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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 オハイの公開講話(第1回)

J. Krishnamurti Ojai 1st Public Talk 16th July 1949

私たちは大変まじめでなければならないということが非常に重要だと思います。これらの集会に来る人、この種の種々の会合に行く人は、自分たちが非常にまじめで真剣であると考えます。しかし私はまじめである、真剣であるということがどういうことか見いだしたいのです。私たちがある講演者、講話者から別の人のところへ、ある指導者から別の人のところへ、ある教師から別の人のところへ行くなら、何かを捜し求めてさまざまの団体に行ったり、さまざまな組織を通り抜けるなら、それはまじめでしょうか、真剣でしょうか? それゆえ、まじめであるとはどういうことか見出すことを始める前に、確かに私たちは、捜しているのは何であるかを見出さなければなりません。

私たちの多くが捜しているものは何でしょうか? 私たちの一人一人が望んでいるものは何でしょうか? 特に誰もがある種の平和、ある種の幸福、隠れ家を見つけようとしているこの落ち着かない世の中で、 私たちが捜そうとしているものが何であるか、発見しようとしているものが何であるか、見出すことが重要ではないでしょうか? たぶん私たちの大抵はある種の幸福、ある種の平和を捜しているのです。騒動、戦争、闘争、苦闘に駆られているこの世の中で、私たちはいくらかの平和のあり得る隠れ家を望みます。私はそれが私たちの大部分が望んでいることだと思います。そこで私たちは追い求め、ある指導者から別の指導者に、ある宗教的組織から別の組織に、ある教師から別の教師のところに行きます。

さて、それは私たちが幸福を捜し求めているということでしょうか、それともそれから幸福を引き出すことを期待して、ある種の満足を捜し求めているということでしょうか? 確かに幸福と満足の間には違いがあります。幸福を捜し求めることができますか? たぶん満足を見つけることはできるでしょう。しかし、確かに、幸福を見つけることはできません。幸福は確かに派生的なものです。それは他の何かの副産物です。それゆえ、多くの真面目さ、注意、思考、気遣いを必要とするものに心とハートを注ぐ前に、私たちが捜し求めているのは何であるか、幸福か、それとも満足なのか、見出さなければならないのではないでしょうか? 私は私たちの多くが満足を捜し求めているようだと思います。私たちは満足することを望みます。探索の終わりに充足の感覚を見い出すことを望みます。

さて、あなたは何かを捜すことができるでしょうか? なぜあなたはこの会合に来るのでしょうか? なぜ皆ここに腰掛けて、私の言うことを聞いているのでしょうか? なぜあなたは聞いているのか、なぜ暑い日に遠くからわざわざ来て聞くのか見い出すのは非常に興味のあることでしょう。そして、あなたは何を聞いているのでしょうか? 困難に対する解答を見い出そうとしているのでしょうか、そしてそれがあなたがある講演者から別の講演者のところに行き、さまざまな宗教的組織を通り抜け、本を読む、などなどをする理由でしょうか? それとも、すべての困難、悲惨、争い、衝突の原因を見い出そうとしているのでしょうか? 確かにそれはあなたがたくさん読まなければならない、数え切れないほどの会合に参加したり、教師を探し出さなければならないということを必要としませんね? それが必要とすることは意図の明確さではないでしょうか?

