は決して永遠なるものを経験できないからです。私たちがこのことをまじめに調べるべきであるなら、心を研究しなければなりません―一般的な心や偉大であっても他人の心ではなく、あなたと私が持つ、その心で私たちが考え、その心で私たちが働き、その反応の中に私たちが捕らえられる心。心は私たちが持っている唯一の道具です。そしてそれがどんなふうに働くか知ることなしに、単に心を超えたものを見出すことは、ただ幻想に通じるだけです。そして私たちの大抵は、特にいわゆる宗教的な人たち、神を捜し求めている人たちは、その幻想に捕らえられます。

それゆえ、私が心に属するものでないものを直接理解したい、経験したいなら、第一歩は心の過程を理解することです。心の過程は考えることです。思考の過程を見抜くことによってのみ、深く調べることによってのみ、思考は終わることができます。何といっても、私たちの考えることは、私たちを非常に遠くには導きませんでした。私たちの考えは世界に平和を、私たち自身に幸福をもたらしませんでした。思考は反応の過程、過去の条件付けです。そしてそれはいつも私たちが本能的に従ってしまう型をつくり出しています。そのすべてが理解されなければなりません。それは心が本当に静かになるように心をはいで裸にし、伝統、偏見、特定の型、「私」の特質を調べ、消散させることを意味します。そのような静かさは誘導することができません。養成することができません。訓練を通してもたらすことができません。なぜなら、それらの過程はすべてなお心の一部であるからです。心に属するものでないものを経験するのは静かな心、静止した心だけです。そして心が静かでいることは最も困難なことのひとつです。心が無としてあるとき、そのときのみ神はいます。しかし私たちは心を何世紀にもわたって養成してきました。それは私たちが崇拝するもののひとつです。したがって私たちは心の過程を理解しなければなりません。私たちはそれぞれの講話で、この事を調べましょう。発見し始めるとき、私たち自身の考える過程に気づくとき、その理解を通して、その気づきを通して、心自身の静けさが生じ、その中にはもはや特定の結果に向かう努力は何もありません。そしてそのときのみ、心は心自身の投影でないものを受け取ることが、経験することができます。それの経験があるとき、それはわずかであるかも知れないけれど、そのときそのことから変容があります。そのことから変化があります―浅薄な心に属する変化でなく。それは有害な行為に終わります。

質問: 人間の幸福のためには統一は不可欠のように思われます。どうやってグループや国家の中にこの統一を獲得すればいいでしょうか?

クリシュナムルティ: どうやって私たちはさまざまな国で実行されているように、統一を一般に獲得するでしょうか? 表面的な統一は宣伝を通して、教育を通して、さまざまな形の強制を通してもたらされます。あなたはあなたがアメリカ人、インド人、ロシヤ人、ドイツ人などであることを絶え間なく思い出させられています。宗教的、社会的、経済的、風土的なさまざまな形の条件付けを通して、私たちは一つになるように強いられます。そしてそれは、私たちはそう感じるのですが、絶対必要です。私たちが特定のグループに同一化し、人生をそれに捧げるなら統一を確立するだろうと私たちは思います。

さて、統一は心に属するものでしょうか? 統一は特定のグループや国家に限定されるでしょうか? 経済的必要や何かのほかの自己防衛的な理由から、私たちが何かのグループや国家と私たち自身を同一化させるとき、それは統一でしょうか? あるいはすべての自己防衛的行為は私たち自身の中に、したがって内部に葛藤をもたらすのでしょうか? いつ私たちは統一の感覚を感じるでしょうか? いつあなたは他の人とひとつになったと感じますか? 確かに、自己が不在のときだけです。確かに「私」と「私の」、私の心の傷、私の偏見、私の性向―そのすべてが不在であるとき、そのとき他の人との統一の可能性があります。「私」が今いる限り、不統一があります。分離があります。そうでないですか? 私たちの教育、私たちの社会的差別、私たちの経済の、国家の、種族の障壁は、すべて「私」の分離性を示しています。「私を第一に」はそのすべてを貫いています。そしてそれ越しに私たちは統一を見つけようとします。それが私たちの問題ではないでしょうか? 私たちは愛なしに表面的な統一を確立しようとしています。そして愛は自己があるときはあり得ないものです。一方の手で私たちは自己を強化し、同時に統一を見出そうとします。「私」と理想の間に葛藤があります。それゆえ社会は、個人のように、果てしなく葛藤の中にあります。

