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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 ロンドンの公開講話(第1回)

J. Krishnamurti London 1st Public Talk 2nd October 1949

これは一続きの最初の講話です。大部分の人は、すべての講話に来ることは出来ないでしょうから、出来れば、各々の講話をそれ自体で完結するようにしようと思います。

問題を持っている私たちの大部分にとって、私たちがそれぞれの問題をそれ自体の平面上で解決しようとすることの中に難しさが横たわっています。私たちは問題を統合的に、全体として解決しようとはしないで、それを特定の観点から解決しようとします。あるいは問題を、生であるところの全体の過程から区別しよう、切り離そうとします。経済的な問題を持っているなら、生の全体の過程を無視して、その平面上で単独で解決しようとします。そしてそのように取り組むとき、どの問題も明らかに解決に失敗するに違いありません。なぜなら私たちの生は水も漏らさない仕切りの中にあるのではないからです。私たちの生は、生理的のみならず心理的にも全体的な過程であり、そして心理的な問題を、生理的な問題の理解なしに解決しようとするとき、間違った強調をし、したがって問題を一層複雑にします。私たちがしなければならないことは、私にはそう思えるのですが、それぞれの問題を別個の争点として取り扱うのではなく、全体の一部として取り上げることです。

そこで、生における私たちの問題は何でしょうか? なぜなら、それぞれの問題にどうやって正しく接近するか理解できるなら、その問題だけでなく、生存の意義全体を理解できるだろうと私には思われるからです。そしてそれが私たちの難しさなのではないでしょうか? どんなふうに問題に統合的に、全体として接近するか、それを別個のレベルに保つのではなく、一つの特定の観点から見ようとするのではなく、どんなふうにそれを全体の一部と見做すか。

どうやって問題に統合的に接近することが出来るでしょうか? 私たちが問題と言っているのは何なのでしょうか? なぜなら、私たちは皆さまざまな問題を、重大なものや取るに足りないもの、即時のものや延期できるものを持っているからです。私たちは無数の問題、微妙なものや明白なものによって駆り立てられています。そしてどうやって私たちはそれらに正しく実際に接近できるでしょうか、また問題によって私たちは何を意味しているのでしょうか? そして問題を持っていることに私たちは気づいているでしょうか、そしてどうやってそれらに接近しますか? 問題に対する私たちの態度はどんなですか?

問題によって私たちは何を意味しているでしょうか? 確かに、その中に葛藤のある状態を意味しています。私たちの中に葛藤がある限り、私たちはその葛藤を問題として、解消すべき、理解すべき、解決すべき何かと見做します。あるいはそれから逃げたいと思います。それゆえ、私たちは問題、葛藤に、それから逃げようとか、それへの答えを見出そう、それへの解答を見出そうとかの欲求を持って接近するのではないでしょうか?

さて、解答は問題と違っているのでしょうか、それとも解答は、問題それ自体の理解の中に横たわっていて、それから離れていないのでしょうか? 明らかに、私たちの中の、問題から逃避したいと思っている者は無数のやり方を持っています-飲酒、娯楽、宗教的あるいは心理的幻想、などなど。問題からの逃避を見出し、それらに目を閉じることは比較的容易です。それを私たちの大抵がしています。なぜなら、どうやってそれらに取り組むか、私たちは知らないからです。私たちは常に信念や先入観にしたがって、出来合いの答えを持っています。教師や、心理学者や、他の誰かが私たちに話したことにしたがって。そしてその出来合いの答えで、私たちは問題を解決しよう、接近しようとします。確かにそれは問題を解決しません。それは別の形の逃避です。