結局、平和を求めているなら、人はそれを非常に容易に見いだすことが出来ます。人はある種の大義、観念に盲目的に専念し、そこに隠れ家を得ます。確かにそれは問題を解決しません。取り囲む観念の中に単に孤立することは葛藤からの解放ではありません。それゆえ、私たちの一人一人が、外部に向かってだけでなくて内面的にも、望んでいるものが何であるかを私たちは発見しなければならないのではないでしょうか? その事について明確であるなら、そのとき私たちはどこにも、どんな教師のところにも、どんな教会にも、どんな組織にも行く必要はありません。それゆえ、私たちの困難は、私たちの意図に関して私たち自身の中で明確であることではないでしょうか? 私たちは明確であることができるでしょうか? そしてその明確さは探索を通じて、最高の教師から普通の街角の教会の牧師に至るまで、他人が言うことを見出そうとすることを通じて生じるでしょうか? 見いだすために誰かのところに行かなければならないでしょうか? けれども、それが私たちがしていることではないでしょうか? 私たちは多数の本を読みます。多くの会合や討論に出席します。種々の組織に参加します―それによって私たちの生活の中の葛藤に対する、悲惨に対する治療薬を見いだそうとして。あるいは、そういったことをしないなら、私たちは見出したと思っています。すなわち、特定の組織、特定の教師、特定の本が私たちを満足させると言います。私たちはその中に望むあらゆるものを見つけました。そして結晶化し、囲われてその中に留まります。

それゆえ、私たちは、平和、幸福、実在、神、あるいはあなたの呼びたいもの、が他の誰かによって私たちに与えられ得るかどうか、本当に熱心に、深く自問する点に到達しなければなりません。この絶え間ない探索、この熱望が、私たちが本当に私たち自身を理解するとき生じる実在のあの途方もない感覚、あの創造的な存在を私たちに与えることができるでしょうか? 自己認識は探索を通して、他の誰かに従うことを通して、何か特定の組織に属することを通して、本を読むことなどなどを通して生じるでしょうか? 何といっても、それが主要な論点ではないでしょうか?、私が私自身を理解しない限り、私は思考のための基盤を持たず、私の探索はすべて無駄であるだろうということが。私は幻想に逃避することができます。私は闘争、敵対、苦闘から逃げることができます。私は他人を崇拝することができます。私は他の誰かを通して私の救済を捜すことができます。しかし私が私自身について無知である限り、私が私の全体の過程に気づかない限り、私は思考のための、愛情のための、行為のための基盤を持っていません。

しかし、それは私たちが望む最後のことです。私たち自身を知ることは。確かにそれがその上に私たちが築くことのできる唯一の基礎です。しかし、私たちが築くことができる前に、私たちが変えることができる前に、私たちが非難したり破壊することができる前に、私たちは私たちがそうであるものを知らなければなりません。それゆえ、探求に出かけること、教師、導師を変えること、ヨーガ、呼吸を練習すること、儀式を行うこと、大師に従うこと、その他すべてはまったく無益ではないでしょうか? それは意味を持っていません。例え私たちの従うまさにその人が、あなた自身を学びなさい、と言うかもしれないとしても。なぜなら、私たちがそうであるものが、世界であるからです。私たちが卑劣で、嫉妬深く、うぬぼれが強く、貪欲であるなら―それが私たちが私たちに関してつくり上げたものです。それが私たちが住んでいる社会です。

それゆえ、私にはこう思われるのですが、実在を見つける、神を見つける旅に取り掛かる前に、行動することができる前に、他の人と、それは社会ですが、何かの関係を持つことができる前に、確かに、私たち自身を理解することを最初に始めることが絶対必要です。そして私はまじめな人は最初にこのことに完全に関わり、特定の目標にどうやって到達するかに関わるのではない人であると考えます。なぜなら、あなたと私が私たち自身を理解しないなら、どうやって行動の中で、私たちが社会の中に、関係の中に、私たちのする何かの中に変容をもたらすことができるでしょうか? そして明らかにそれは、自己認識が関係に対立したり、関係から孤立したりするということを意味しません。それは明らかに、大衆に対立したものとして、他の人に対立したものとして、個人、「私」を強調するということを意味しません。あなた方の誰かが、あらゆる言葉とその反応を見守って、あなた自身を学ぶことを真剣に企てたかどうか私はわかりません。思考と感情のあらゆる運動を見守って―ただそれを見守リ、あなたが身体的中心から行動するのか、それとも観念から行動するのか、どんなふうにあなたが世界の状況に応答するか、あなたの身体の応答を意識して。私はあなたが今までにこの問題をいったい真剣に調べたことがあるのかどうかわかりません。ひょっとすると、散発的に、最後の手段として、他のあらゆることが失敗し、うんざりするとき、あなた方の誰かがそれを試みたかもしれません。