それゆえ、統一は何かの表面的な手段によってもたらされることはありません。心理学的訓練も、観念を教え込むことも、特別な形の教育も、いかに注意深くつくり出されていようと、私たちが本当に分離する要素、「私」、が支配的であるその過程を解消しない限り、統一をもたらすことは出来ません。確かにそれが私たちが見出そうとしていることです。どうやって完全に、もしできればですが、「私」を消滅させるか。それは不可能だ、それはなし得ないと 言わないでください。見出しましょう。調べましょう。

質問: 何年も前にあなたの本を読み始めてから、私は完全であろうと試みてきました。しかしそれは私をかいくぐるのを見出します。どんな誤った思考の過程に私は捕らえられるのでしょうか?

クリシュナムルティ: この事柄をできる限り充分に調べ、私たち自身で、完全がたとえ一瞬の間でも可能かどうか、そしてそれを経験することが何を意味するかを見出しましょう。

なぜ私たちは私たち自身の中で完全であることを望むのでしょうか? なぜなら私たちは不完全であるから、不十分であるから、現世で貧しく、惨めであるから、無数の葛藤を持っているからです。私たちは愛を欲します。賞賛を欲します。平和を欲します。背中をなでられることを欲します。私たちがいかに驚異的な存在であるか告げられることを欲します。崇拝することを欲します。誰かが私たちを助けてくれることを欲します。不完全なので、私たちは完全さを得ようとやっきになります。私たちは悲しみの影なしに、依存しないで、内的に豊かで、束縛されないで、自足していることを欲します。そして悲しみの影なしに、等々。しかし私たちは束縛されています。悲しみの中にあります。そして私たちのそうであるものを理解することなしに、私たちがそうではないものを追求しようとします。私たちが追求しているものは、それを私たちは完全性と言っていますが、幻想になります。なぜなら私たちがそうであるもの、それは事実ですが、それを理解することなしに、事実でないものを追求しているからです。事実でないものを追求し、それを模倣することが、私たちがそうであるものに取り組み、解消するよりずっと容易であると私たちは思います。確かに、この不完全にどんなふうに直面するか、どうやってそれを理解するかをもしも私が知るなら、もしも私がその彩り、その不完全、単に言葉に過ぎないのではないそれらのものが何であるか見るなら―もしも私がそのすべてを理解し、どんなふうにそれを扱うか知るなら、そのとき私は完全を追求しないでしょうに。それゆえ、私が不完全であると知って完全を追求するとき、進むようにしかけられた間違った過程があります。なぜならその追求は観念の中への、空想の中への、非実在の中への逃避であるからです。事実は私は内的に貧しい、私は淋しい、私は葛藤の中に、悲しみの中にあるということです。私の心は狭量で、浅薄です。私は悪さにふけっています。それが私のそうであるものです。ときたま、私はこういったものではないもののきらめきを持つかも知れませんが、現実の事実は、私はこういったものであるということです―それは醜いかもしれません、しかしそれが私がそうであるものです。なぜ私はそれに対処できないのでしょうか? どうやって私はそれを理解し、それを超えればいいのでしょうか? それが問題です。どうやって完全であるかではなく。あなたが「さて、私はかつてこれ以上のもののきらめきを捕らえた。したがって私はそれを追求するつもりだ」と言うなら、そのときあなたは死んだものの上に生きているのです。子供のころ、私は美しい何かの経験を持ったかもしれません。しかし私がその中に生きるなら、私は私がそうであるものの事実を理解することはできません。

それゆえ、私がそうであるものを超えるためには、私はそれを理解しなければなりません。それを壊さなければなりません。完全になろうとする必要はありません。なぜなら、私のそうであるものがないとき、完全があるからです。私はそれを捜す必要はありません。見ることができるとき、私は光を捜す必要はありません。私が暗闇の中に、悲惨の中に、苦しみの中に捕らえられているときだけ、私はそれを超えたものを思うのです。重要なことは、それでは、私がそうであるものを理解できるかどうか見出すことです。さて、どんなふうに私はそれに取り掛かったらいいでしょうか? 私がこのことを非常に明確にしているといいのですが。なぜなら完全の追求は全く間違った過程であるからです。私が完全を追求するなら、それは常に私をかわすでしょう。というのは、そのときそれは幻想、心の考案であるからです。事実は、醜かろうが、美しくあろうが、私がそうであるものです。私は事実を取り扱うことができるので、幻想ではありません。それゆえ、どうやって私は事実をそれを理解するために熟視し、それを超えることができるでしょうか? それが私の問題です。私はそれを熟視する能力を持っているでしょうか? 私が貧弱で不十分であるのを現実に見ることが、そして事実について観念を発明しないことができるでしょうか? 事実がひとつのものです。そして事実についての観念は別のものです。私が事実を見るとき、私はそれについての観念で一杯であり、そして観念は私をおびえさせます。私に偏見を抱かせます。礼拝、飲酒、娯楽、また他の形の逃避を通して、私が不完全から逃げ出すのを助けます。それゆえ、私たちは事実についての観念を理解しなければなりません。

