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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第1回)

J. Krishnamurti Madras 1st Public Talk 5th January 1952

一二のお知らせをしなければなりません。この毎土曜、日曜の集会は二月十日まで続きます。そして討論が毎水曜日の午後5時30分、いつものとおりに同じ時刻にあります。

私たちの大部分は、私たち一人一人を取り巻く、途方もなく複雑で巨大な問題に気づいていると思います。専門家の間に-政治的、社会的、宗教的な-非常に多くの矛盾があります。ある方式だけが正当であるに違いないとしきりに主張する人たちがいます。宗教的に、信仰の不両立があります。それらの問題のどれにしろ解決したいなら、すべて新たに考え、どの一つの源にも、どの権威にも頼ってはならないと思われます。そしてそのことは私たちの大部分にとってもっとも並外れて難しいように思われます。
私たちは情報源としてか模倣の目的のために過去に頼るか、あるいは、ある将来の約束-経済的、政治的、宗教的-を当てにするかどちらかです。宗教的服従が根本であると主張することによって、慰めの手段として過去に引き返すか、あるいは革命の経済的権威と理想的状態の将来の約束に頼るかどちらかです。問題を私達自身で非常に注意深く聡明に考え抜くまで、これらの混乱し、矛盾した問題のどれにせよ解決する何かのやり方があるとは思いません。

この討論の間にしようと私が提案することは、この途方もなく複雑な生の問題を、あなた方一人一人と共に考え抜くということです。この問題が狭い地域に限られていないことはご存じですね。世界中でそれは同じです。私たちは混乱しています。どうすればいいかわかりません。そしてどうやってそれに取り掛かるか、なぜ各グループが他のグループと戦っているのかをどうやって発見するか、私たちは知りません。平和や他の理想の名においての野心、腐敗が、地方的にではなくまったく広範囲に、世界中にはびこっています。
さてこの問題を本当に解決したいなら、私たち自身でそれを考え抜かなければなりません。正しい答えを見つけなければなりません。私は答えがあると信じます。答えがあると完全に確信します。しかし答えの単なる発見は解決ではありません。そこであなたと私がしなければならないことは見出すことです。それは、正しい答えを見出すために、あなたと私がお互いの言うことをよく聞かなければならないということを意味します。聞くことは並外れて困難な術です。それは私たちのたいていが、聞くことが出来ないからです。
なぜなら私たちは非常に多くの知識、非常に多くの情報を持っているからです。私たちは非常に多く読んでいます。私たちの先入観は非常に強いのです。私たちの経験は私たちを囲む壁のようです。そしてこれらの壁越しに見ながら、これらの先入観を通して、私たちは聞こうとするのです。
私たちの心が、少なくとも一時的に、先入観から自由でないなら、そして私達がすべて翻訳し、解釈した何かの知識を、いつもでなくても参照しているなら、私たちは何かをよく聞くことができるでしょうか? それは最大の困難の一つです。そうではないでしょうか?

私たちは聞くことが出来ないように見えるけれども、それは私たちがしなければならない、あなたと私がしなければならない、もっとも必要で不可欠なことの一つであると私には思われます。あなたは私が言っていることを翻訳したり、私が言っていることを解釈したり、あなたの背景にしたがってそれを理解したりしてはなりません。なぜならそうするとき、あなたは考えることをすべて止めているからです。止めていませんか? あなたが「それは私の理解と一致する」と言うなら、あなたは考えることをやめたのです。あなたは聞くことをやめたのです。あなたはそれらの言葉のより大きな展望、より大きな深みを見るための扉を開かないのです。解釈なしに聞くことは心の並外れた油断のなさを要します。これらの討論の間と家庭において、解釈なしにお互いの言うことを聞くことを、あなたの先入観にしたがって翻訳することなしにただ聞くことを、どうかやってみてください。
何と言っても、翻訳は、思考を限定する既存の知識をあなたが持ち、それがもっと先に、もっと深く浸透するのを妨げるということを意味します。そこであなたと私が正しい種類の関係を確立するということが不可欠です。私はどんな種類の権威も信じません。そしてあなたが私の言っていることを権威主義的と見做すなら、そのときあなたは聞くことをやめているのです。あなたは調査し、何が答え、正しい答えなのか、見出そうとしなければなりません。
何がこの戦争と平和の恐ろしい混乱状態からの、金持ちと貧乏人の間の、暴力と平和のあらゆる形の名の中に権威を求めている人たちの間のこの矛盾のからの出口なのか。私たちが正しい答えを捜し理解しないのなら、私たちは坐ってお互いの言うことを聞いて時間を浪費する権利はない、あるいは無責任だと思います。
もしも私たちが、二、三人であっても、見出すためにあらゆる事を脇に置き、腰を下ろして、このことを徹底的に調べることができるなら、そのとき、小さな規模で取り掛かり始め、そしてそれが轟く嵐になる可能性があるということを私は熱烈に感じるのです。しかしそれは真面目さを要します。それは思考の真の交換を要し、単なる先入観の主張や特定の経験に忠実なことではありません。