さて、あなた自身を知ることなしに、あなた自身の考えるやり方、そしてなぜあなたが特定の物事を考えるかを知ることなしに、あなたの条件付けの背景、そしてなぜあなたが芸術と宗教について、あなたの国とあなたの隣人について、そしてあなた自身について特定の信念を持つかを知ることなしに、どうして何かについて本当に考えることができるでしょうか? あなたの背景を知ることなしには、あなたの思考の内容とそれがどこから生じるか知ることなしには―確かにあなたの探索は全く無駄で、あなたの行為は何の意味も持たないのではないでしょうか? あなたがアメリカ人であるのか、インド人であるのか、あるいはあなたの宗教が何であるのかは、どれでも何の意味も持ちません。

それゆえ、私たちが生の終局の目的が何であるか、そのすべて―戦争、国家の対立、衝突、全混乱―が何を意味するかを見いだすことができる前に、たしかに、私たちは私たち自身で始めなければならないのではないでしょうか? それは非常に単純に響きますが、しかし極めて困難です。なぜなら、自分自身について行くためには、どんなふうに自分の思考が作動するか見るためには、並外れて油断なく気を配っていなければならないからです。その結果、自分自身の思考と応答と感情の複雑さにますます油断なく気を配り始めるにつれて、人はより大きな気づきを持ち始めます。自分自身にだけでなく、自分が関係している他人にも。自分自身を知ることは、行為の中の、それは関係ですが、自分自身を学ぶことです。しかし、困難は私たちがとてもがまんできないことです。私たちはどんどん進めたいのです、目的に到達したいのです。それで私たちは、学び、観察するための格好の状況を私たち自身に与える時間も機会も持っていないのです。あるいは、私たちは種々の活動で動きが取れなくなっているのです―生計を立てるために、子供達を育てるために―あるいは種々の組織の一定の責任を負っています。私たちはさまざまなやり方でまったく動きが取れなくなっているので、観察し、勉強するための自己反省の時間をほとんど持っていないのです。それゆえ、実際に、反応の責任は他人ではなく自分自身にかかっているのです。そしてアメリカや世界中に於けるような、導師とその方式の追求、これやあれやについての最新の本を読むことなどは、私にはそんなにもまったく空虚で、そんなにもまったく無益に思われるのです。というのは、あなたは地球中を歩き回るかもしれませんが、あなた自身に戻らなければならないからです。そして、私たちの大部分は私たち自身にまったく気づいていないので、私たちの思考と感情と行為の過程を明確に見始めることはきわめて困難です。そしてそれが、私が話すことになっている続く数週間の間に、私が取り扱おうとしていることなのです。

あなた自身を知れば知るほど、一層の明確さがあります。自己認識には終わりがありません―あなたは達成に到達しません。結論に到達しません。それは果てしのない河です。そして人はそれを学ぶにつれて、それをますます調べるにつれて、平和を見いだします。心が平静なときにのみ―自己認識を通して、課せられた自己鍛錬を通してではなく―そのときにのみ、その平静の中に、その静けさの中に、実在が生じることができます。至福があり得るのは、創造的な行為があり得るのは、そのときのみです。そしてこの理解なしに、この経験なしに、単に本を読み、講話に参加し、宣伝をすることはそんなにも子供じみている―あまり意味のないただの活動、と私には思われます。ところが自分自身を理解し、それによってあの創造的な幸福を、心に属しないもののあの経験をもたらすことができるなら、そのとき、たぶん私たちの周りの直接の関係の中に、それゆえ私たちが住んでいる世界の中に、変容があり得るでしょう。

質問: あなたを理解するためには、私は意識の何か特別のレベルにいなければならないでしょうか?