それゆえ、私には、問題を理解することは、出来合いの答えではなく、問題の解決を捜そうとすることではなく、問題それ自体の直接の考慮を必要とするように思われます。そのことは、そう言ってよければ、答えを見出そうという欲望なしに問題に接近することです。そのとき、あなたは問題に直接に関係していいるのであり、そのときあなたは問題であり、もはやあなた自身から別個ではありません。そしてあらゆる複雑さを伴う生存の問題が私たち自身と違ってはいないということが、理解しなければならない最初のことであると私は思います。私たちが問題なのです。そして問題を私たちから離れた、あるいは別の何かとして見做す限り、私たちの接近は不可避的に失敗に終わるに違いありません。他方、問題を私たちから切り離すのでなく、私達自身として、私たちの一部として見做すことができるなら、そのとき、たぶん、それをはっきり理解することが出来るでしょう-それは、本質的に、自己認識がないので問題が存在するということではないでしょうか? 私が私自身を、私自身の複雑さ全体を理解していないなら、私は考えるための基盤を持っていません。『私自身』は確かにどの一つの特定のレベルにあるのでもありません。『私自身』は、私がどのレベルにそれを位置づけようとも、すべてのレベルにあるのです。それゆえ、私が私自身を把握していない限り、私が私自身を十分に、はっきりと理解していない限り-無意識も意識も、隠れたものも表面のものも-明らかに私は問題に、それが経済的、社会的、心理的、あるいはどんな他の問題であるにせよ、接近する手段を持っていません。

自己認識は問題を理解することの始めです。信念、観念、知識は、自己認識なしには、まったく本当に何の意味も持っていません。自己認識なしには、それらは錯覚に、あらゆる種類の複雑さと愚かさにつながります。その中に私たちは非常に微妙に逃避できるのです-そして私たちの大部分はそうします。それが私たちがそんなに多くの協会、そんなに多くの団体、そんなに多くの排他的な組織や秘密団体に参加する理由です。排他的であることは愚かさの性質ではないですか? 愚かであればあるほど、人は宗教的、社会的にますます排他的になります。そしてそれぞれの排他性がそれ自体の問題を作り出します。

それゆえ、私たちに立ちはだかる多くの問題を理解することの中の難しさは、微妙なものも明らかなものも、私達自身を知らないことによって生じます。問題を作り出す者は私たちです。環境の一部である私たち-より以上のものと同等としての。それを私たちは、私達自身を理解できるなら、発見するでしょう。私たちがより以上のもの、神聖な、精神的なものである、私達のなかに永遠のもの、ある精神的な本質があると単に言い張ること-そういったことは明らかに錯覚であると私には思われます。なぜなら、それは知らないものの単なる言語化にすぎないからです。あなたは感じ、気持ちを持つかもしれません。しかしそれは事実に基づくものではありません。事実であるものは発見されなければなりません。経験されなければなりません。しかし、何かを深く根本的に経験するためには、信念があってはなりません。なぜなら、あなたが経験するものはそのとき、あなたの信念によって単に条件付けられているに過ぎないからです。信念はそれ自体の経験をつくり出します。したがって、そのような経験は真実ではありません。それは単に挑戦に対する条件づけられた反応に過ぎません。

それゆえ、私達の一人一人が持っている無数の問題を理解するためには、自己認識があることが不可欠ではないでしょうか? そしてそれはもっとも難しいことの一つです。自己への気づき-それは孤立、隠遁を意味しません。明らかに自己を知ることは不可欠です。しかし自己を知ることは関係からの隠遁を意味しません。そして自己を、孤立を通して、排除を通して、あるいは誰か心理学者の所に、あるいは牧師の所に行くことによってはっきり、完全に、十分に知ることができると思うのは、確かに誤りでしょう。あるいは本を通じて自己認識を学ぶことができると思うのも。自己認識は明らかに過程であり、それ自体目的ではありません。そして自己を知るためには、行為の中で、それは関係ですが、自分自身に気づいていなければなりません。あなたはあなた自身を、孤立の中ではなく、隠遁の中ではなく、関係の中に発見します-社会との、妻、夫、兄弟との、人間との関係の中に。しかしあなたがどう反応するか、あなたの応答がどんなであるか発見するためには、心の並外れた油断のなさ、知覚の鋭さを要します。