それゆえ、どうすれば正しい答えを見出すことができるでしょうか? 私はそれが私たちの大部分が見出そうとしていることだと確信します。私たちはそうではないでしょうか? 思慮深い人は誰でも正しい解決を、このぞっとするような苦しみ、悲惨、この金持ちと貧乏人の間の、平和の名の下に権威を求めている人たちの間の、権力者と虐げられたものの間の、何も持っていない人たちと何もかも持っている人たちの間の、権力を求めている人たちの間の、この矛盾、そのすべてに対する永続的で恒久的な解決を求めているに違いありません。
確かにこのすべてに対する答えがあるに違いないのではないでしょうか? どうやって私たちはそれを見出すつもりでしょうか? 確かに、理解するための、あるいは答えを捜し出すための第一の必要条件は、すべての探索は欲望によって条件づけられているということを理解することであるに違いありません。しばらくの間それを考えましょう。私がこの問題に対する経済的その他の答えを、捜す道具を理解することなしに、その道具そのものが限られ、限定され、欲望によって条件づけられていることを理解することなしに捜すなら、それは考慮に値しない捜索です。私が正しい答え、何かの問題に対する正しい答えを求めているなら、探索は私の欲望によって条件づけられていないのではありませんか? それで答えを捜す前に、私は欲望を理解しなければなりません。そうではありませんか?
私が神があるかどうか、絶対の幸福のようなものがあるかどうか知りたいなら、確かに、それを求める前に、それを求める心を理解しなければなりません。さもなければ、心は私の調査の対象を条件付けるでしょう。それはかなり明白です。そうでないでしょうか? 何かを捜す者は、捜しているものを見つけるでしょう。しかし見つけるものは彼らの欲望によって決まるでしょう。あなたが安楽と安全を捜すなら、それらを見つけるでしょう。しかしそれは実在ではないでしょう。それどころか、それはますます多くの混乱、矛盾、悲惨を造り出すでしょう。それゆえ、捜し始める前に、私たちは欲望の全過程を理解しなければなりません。
欲望を理解する探索そのものの中で、あなたは答えを見つけるでしょう。しかし欲望、認識の中心を理解することなしに答えを捜すことは無駄なことです。ほんとうに真面目な人たち、平和な世界を見たい、お互いに平和な関係を持ちたい、 友情があり 思いやりがありたいと本当に望む人たちは、確かにこの問題を最初に解決しなければなりません。

世界で起こっていることを実際によく考えるなら、どんなふうに人間が自身を分離し、戦争、混乱、まったくの悲惨をもたらすかが見えるでしょう。この混乱のすべてに、この増大し広がる悲惨のすべてに、答えがあるに違いありません。それは私たちが欲望の過程を理解する場合のみ可能です。私たちの欲望を理解することなしに私たちが何かを求めるときはいつも、行為の手段としての観念を求めているのです。私たちの探索は観念-公式としての、概念としての、あるいは経験としての観念に終わります。私たちは結論、観念、概念を求めているのです。しかし観念、概念、公式は決して行為を生むことができません。私はそのことが明確なのか、むしろ抽象的で混乱しているのかわかりません。
私たちには、観念は、経験の形の、あるいは結論の形の観念は非常に重要です。それゆえ、私たちが求めているとき、私たちは後に行為に翻訳する観念を求めているのです。最初に、私は何をすべきかという観念を持ち、それから行動します。社会がどうあるべきかという型を持ち、それから私たちはその型に従います。それゆえ、行為と観念の間に矛盾、争い、苦闘が常にあります。