クリシュナムルティ: 何かを理解するためには―私が言っていることだけでなく、何かを理解するためには―何が必要でしょうか? あなた自身を理解するためには、あなたの夫、妻を理解するためには、絵を理解するためには、景色、木々を理解するためには何が必要でしょうか? 正しい注意、それではないでしょうか? なぜなら、あるものを理解するためには、それに全存在を、あなたの分割されていない、十分な、深い注意を注がなければならないからです。そうでないでしょうか? そしてどうすれば深い十分な注意があり得るでしょうか、あなたが気を散らされているときに?―例えば、私が話しているのであなたがノートを取っているとき、たぶん、あなたはいい文句を捕まえます。そして「おやまあ、私はそれを書きとめよう。それを私の話の中で使おう」と言います。あなたが単に言葉に関わっているに過ぎないときに、どうして十分な注意があり得るでしょうか? すなわち、あなたは言葉の上のレベルに集中しており、それゆえ、その言葉の上のレベルを越えることができません。言葉は単に伝達の手段です。しかしあなたが伝達することができないで、単に言葉にくっつくに過ぎないなら、明らかに十分な注意はあり得ません。したがって、正しい理解はありません。

それゆえ、聞くことは芸術ではないでしょうか? 或ることを理解するためには、あなたは十分な注意を注がなければなりません。そして何かの種類の注意散漫、ノートを取ることがあるとき、あるいは腰掛けていて心地よくないとき、あるいは努力することによって理解しようと苦闘しているとき、それは不可能です。理解しようと努力することは明らかに理解することに対する障害です。なぜならあなたの注意全体が努力をすることに行ってしまっているからです。あなたが今までに気付いたことがあるかどうかわかりませんが、あなたが他の人が言っていることに興味を持つとき、あなたは努力していません。注意散漫に対して抵抗の壁を築き上げていません。あなたが関心があるとき、注意散漫はありません。あなたは言われていることに十分な注意を、熱心に、自発的に注いでいます。生き生きとした関心があるとき、自発的な注意があります。しかし私たちの大抵はそのような注意は非常に困難なことを見出します。なぜなら、意識的に、心の上層のレベルで、あなたは理解しようと望んでいるかもしれませんが、内面に抵抗があるからです。あるいは内面に理解しようとする欲求があるかもしれませんが、外部に、表層に、抵抗があるのです。

それゆえ、あることに十分な注意を注ぐためには、あなたの全存在の統合がなければなりません。なぜなら、意識の一つのレベルであなたは見いだそうと望んでいるかもしれません、知ろうと望んでいるかもしれません。しかし別のレベルでは、その知ることそのものが破壊を意味するかもしれません。なぜなら、それはあなたに全生活を変えさせるかも知れないからです。それゆえ、内面の闘争、内面の苦闘があり、それにあなたはたぶん気がついていないでしょう。あなたは注意を払っていると思うけれど、実際は内部や外部に進行している注意散漫があります。そしてそれが困難なのです。

それゆえ、何かを理解するためには、人は完全な注意を注がなければなりません。そしてそれが種々の会合で、ノートを取るべきでない、あなたは私のためやあなた自身のために宣伝をしようとしてここにいるのではない、理解するためにのみ聞くべきであると示唆してきた理由です。理解する中での私たちの困難は、私たちの心が決して静かでないことです。私たちは決して何ごとも静かに、受容力のある気持ちで見ません。新聞、雑誌、政治家、説教師によって、多くのたわごとが私たちに投げつけられます。街角のあらゆる説教師が私たちにしなければならない事と、してはならない事を告げます。そういったことが絶えず注ぎ込まれています。そして当然、そのすべてに対する内部の抵抗もまたあります。心がかき乱されている限り、理解はあり得ません。心が非常に静かで、静まり、平静で、受容力があり、敏感であるのでない限り、理解することはできません。そしてこの心の敏感さは単に、表面的な心の中の、意識の上層のレベルにあるに過ぎないのではありません。まっすぐに貫いて平静さ、統合された平静さがなければなりません。非常に美しいものの存在の中にあなたがいるとき、もしおしゃべりを始めるなら、あなたはその意味を感じないでしょう。しかしあなたが静かであるやいなや、あなたが敏感であるやいなや、その美があなたに至るでしょう。同様に、私たちが何かを理解したいなら、身体的に静かでなければならないだけでなく、心は極度に油断がなく、その上平静でなければなりません。その心の油断のない受動性は強制を通して生じるのではありません。心を静かであるように訓練することはできません。そのときそれは単に訓練された猿のように、外側で静かであるに過ぎず、内側では沸騰しているのです。それゆえ、聞くことは芸術です。そしてあなたは理解したいものに、あなたの時間、あなたの思考、あなたの全存在を注がなければなりません。