それで、どんな問題も全体の過程の結果であり、排除的な孤立した結果ではないので、それを理解するためには、私たちは私達自身の全体の過程を理解しなければなりません。そして私達自身を理解するためには-ただ表面的に、上層の心の一二の層の中だけではなくて、意識の全内容、私達の存在の全内容を通して-それを十分に、はっきりと理解するためには、関係の中で知覚し、経験しなければなりません。私達はその関係を排除的な、狭い、限定されたものにし、それによって私達の自己認識を妨げることもできます。あるいはそれを、その関係を、全体として、自己発見の手段として、見ること、気づいていることもできます。確かに、関係の中でのみ、私のあるがままの過程が展開するのではないでしょうか? 関係は、その中に私が私自身をそうであるままに見る鏡です。しかし私たちの大抵は私たちのあるがままを好まないので、関係の鏡の中に知覚するものを、肯定的あるいは否定的に訓練し始めるのです。すなわち、私は関係の中に、関係の行為の中に何かを発見し、そして私はそれを好みません。それゆえ、好まないもの、不快であると認めるものを修正し始めます。私はそれを変えたい-それは、私は、私がそうあるべきであるパターンを既に持っているということです。私がそうであるべきパターンがある瞬間、私のいまそうであるものの理解はありません。私のそうありたいもの、あるいはあるべきもの、そうであってはならないものの絵-それに従って私自身を変えたいと思う基準-を持つやいなや、そのとき、確かに、関係の瞬間における私のいまそうであるものの理解はありません。

これを理解することが本当に重要だと私は思います。というのは、これが私たちの大部分が迷う所だと私は思うからです。私達は関係の中の与えられた瞬間に、私たちが実際にそうであるものを知りたくないのです。私達が単に自己改善にかかわっているに過ぎないなら、私達自身の、いまあるものの理解はありません。あなたは単に結果を得ることにかかわっているに過ぎません。そして結果を得ることは、結局恐るべき穴です。なぜならそれはどこにも導かないからです。しかし、あるべき私でなく、そうである私を知ることは、すこぶる骨が折れます。なぜなら心は非常に微妙で、そこにあるどんなものも避けるのに非常に熱心であるからです。そこでそれは種々の基準、パターン、憶説を発達させました。それは今あるものを否定します。それゆえ、自己を、それは死んだものではなくて生きているものですが、理解するためには、あなたは活動的に新しく接近しなければならず、したがって、基準を肯定的や否定的に主張することはできません。

それゆえ、自己を理解するためには-それは関係の中でのみなされることができるのです。外部の関係ではありません-非難があってはなりません。私が何かを非難するなら、それを理解しません。あるいは何かを受容するなら、私はそれを理解しません。受容は単に問題との同一化に過ぎません。そして否定や非難は同一化のもうひとつの形です。しかし、私たちが問題を非難や同一化なしに見ることができるなら-すなわち、関係の中で、私自身の問題を私がそうである通りに見ることができるなら、それは行為ですが-、そのとき、いまあるものを理解する可能性が、したがって、いまあるものを開く可能性があります。

それゆえ、私達の問題は私達自身の全体の過程の結果であるので、それはもの、観念、人々のどれとであれ関係の中の行為なのですが、私達自身の理解がなければならないということが不可欠ではないでしょうか? 私自身を知ることなしには、私は考えるための実在の基盤を持ちません。私は考えることができます。少なくとも考えることが出来ると思います。私は意見を持つかもしれません。無数の信念を持つかもしれません。この協会、あの組織や教会に属するかもしれません。広大な知識を持つかもしれません。確かに、そういったものは正しい思考のための基盤ではありません。それは錯覚につながります。それは一層の葛藤、一層の混乱につながります。それゆえ、正しく考えるためには、自己認識があることが不可欠ではないでしょうか? それは、あなた自身をあなたがそうである通りに瞬時瞬時知ること、進行するあらゆること、外側のあらゆる挑戦に対する、あらゆる経験に対する内部の反応のすべてに気づいていることです。しかし、何かの形の信念、昨日の経験に対する何かの形の執着があるなら、あなた自身を十分に、完全に、深く、広く知ることはできません。何かを理解するためには、新鮮な心を必要とします-偏見を持った心ではなく、経験で動きが取れなくなった心ではなく。なぜならあなた自身を理解するためには、自己発見がなければならないからです。明らかに、発見は瞬時瞬時にのみあり得るのであり、したがって、連続性がなければなりません-高貴であろうが、ばかげていて愚かであろうが、単に特定の型に条件づけられた思考ではなく。