この観念を求める探索は本当に答えなのでしょうか、あるいは探索は観念から独立していて、ただ行為だけなのでしょうか? これはあなたが実際にそれを考えるなら、そんなに複雑ではありません。もっと先に進む前に、これを理解することが実際に非常に重要です。なぜなら私たちの探索は知的であり、観念と行為の間の矛盾、ギャップ、隔たりがあるからです。
そして私たちの絶え間ない努力は二つを橋で結ぶことであり、それは確かに時間の浪費、愚かなことです、それを呼びたいように呼んでください。なぜなら私たちは探索が欲望に従属しており、そしてその欲望が本質的に観念を引き起こすということを理解していないからです。
確かにそれゆえ、私たちの中のほんとうに真面目で、感情的なナンセンスや、自身の偏見・自身の虚栄によって動かされない者は、この問題に対し、平和で永続する答えを実際に見出したいなら、私たち自身を探索し、欲望を理解しなければなりません。それは行為を意味します。欲望の理解そのものが行為であり、観念ではありません。

あなたが観念を持った瞬間、何が起こりますか? あなた自身の心を見つめ、あなたが観念を持つとき何が起こるか見てください、発見してください。あなたはその観念を行為の中に移そうと望みます。そうしないでしょうか? あなたはそれを絵にしようとか、それで何かをしよう、誰かに伝え、わかり易い言葉で説明し、伝達しようと望みます。
観念は決して行為ではありません。行為でしょうか? 平和が観念に基いているなら、そのときあなたはどうやってそれを実行するか、どうやって履行するか、どうやってそれをもたらすかという矛盾を持つに決まっています。しかし欲望の全過程を理解し始めるなら、そのとき行為は思考から、観念から独立しているということがわかるでしょう。
私たちがする誤りは最初に観念を持ち、それから行動するということです。しかし欲望を、それは非常に複雑で入り組んだ問題ですが、理解し始めるなら、そのとき行為はそれぞれの欲望の理解に次いで起こることが見えるでしょう。

欲望を理解するという言葉で私は何を意味しているのでしょうか? 欲望は静的なものではないのではないでしょうか? もしもあなたが欲望を理解しようとするなら、欲望に特定の規則や調整を課すことはできません。あなたは理解しようとしてますか? あなたはそれを追跡しなければなりません、観察しなければなりません、その入り組んだ意識的無意識的な出来心と空想のあらゆる動きを追跡しなければなりません。していません? 「それは正しい欲望だ、それは間違った欲望だ、これはいい。これを私はしたい。」などと言うことはできません。
そう言うとき、あなたは理解すること、そしてその欲望を続いて追うことをやめているのです。このことは容易ではありません。なぜなら私たちは子供のときから抑圧するよう、制御するよう、支配し、「これは正しい。あれは間違っている」と言うように訓練されてきたからです。それゆえ、私たちは調査、探索、すべての理解をやめるのです。直ちに「これは正しい欲望とか間違った欲望だ」と言い始めないでください。見出しましょう。それはあたかも地図の上の道をたどるようなものです。
つまり、あなたが真面目なら。しかしそれについてあなたが不真面目であり、平和の名の下にそれをもてあそびたいなら、明らかにそれは意味を持ちません。そのような人々は何の経験も持ちません。
もしもあなたが本当にそれを追跡し抜くなら、そのときあなたがいつも認識の過程である中心を持つことがわかるでしょう。認識がないなら経験はありません。私が認識しないなら、経験を持ちません。持つでしょうか? 認識の過程が起こるときに「私は経験している」と言うだけです。私たちの困難はこの認識の過程なしに欲望を理解することです。