質問: あなたの言っていることを他の人たちに教えることによって、私はそれをより容易に理解することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはそれを他の人たちに話すことによって、物事を述べる新しいやり方を、あなたが言いたいことを伝える利口なやり方を覚えるかもしれません。しかし確かに、それは理解ではありません。あなたがあなた自身を理解していないなら、どうして幾つもの名称の中のその名称で、他の人にそれを話すことができるのでしょうか? 確かに、それは単に宣伝に過ぎないのではないでしょうか? あなたは何かを理解していません。しかしあなたはそれを他の人たちに話します。そしてあなたは真実は繰り返し話すことができると思います。あなたがある経験を持つなら、それを他の人に話すことができると思いますか? 言葉の上で伝達することはできるかもしれません。しかしあなたの経験を他の人たちに話すことができますか―すなわち、あなたはあることの経験を伝達することができますか? あなたは経験を記述することができるでしょうが、経験している状態を伝達することはできません。それゆえ、繰り返して話される真実は、真実であることを止めます。繰り返し話すことができるのはうそだけです。しかしあなたが真実を「繰り返して話す」やいなや、それはその意味を失います。そして私たちの大抵は繰り返し話すことにかかわりますが、経験していないのです。何かを経験している人は単なる反復に、他人を変えようとすることに、宣伝に関わりません。しかしあいにく、私たちの大抵は宣伝にかかわります。なぜなら、宣伝を通じて、私たちは他人を確信させようとするだけでなく、他人を搾取することによって生計をも得ようとするのです。それは次第に商売になります。

それゆえ、あなたが単なる言語化に囚われないで、本当に経験することに専念するなら、そのときあなたと私は親交しています。しかし、あなたが宣伝をしようと望むなら―そして私は真実は宣伝することができないと言います―そのとき私たちの間に関係はありません。そしてそれが現時点での私たちの困難であるようです。あなたは、経験することなしに、人に話すことを望みます。そして話す中で、経験することを期待します。それは単なる感情、単なる満足にすぎません。それは意義がありません。それはその背後に正当性、実在性を持っていません。しかし、経験された実在は、伝達されるとしても、束縛をつくり出しません。それゆえ、言葉の上のレベルの伝達より、経験することがはるかに重要です。より大きな意義を持っています。

質問: 生の運動は人々、および観念との関係の中で経験されると私には思われます。そのような刺激から離脱することは気がめいる空虚の中に生きることです。私は生きていると感じる気晴らしが必要です。

クリシュナムルティ: この質問の中に離脱と関係の全問題が含まれています。さて、なぜ私たちは離脱することを望むのでしょうか? 私たちの多くの中にある押し離すことを望む、離脱することを望むこの本能は何でしょうか? 私たちの大抵にとってこの離脱の観念は、非常に多くの宗教的教師がそれについて「あなたは実在を見いだすために離脱しなければならない。放棄しなければならない、あきらめなければならない、すると そのときのみ あなたは実在を見いだすであろう」と話してきたため生じたということかも知れません。そして私たちは関係の中で離脱することができるでしょうか? 関係とはどういうことでしょうか? それゆえ、私たちはこの質問を少し注意深く調べなければならないでしょう。