それゆえ、特定の経験、それは関係なのですが、その全体の意義に気づいていることはそんなに容易ではありません。それは並外れて油断のない、鋭い心を必要とします。しかし心は、昨日の経験にしがみつくことによって鈍くされています。心は信念によって鈍くされています。既に言ったように、信念に基づく経験は単に心を条件付けるに過ぎません。そしてそのような経験は、非常に申し分なく満足でも、関係の中の反応の気づきを通して生じる途方もない、幅広い自己認識を明らかに限定します。なぜなら、あなたが経験を持ち、その経験に、それは記憶なのですが、しがみつき、そしてその条件づけられた思考をもって、その記憶をもって新しい挑戦に接近するなら、明らかにその挑戦の理解はないからです。そして関係は、確かに挑戦ではないでしょうか? 関係は静的なものではありません。そして、その挑戦に適切に、十分に出会うことが出来ないために私達は問題を持ちます。私達は国家主義者、カソリック、プロテスタント、仏教徒、その他の何かわけの分からないものであるので、あるいはこの協会やあの団体に属するので、それらは皆限定するのですが、絶えず起こっている挑戦に出会うことが出来ないのです。というのは挑戦に出会うためには、完全な自己認識がなければならないからです。そして私達自身を発見する手段として、記憶に、過去の経験に頼ることは、明らかに私達の思考を、私達の知覚を限定します。なぜなら、結局、私達の大抵が求めているものは何でしょうか? 私たちは問題を持っているけれども、経済的に悩んでいるけれども、巨大な不安定、戦争、国家主義の生活妨害、無数の教団・宗教の排他主義、そして排他的であろうとする私達自身の欲求があるけれども-これらすべての愚かさにもかかわらず、私達が実際に求めているのは何でしょうか? それを知ることができるなら、多分私たちは理解することができるでしょう。なぜなら私達は私達の年齢にしたがって、私たちの人生の期間と環境にしたがって求めるからです。

この混乱のすべてを通じて、永久的なもの、永続的なもの、私たちが実在、神、真理、あなたの好む何か、と呼ぶものを私達は求めないでしょうか?-名前は問題ではありません。確かに、言葉はものではありません。それゆえ言葉に捉えられないようにしましょう。それは専門的な講演に任せましょう。確かに私たちの大部分に、永続的なものを求める追求があるのではないでしょうか?-私達がしがみつけるもの、私達に保証、希望、永続的な熱狂、永続的な確実性を与えてくれるもの。なぜなら私達自身の中で、私達はそんなにも不確かであるからです。私達は私達自身を知らないのです。私達はたくさんの事実、本が述べていることを知っています。しかし私達自身で知っていません。私たちは直接の経験を持っていません。

そして私たちが永続的と称するものは何でしょうか? 私たちに永続的なものを与えてくれる、あるいは与えてくれると私たちが思っている、私たちの求めているものは何でしょうか? 私たちは永続的な幸福、永続的な満足、永続的な確実性を求めていませんか? 私たちは私たちを満足させそうな、果てしなく持続するものを望みます。私達自身からすべての言葉と句を取り除き、実際にそれを見るなら、これが私たちの望んでいるものです。私たちは永続的な快楽、永続的な満足を望みます-それを私たちは真理、神、あなたの望む何か、と称するのです。

それゆえ、私達は快楽を望みます。多分それは非常に粗野に述べているかもしれませんが、それが現実に私達が望んでいるものです-私達に快楽を与える知識、私達に快楽を与える経験、明日までになくならない満足。そして私達は種々の満足を試しました。それらはすべて消えていきました。そして今私たちは永続する満足を実在の中に、神の中に見出そうと思います。確かに、それが私達が皆追求していることです-利口な人も愚かな人も、何かを目指して努力している理論家も実際的な人も。そして永久的な満足があるでしょうか? 持続する何かがあるでしょうか?