認識によって私が何を言っているかわかりますか? 認識によって、私はあなたが誰かに会う、あるいは見るときに起こることを言っています。あなたはそのとき主観的な反応、感情を持ち、認識します。それに名前を与えるのです。そしてその認識はそれぞれの経験を強化するだけです。そしてどの経験も限定し、条件付けをし、自己を狭めます。それゆえ、もしもあなたが実在とは何か、神とは何かを理解したいなら、その認識の中心は完全に終わらなければなりません。さもなければ、あなたは何を持ちますか? あなたの心の投影と記憶、過去からあなたが学んだもの、それであなたは起こっていることを認識するのです。
そして起こっていることは投影されたあなた自身の経験です。私が真実が何か知りたいなら、私の心は決して認識が起こり得ない状態でなければなりません。それは可能でしょうか? これらのことのどれも、あなたが確信するのでないなら、どうか受容しないでください。そのすべてにバランスの取れた正気の懐疑的態度を持ってください。あなたは私の生徒でも追従者でもありません。あなたはこのぞっとするような悲惨のすべてに対する正しい答えを見出そうとしている威厳のある人間です。正しい答えを見出すためには極度に鋭敏で、疑い、尋ねていて、懐疑的な態度とバランスしていなければなりません。
それは可能ですか? あなたは認識されていない経験を持っていますか? それがどういうことかわかりますか? なぜならそれが結局、神であるから、それが真実であるから、それが永遠、あるいはあなたの呼びたいものであるからです。あなたが測るための物差しを持つやいなや、それは真実ではありません。
私たちの神々は測ることができます。私たちは彼らを前もって知っています。私たちの経典、友人、宗教の教師は私たちをそのように条件付けてきたので、私たちはあらゆるものが何であるか知っています。私たちがしていることのすべては単にこの認識の過程にすぎません。

認識の中心を解消することができるでしょうか? 何といっても、人の認識に強さを与えるのは欲望です。「私は知っている。私は経験をした。それはそうなのだ」と言うことは自我の強化を示します。上級自我、下級自我はありません。自我は自我です。さて神があるかどうか、真実があるかどうか、その中では認識ができない、その中ではすべての測定が止んでしまっているそんな状態があるかどうか見出すためには、確かに、私たちは欲望を理解することを始めなければなりません。
いわゆる信心深い人たちが「神はある」と言い、他の人たちが「神はない」と言うことは非常にばかげたことです。それは問題を解決していません。聖書、 バガバッド ギータや、他の何か訳のわからないものを繰り返し話すことも。確かにそれは問題を解決していません。それは誰も彼もが数世紀を通してやってきたことです。だが、私たちはそれを解決していません。私たちは問題をますます増やしています。ますます大きな悲惨を私たちにもたらしています。それゆえ、その混乱、その途方もない苦悩、困難、苦難、悲惨を伴なうこの生存の問題を理解するためには、確かに、私たちは欲望を理解しなければなりません。それを追わなければなりません。
あなたがそれを追うことができるのは、心がそれ自身に気づいているとき、あなたが欲望をあなたの外部のものとして見ているのではないとき、あなたがそれを追っているときのみです。ここを見てください、皆さん。私は欲望を持っています。私はどうしますか? 私の反射的な反応はそれを非難すること、それがいかにばかげているか、いかに愚かであるかと言うことです。あるいはそれがいかによいか、いかに高尚であるかと言うことです。そのとき何が起こりますか? 私は実際に欲望を追ってはいないのです。私は調べていません、それを理解していません。私はそれを終わりにしました。どうかそれを考え抜いてください。
するとその途方もない重要さが見えるでしょう。そのとき、私は保証しますが、あなたは革命を、最も大きな種類の革命を持つでしょう。なぜなら内部の革命が唯一の革命であるからです、経済的な革命ではなく。なぜなら内部の革命は常に外部の革命を征服するからです。
しかし、外部の革命は決して内部のものを征服できません。重要なものは内部の心理的な革命、新生です。そしてそれは私たちが全過程、心理的欲望の複雑な過程、動機、衝動を、意識的なものも無意識的なものも、追い、理解するときのみ起こることができます。それは容易ではありません。
「私はいまやそれを得た。あらゆる事が申し分ない。私は変化した」と言うことは何にもなりません。なぜならそのように言うことは、行為の渦巻きの中に戻るあなた自身を見つけることだけであるからです。私たちがどうやって欲望を追跡するか、どうやってそれと知り合いであるか、どうやってそれを翻訳しないかを理解できるなら、そのとき私たちはこれらの問題をすべて解決するでしょう。