さて、なぜ私たちはこの本能的な応答を、この離脱に対する期待を持つのでしょうか? 種々の宗教的教師は、あなたは離脱しなければならないと言いました。なぜ? まず第一に、問題はこうです。なぜ私たちは愛着するのでしょうか? どうやって離脱するかではなくて、愛着するのはなぜでしょうか? 確かに、それへの答えを見つけることができるなら、そのとき離脱の問題はないのではないでしょうか? なぜ私たちは魅力に、感情に、心やハートの物事に愛着するのでしょうか? なぜ私たちが愛着するか発見できれば、そのときたぶん私たちは正しい答えを見いだすでしょう―どうやって離脱するかではなく。

なぜあなたは愛着するのでしょうか? そしてもしもあなたが愛着しないなら何が起こるでしょうか? もしもあなたがあなたの特定の名前、財産、地位に愛着しないなら―ほら、あなたを作り上げている物事の全集合体、あなたの家具、あなたの自動車、あなたの性格、あなたの個性、あなたの徳、あなたの信念、あなたの考え―何が起こるでしょうか? もしもあなたが愛着しないなら、あなたはあなた自身が無としてあるのを見いだすのではないでしょうか? もしもあなたがあなたの快適さに、あなたの地位に、あなたの虚栄に愛着しないなら、あなたは突然途方にくれてしまうのではないでしょうか? それゆえ、空虚の恐怖、無であることの恐怖があなたを何かに愛着させます―それがあなたの家族にであろうが、あなたの夫、妻に、椅子に、自動車に、あなたの国にであろうが―それは何の問題でもありません。無であることの恐怖は人を何かにしがみつかせます。そしてつかみ続ける過程の中に、葛藤があります。苦痛があります。なぜなら、あなたがつかみ続けるものはやがて崩壊します、死にます。あなたの自動車、あなたの地位、あなたの財産、あなたの夫。それゆえ、つかむ過程の中に、苦痛があります。そして苦痛を避けるために、私たちは離脱しなければならないと言います。あなたはあなた自身を調べ、そしてこれがそうであることが見えるでしょう。孤独の恐怖、無であることの恐怖、空虚の恐怖が私たちを何かに愛着させます。国に、観念に、神に、何かの組織に、大師に、規律に、あなたの望むものに。愛着の過程の中に、苦痛があります。そしてその苦痛を避けるために私たちは離脱を養成しようとします。それで私たちはいつも苦痛に満ちた、その中にいつも苦闘のあるこの輪を維持するのです。

さて、なぜ私たちは無として、取るに足らない人としてあることができないのでしょうか、単に言葉の上だけでなく、内面で? そのとき愛着とか離脱の問題はないのではないでしょうか? そして、その状態の中に、関係があることができるでしょうか? なぜならそれがこの質問者が知りたいことであるからです。質問者は人々との、そして観念との関係なしには、人は気がめいる空虚の中に生きると言います。それはそうでしょうか? 関係は愛着の過程でしょうか? 誰かに愛着するとき、あなたはその人に関係しているでしょうか? 私があなたに愛着し、あなたをつかみ続け、あなたを所有するとき、私はあなたに関係しているでしょうか? あなたは私にとって必要物になりました。なぜなら、あなたなしでは私は途方にくれます、落ち着きません、惨めに感じます、淋しく感じます。それゆえ、あなたは必要なものに、有用なもの、私の空虚を充たすものになります。あなたが重要ではありません。重要なのはあなたが私の必要を充たすことです。そして私たちの間に何か関係があるでしょうか? 私にとってあなたが必要、一つの家具のように必要物であるとき。

言い換えると、人は関係なしに生きることができるでしょうか? そして関係は単に刺激に過ぎないのでしょうか? なぜなら、それなしには、それをあなたは気晴らしと呼びますが、あなたは途方にくれたように感じます。生きているように感じません。すなわち、あなたは関係を気晴らしとして取り扱い、それはあなたを生きているように感じさせます。それが質問者の言っていることです。