さて、あなたが永続的な満足を、それを神とか、真理とか、あなたの望む何かと呼んで求めるなら-名前は問題ではありません-確かにあなたは求めているものを理解しなければならないのではないでしょうか? 『私は永久的な幸福を求めている』とあなたが言うとき-神、あるいは真理、あるいはあなたの好む何か-、あなたはまた探求している当のもの、探求者、追求者を理解しなければならないのではないでしょうか? なぜなら、永続的な安全、永続的な幸福というようなものはないかも知れないからです。真理はまったく違ったものであるかもしれません。そしてそれはあなたが見、心に描き、公式化できるものとはまったく違うと私は思います。それゆえ、永続的な何かを追求する前に、追求者を理解することが明らかに必要ではないでしょうか? 追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 『私は幸福を追求している』と言うとき、追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 思考者は思考と違うでしょうか? それらは、別の過程というよりはむしろ、共通の現象ではないでしょうか? したがって、追求者が求めているものが何であるかあなたが見出そうとする前に、追求者を理解することが不可欠ではないでしょうか?

そしてそれが、自己を理解することがそんなにも不可欠で、そんなにも重要に私に思われる理由です。なぜなら自己の中に全部の問題と全部の論点があるからです。あなたは目的である、あなたは絶対である、あなたは神、これやあれであると規定すること、公式化することは明らかにあなたに逃避を与える言語化であり、それを通してあなたは確かに逃避するのです。あなたが実在のもの、あるいは虚偽のものであるとか、ないとか言うことは意味がありません。なぜなら、あなたは、どんなそのような思考のための基盤も持っていないからです。そしてあなたは、あなた自身を知っているときのみ、正しく考えることができるのです。あなた自身を知るためには、あなたは思考の一つ一つの運動に完全に気づいていなければなりません。そのとき、その気づきの中に、思考者が彼の思考と違っているかどうかを見出すでしょう。違っているなら、そのときどうやって思考を制御するかという多くの複雑な問題を私たちは持ちます。するとそのとき、あらゆる修養というばかげたことが始まります-瞑想、思考への思考者の接近。しかし彼の思考と違う思考者があるでしょうか? 思考者は、思考ではないでしょうか? それらは別個ではなく、単一の過程です。したがって私たちは思考です。思考を考えている思考者ではなく。そしてこれは直接の経験でなければなりません。思考者は思考であるというこの理解は。そしてこのような経験があるとき、そのとき、思考を超える可能性があるということが見えるでしょう。

なぜなら、結局、思考は記憶の反応にすぎないからです。そして記憶が作り出し、でっち上げ、投影するものは実在のものではありません。神は記憶の、教育の、この協会やあの協会に属することや、これやあれの教条を信じることの結果ではありません。それらは皆思考の結果にすぎず、それは記憶の、経験の反応です。しかし実在があるかどうか、神というようなものがあるかどうかを見出すためには、明らかに、最初に自己を理解することが不可欠であり、神があるかどうか、ないかどうかを思索することではありません。というのはあらゆる思索は時間の浪費であるからです。

それゆえ、私達一人一人に立ちはだかる問題を理解するためには、複雑であろうが、微妙であろうが、確かに、それらは私達の外部の、私達の思考の外部の何かではないということを理解しなければなりません-そうではなくて、これらの問題は私達自身の過程や結果なのです。世界は私達です。私達と分離しているのではなく。世界の問題は私の問題、あなたの問題です。別個に処理されるべき何かではなく。そしてこれらの問題を解決するためには-表面的ではなく、一時的ではなく、根本的に、永続的にですが-、自己の理解がなければなりません。そして自己を理解するためには、関係の中に無選択の気づきがなければなりません。そのとき、人は自分自身をそうである通りに知覚します。そしてそのとき、より十分に、深く、それに突っ込むことができます。しかしあなたのあるがままのものを、非難によって、近似、同一化によって蔽ってしまうなら、そのとき理解はなく、そのとき自己認識の過程は限定されます。自分自身を完全に、十分に、意識も無意識も理解する中でのみ、心が静かにさせられたのでなく静かであるときのみ-そのときのみ、実在を発見する、経験する、知る可能性があるのです。