私が不正直、野心的、嘘つき、あなたの呼びたいものであるとしましょう。私はそれです。さて、それは観念なしに変容させられる事ができるでしょうか? どうかこれをわかってください。なぜなら私がそれはどうあるべきか、あるいはどうあってはならないかという観念を導入するや否や、私は根本的な変容を引き起こしていません。私はただそれを表面的に取り扱っているだけです。しかし私は事実を根本的に取り扱いたいのです、それをまったく違った力で変容させたいのです。私がそれを表面的に取り扱うなら、私は野心的であるのや、嫉妬深いのや、ねたみ深いのをやめるかも知れません―だがそれで何だと言うのでしょう? 私はなお空虚です。私はなお努力しています。私はなお不完全です。そのとき、私は心が事実に働きかけるとき、それはそれを変えることが根本的にできないことを見ます。それはそれを修正することができます。それを覆い隠すことができます。それを別の場所に移すことができます。しかしそれは事実をすっかり変え、それを超えることはできません。

それゆえ、心の結果ではない根本的な変化を経験することができるでしょうか? そして私は私が醜いと称したもの、あるいはそれが何であれその中に、どうやってそのような変容を引き起こしたらいいでしょうか? その結果、計算された、自己主張的、自己欺瞞的な意志の行為でない、全く違った行為がその上にあるように。私が私の言っていることを明確にしていればいいのですが。これを説明することはかなり困難です。

私が野心的であるとしましょう。そして私は野心の、社会の中での、あらゆるところの関係の中での明らかな現われだけでなく、野心のすべての意味を見ます。野心的な人は野心的な国家のように、破壊的で、浅薄で、悲惨と争いを他人と彼自身にもたらすということを私は見ます。さて、どうやって私は制御すること、抑えることなしに、野心的でないようにしようとすることなしに、野心から自由であればいいでしょうか? それが問題ではないでしょうか? 私が野心に対して苦闘するなら、私はなお違った方向で野心的です。私は野心的であるまいと野心的です。なぜなら野心から自由であることによってあるほかのもの、平和、静けさ、神、あるいはあなたの言いたいもの、を獲得するだろうと思うからです。それゆえ、どうやって私は意志の行使なしに野心から自由であればいいでしょうか? というのは、私が意志を適用するや否や、それは動機を持ち、それに愛着しているしっぽ、わが物にしようとする触手を持つからです。けれども、私は私が野心と呼んだあのものを本当に変化さすことの巨大な必要性、緊急性を見ます。それゆえ、私は変化の問題、変化は何を意味するかを調べなければなりません。心によってもたらされる変化はなお非常に浅薄であり、したがって常にその中に葛藤があります。それでは私はどうすればいいでしょうか? それは私にとって問題であるので、なぜなら私は本当にこれを調べ、野心から自由になりたいからですが、私は野心ではなくて、変化の問題を厳密に調べなければなりません―変化は時間の中にあるのか、それとも時間と何の関係もない点からなのか。それゆえ、私は時間に属しない状態を発見、あるいは経験しなければなりません。そして私はそれを―記憶に属さない、蓄積した知識に属さないその状態を、経験できるでしょうか? 私は時間を超えている永遠のものを経験できるでしょうか? そして私がそれを経験できるなら、そのとき変化の問題、野心を解決しようとする問題は完全に去っています。

それゆえ、重要なことはどうやって完全であるかではなく、どうやって時間に属するものでない変容をもたらすかです。そしてそれを、私が言ったように、これらのすべての会合で話し合いましょう。

1952年8月2日

(訳者: N.Goto)2001.09.掲載

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