それゆえ、人は世界の中で関係なしに生きることができるでしょうか? 明らかにできません。孤立して生きることができるものは何もありません。私たちの中のいくらかの人は、たぶん、孤立して生きるのを好むでしょうが。しかし人はそうすることはできません。したがって、関係は単に気晴らしに過ぎなくなり、それはあなたをあたかも生きているかのように感じさせます。お互いとけんかすること、苦闘、闘争を持つこと、などは人に生きているという感覚を与えます。それゆえ、関係は単なる気晴らしに過ぎなくなります。そして、質問者が言うように、気晴らしなしには、あなたは死んだように感じます。したがって、あなたは関係を単に気晴らしの手段として使用します。そして気晴らしは、飲酒、映画に行くこと、知識を蓄積することのどれにしても―どんな形の気晴らしも―、心とハートを鈍くするのではないでしょうか? 鈍い心、鈍いハート―どうしてそれが他の人と何か関係を持つことができるでしょうか? 何かに関係することができるのは、敏感な心、愛情に目覚めたハートだけです。

それゆえ、あなたが関係を気晴らしとして取り扱う限り、あなたは明らかに虚無の中で生きています。なぜならあなたはその気晴らしの状態から出ることを恐れているからです。したがってあなたはどんな種類の離脱も、どんな種類の分離も恐れます。関係はそのときあなたを生きていると感じさせる気晴らしです。ところが、気晴らしでない真の関係は実際には、何かとの関係の中のあなた自身を理解する過程の中に絶えずある状態なのです。すなわち、関係は気晴らしでなくて、自己発見の過程なのです。そしてその自己発見は非常に苦痛です。なぜなら関係の中であなたは、それを発見するようにあなたが開いているなら、まもなくあなた自身を見いだすからです。しかし私たちの大抵は私たち自身を発見することを望んでいないので、私たちの大抵は関係の中の私たち自身をむしろ隠したいので、関係は盲目的に苦痛になり、私たちはそれから離脱しようとします。関係は刺激ではありません。なぜあなたは関係を通して刺激されることを望むのでしょうか? そしてあなたがそうであるなら、そのとき関係は、刺激のように、鈍くなります。どんな種類の刺激も結局は心を、そしてハートの感受性を鈍くするということにあなたが気がついたことがあるかどうか私はわかりません。

それゆえ、離脱の問題は決して生じるべきではありません。なぜなら所有する人のみが放棄を考えるからです。しかし彼は決してなぜ所有するか、所有するようにさせた背景は何であるかを尋ねません。彼が所有の過程を理解するとき、そのとき自然に所有からの自由があります―離脱のような反対のものの養成ではなく。そして関係は、私たちが他人を自己満足の手段として、あるいは必要物として私たち自身から逃避するために用いている限り、単に刺激、気晴らしに過ぎません。あなたは私にとって非常に重要になります。なぜなら私自身の中で私は非常に貧しいからです。私自身の中で私は無であり、したがってあなたがすべてです。そのような関係は葛藤、苦痛になるに決まっています。そして苦痛を与えるものはもはや気晴らしではありません。したがって、私たちはその関係から逃避することを望みます。それを私たちは離脱と呼びます。

それゆえ、私たちが関係の中で心を用いる限り、関係の理解はあり得ません。なぜなら、結局、私たちを離脱させるのは心であるからです。愛があるとき、愛着や離脱の問題はありません。その愛の停止があるやいなや、そのとき愛着と離脱の問題が始まります。愛は思考の産物ではありません。愛を考えることはできません。それは存在の状態です。そして心がその計算で、その嫉妬で、そのさまざまな利口な欺瞞で干渉するとき、そのとき関係の中の問題が生じます。関係はそれが自己を自己に対して暴露する過程であるときのみ意義を持ちます。そしてもし、その過程の中に、ひとが深く、広く、広範囲に進むなら、そのとき関係の中に平和があります―争いでなく、二人の人の間の敵対でなく。その静かさの中に、自己認識の結実があるその関係の中にのみ、平和が確かにあるのです。

1949年7月16日

(訳者: N.Goto)2002.07.掲載

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