それが瞑想が重要である理由です。しかし私たちの多くがふける瞑想ではありません。それはただの強制、あるいは観念への近似、あるいは心を静かにさせるための訓練にすぎません。それは子供じみています。なぜなら心を静かにさせることはできないからです。心を静かにさせるのは誰でしょうか? そのような努力は幻想につながります。それは他の時に取り扱いましょう。しかし強制を通じてではなく、何かの形の近似を通じてではなく、心が静かなとき、無理にさせられたのではなく、強いられたのではなく、順応させられたのではないとき、心がそれ自身の過程を理解することを通して本当に静かなとき-そのときのみ、永遠であるものを発見する可能性があるのです。そのとき真理を求める必要はありません。真理を求めることは真理を否定することです。なぜなら真理は得ようとして得られることがないからです。それはあなたに生じなければなりません。そしてそれは心が静かなときのみ生じることができます-静かにさすのではなくて静かなとき。そして自己認識を通じてのみ、静かさがあります。平安があります。静寂があります。

私はいくつかの質問を与えられており、そのいくつかに答えましょう。

質問: 別の戦争があるでしょうか、どれほどのうちに?

クリシュナムルティ: あなたは私から予言を望みます?! それであなたの投資を守ることが出来る?! さて、なぜ私たちはそのような質問を尋ねるのでしょうか? 戦争になろうとしているかどうか、あなたはわからないのでしょうか? 新聞からでなく、政治的指導者からでなく-というのは、結局、あなたはあなたの混乱にしたがって、指導者を選ぶからです。混乱すればするほど、あなたはますます多くの指導者を持ちます。あなた自身の中で、混乱がより少なくより明確であればあるほど-それはあなたの学習を通じてではありません-あなたはより指導者を必要としません。それで、あなたは戦争になろうとしているかどうか、独力でわからないのでしょうか?

戦争とはどういうことでしょう? 戦争はただ劇的な、スリルある流血の惨事ではありません。それは最終段階です。しかし、私達は絶えず私達自身と、それゆえ環境と、隣人と、戦争していませんか? 確かに、私達が戦争していると教えられる必要はありません。私達がそうであるもの、私達は世界をそうあらしめるのです。私達が国家主義的である限り戦争は不可避です。あなたが英国人で私がインド人である限り、確かに戦争があるでしょう。国境、統治政府、別々の軍隊がある限り、きっと戦争があるはずです。社会的経済的区別、異なるカーストと階級の排除がある限り、きっと戦争があるはずです。

私達は皆これを知っています。多分あなたは一二の歴史の本を読み、歴史の表面的知識を持っているかもしれません。これらは戦争の明白な原因です。ひとつの国が他の国に勝りたいと思い、一つの団体が他の団体に劣ると感じるとき。偏見があるとき-白と黒と褐色と紫、あるいは何であっても。どうやってこういったものが生じると思いますか? 明らかに、私たちの現状を、私達は守ります。世界は私達自身の、私達の自己投影の結果です。それゆえ、あなたは『寛容』であるかもしれないけれども、あなたが国家主義的である限り、あなたの信念の中で排外的である限り、戦争はあるでしょう。寛容は利口な人々によって案出された、心に属するものです。愛するとき、「寛容」にしません。あなたと私がもはやカースト、階級に束縛されていないときのみ、私達が何かの形の宗教、組織された信仰に、それが小さくても大きくても、束縛されていないときのみ、私達がもはや権力に、地位に、権威に、安心感に貪欲でないときのみ-そのときのみ平和があるでしょう。平和は立法の結果ではありません。平和は国連によってもたらされるのではありません。どうして外部の法律があなたを平和にできるでしょうか? どうして外部の強制があなたを愛させることができるでしょうか? そしてあなたを平和にすることを、あなたを親切に、貪欲でないようにすることを外部の権威に頼るなら、そのときあなたは決して生じることのない何かを当てにしているのです。それゆえ、戦争は-物理的レベルの上であろうが、意識のさまざまなレベルの上においてであろうが、それはまったく同じことです-、葛藤は、あなたと私が国家主義を通して、信仰を通して、錯覚を通して、私達自身の特定の安全を目指して努力している限り、不可避です。私達は単に葛藤を私達自身の中に、それゆえ外部に永続させているに過ぎないのです。

私たちはみんなこれらの事を知っていますね。町角のあらゆる牧師がそれらについて話します。しかし私たちは平和的ではありません。私たちは貪欲であることをやめていません。金銭に貪欲でないかもしれませんが、より多くのものごと、より多くの力、一層の自己拡大に貪欲です。今、あるいはある将来の日に何かであることを望んで。この階層制的・社会的発達、あるいは内的な発達の感覚全体-このすべては明らかに、結局は葛藤に、戦争に、破壊と悲惨に帰着する過程を示しています。私たちは皆これらの事を知っていますが、依然として、なぜそれらが存在し続けるかを尋ねません。確かに、私たちがなぜ感じることを生きないのかを見出すことがずっと重要です。たぶん私達はそれらを感じないのです。たぶん私達は「戦争があるに違いない」と言って、単に言葉のレベルで生きているだけなのです。私たちはみな友愛を信じ、友愛を信じるさまざまな組織に参加するでしょう。しかし内的に私たちは、事務所に腰掛けて戦争を計画する人と同様に堕落しているのです-なぜなら私達は家庭の中で、団体の中で、社会の中で、国の中で、何者かでありたいからです。私達は力を欲します。私達は何でもないものとしてあることに満足しません。なぜなら私達は外側の刺激、外側の見せ物を求める欲望によってひどく動かされてしまうからです。なぜなら内的に私達は空虚であるからです-そしてそのことを私たちはひどく恐れているのです。したがって、私達は観念にしろ物にしろ所有物を山積みにします。そして私達が何でもないものとしてあることに満足しているときのみ-それは根本的に、充足の、怠惰、無気力、愚かさの満足ではありません-、私達があるがままのもので満足しているときのみ、それはあらゆる逃避の途方もない理解を必要としますが、そのときのみ平和があるでしょう。

質問: 偏見とは何でしょうか? どうやってそれを本当に克服できるでしょうか? あらゆる偏見から自由な心の状態はどんなでしょうか?

クリシュナムルティ: 偏見を克服できるでしょうか? 何かを克服することはそれを何度も繰り返して再度征服することです。偏見を本当に克服できるでしょうか? あるいはこの克服は、単にひとつの偏見の、別のものでの置き替えに過ぎないのでしょうか? 確かに、私達の問題はどうやって偏見を克服するかではありません-なぜなら、そのとき、私達は単に置き替えを求めているに過ぎないからです。それは偏見の全過程を理解することです。偏見の包含するものは何であるか、単に言葉の上、心の言葉のレベルでなくて根本的に、深く。そのとき偏見から自由である可能性があります。しかしひとつの偏見を、あるいは種々の偏見を克服しようと努力しているなら、そのときあなたは単にあなたが偏見と呼ぶ苦痛、あなたが偏見と呼ぶ妨害物を克服しようとしているに過ぎません。

さて、偏見とはどういうことでしょうか? どういう時に偏見からの自由があるのでしょうか? どうやって偏見は生じるのでしょうか? 一つの道は、明らかに、いわゆる教育を通してです。歴史の本は偏見に満ちています。あらゆる宗教文学はそれに満ちています-教え込まれた信念。そしてその信念は、それは子供の頃からつくり出され、組み立てられるのですが、それが偏見になります。あなたはこれであり、私はあれです。あなたはプロテスタントで、私はヒンドゥー教徒です。したがって、私の信仰とあなたの信仰は衝突します。あなたは私を改宗させよう、私を転向させようとします。そして私は同じ事をしようとしています。あるいは私達は「寛容」です。あなたはあなたの信仰を保ち、私は私のを保ちます。そして仲良くあろうとします。すなわち、私は私の偏見の要塞に住み、あなたはあなたの偏見の要塞に住みます。そして私たちはそれを大目に見、友達であろうとします。それは「寛容」と呼ばれますが、本当は不寛容です。それは友達であろうとすることの本当にもっともばかげた形です。どうして友達になれるでしょうか、どうして本当の愛情が持てるでしょうか? 私は私の偏見の中に生きており、あなたはあなたの偏見の中に生きているなら。

それで、私達は偏見の種々の原因を知っています-故意に養成された無知は、教育を通じて、環境の影響を通じて、宗教などなどを通じて偏見をつくり出します。そして排他的でありたい、私達の信仰の中に保護されていたいという私達自身の欲望があります。確かに、どうやって偏見が生じるかは非常に明白です。そしてまた、種族や国家の見地で考えるのを私達は好みます。なぜならそれは、人々を個人的な人間として取り扱うよりも努力を要しないからです。あなたが偏見に満ちているとき、人々を取り扱うのはより容易です。その人たちをドイツ人、インド人、ロシヤ人、黒人、あるいは何にせよそう呼ぶ時、あなたは問題を解決したと思うのです。しかし一人一人の個人的な人を見ることは、多大の思考、骨折りが必要です。そして私たちはそうしたくないので、「さて、彼等をある名前で呼ぼう」と言い、それによって彼等を理解したと私達は思うのです。

それで、なぜ偏見が生じるか、どうやってそれらが私達自身の自己防衛のために作られるかを私たちは知ります。それは孤立の過程です。憎むこと、偏見を抱くこと、限定されていることはずっと容易です。そしてそれが私たちの大部分の現状です。あなたはこれやあの協会に属します。それは偏見の一形態です。あなたの経験が私のに優る、あるいは私のものと同じ様に良いとあなたは信じます。それゆえ、あなたの経験の中に引き止められます。こういったことすべては偏見の形、排除の形、あなたが非常に注意深く養成してきた自己防衛の形ではないでしょうか? どうやってそれらを克服できますか? そうするとき、あなたはそれらの置き換えを見出すでしょう。というのはあなたが偏見を持たないなら、あなたは極度に傷つき易く、敏感であり、ずっと多く悩むからです。それゆえ、私達自身を守るために私たちは壁を急いで建てます。自己投影されたものか、あるいは私達のために他の人によってつくり出されたもの、それを私たちは受け入れるのですが、そのどちらか。そして偏見を克服しようとすることは、もっと快適で、もっと教育的で、もっと洗練されている他の防護物を見つけることです。しかしそれらはなお偏見です。

それゆえ、偏見から自由であることは不確実の状態の中に生きることです。不安定の状態の中に生きることです。さて、不安定とはどういうことか理解しなければなりません。明らかに、道理に合った物理的な安全がなければなりません。さもなければ生きることがそもそも不可能です。しかしその物理的な安全は、あなたが心理的安全を求めているとき否定されるのです。そしてそれが私たちがしていることです。私たちが心理的に安全であろうと、国家主義を通じ、信念を通じ、社会の特定の形、左翼あるいは右翼を通じて望むとき-外部の不安定をつくり出すのは、この心理的欲望、確かであろう、安全であろう、頼っていようというこの内的欲望です。そしてそれは心が自己防衛的反応、内的な自己防衛的反応から自由であるときのみです-そのときのみ、偏見から自由である可能性があるのです。

「偏見から自由である心の状態はどんなでしょうか?」が次の質問です。なぜあなたは知りたいのでしょうか? あなたはそれを経験するために、その結果それを標準に、達成すべき何かにするために知りたいのだと思います。あるいはあなたは自由であるとはどういうことか、心が自己防衛的な反応から自由であるとはどういうことか理解したいのです。それを見出すためには、あなたはそれを直接経験しなければならないのではないでしょうか?-単に私の言葉や他人の言葉を聞くのではなく。すなわち、あなたはあなた自身の思考と感情の過程に気づいていなければならないのではないでしょうか?、あなたが、たまたまそれを好むときだけでなくて何時も。それは次のことを意味します。すなわち、偏見から自由であるためには-偏見は養成されたにせよ、本能的にもたらされたにせよ、自己防衛的反応です-、確かに、あなた自身の全体の過程についての気づきがなければならないということです。だが偏見から自由である心の状態はどうであるかについて思索することは、確かに無駄ではないでしょうか? それゆえ、私たちがすることができるすべては、心が自由であるときの心の状態はどうであるか思い巡らすことではなく、私達自身を理解することです。そして私達自身を理解するためには、その中に強制のない、正当化や非難のない気づきがなければなりません-人はどんな形の恐怖もなしに、気楽に気づいていなければなりません。その気づきの中に思考と感情の運動の展開があります。そしてそのとき、心が静かなとき-静かにさせられるのではなく-、始めも終りもないものを発見する可能性があるのです。

1949年10月2日

(訳者: N.Goto)2000.4.掲載

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