非常に多くの問題-経済の、家族の、宗教の、私たちが皆その中にいる大混乱-を持ってしまった あなたと私のような普通の人間が、欲望を最後まで追跡し、それと共に行き、それを理解することが、どうやってできるでしょうか? それが問題ではないですか? どうやって聡明でない、非常に多くの公式化、先入観、記憶を持った私は、どうやって私は欲望を追えばいいでしょうか?
もしもあなたが仲間を持ち、その仲間がその都度あなたをやめさせて、「ほら、何をしていますか? あなたは欲望を解釈しています。翻訳しています。非難しています。実際に欲望を追っていません。実際にはそれに帽子をかぶせています」と言うなら、それは容易でしょう。もしも誰かがあらゆる瞬間にあなたに強要して、あなたがしていることを観察させるなら、そのとき多分それは助けになるでしょう。しかしあなたはそのような仲間を持っていません。また、そんな仲間を望みません。なぜならそれはあまりに困難であり、あまりにいらいらさせ、あまりに妨害するからです。
しかし、あなたが真面目で、「私はそれを理解したい」と言うなら、あなたはあなた自身の心の中に、そのような仲間を持つでしょう。「私がそれを欲しいと言うとき、それは欲望でないのだろうか?」と尋ねることによって何かの知的な困難を作り出さないでください。それはただの言葉のあら捜しです。それは小利口な論法ですが妥当性がありません。そのとき、あなたと私はそれを理解しないでしょう、なぜなら、私たちは伝達するために言葉を使わなければなりません。
しかし、あなたがある点で単に立ち止まり、超えて行き、言葉をその言外の意味において理解するのを拒むだけなら、そのとき、あらゆる行為は止まるからです。何かの欲望を取りましょう、私たちの大抵が持っている 強力でありたい欲望。私たちの大抵が持っている 支配しようという欲望。事務員や、社長や、金持ちや貧乏の誰もが強力でありたいという欲望を持っています。それを非難しないでください。「それは正しい。それは間違っている」と言わないでください。だがそれを調べてください。そのとき、それがどこにあなたを導くかわかるでしょう。あなたは何の本を読む必要もありません。種々の手段により権力を求める欲望の意識下の蓄積のすべては意識に対し開かれるでしょう。そこにあなたは知識の本を持っているのです。そしてそれをどうやって読むか知らないなら、あなたは決して何事も理解しないでしょう。
あなたは意味のないがらくたのすべてを追っています。なぜなら、あなたのハートの中に、あなたの心の中に、真実が横たわっているからです。そしてそれを外部に捜すことは、そうすることはあなたに喜びを与えるかもしれないけれど、無益なのです。それで私たちは、個人的のみならず集団的にも、バラモン対非バラモンなど、非常に複雑で矛盾した生を送るのです。それらは範囲の狭い問題だけでなくて、広大な問題、世界の問題です。そして単に狭い領域に限定することによってそれらを解決することはできません。私たちはこの事をちっぽけな問題を調査しているちょっとばかりの人間としてではなく、途方もなく大きな全体として考えなければなりません。

それゆえ、それが次の6週間の間に私たちが討論し、話すつもりでいることです。すなわち、どうやって欲望を理解するか、そして、できるなら、認識を、すべての創造的な行為を損なう、認識するその中心をどうやって超えるか。あなたが実際に熱心でないなら、どうか来ないでください。実際に熱心な二、三の人を持つ方が遥かによいのです。それはあなたの側の時間のまったくの浪費です。なぜなら私はそんなに多くの年月の間話してきて、そしてどんな結果と共に?と感じるからです。
どうか、私に何も同情しないでください。把握され、理解されることができるその中心の中に何かあると私は感じます。なぜなら、ご承知のように、それは肉体的、あるいは表面的存在よりもっと大きな何かであるからです。私は実際に真剣でそれを調べることができる二、三の人に、これを伝えたいのです。しかしそれら二、三の人を見出すことは非常に難しいのです。なぜなら、私たちは自己過大視、野心、自分自身を越えて見ることの拒否を持ったあらゆる種類の人々を得たからです。
それゆえ、あなたが真剣でないなら、真面目でないなら、来ないようにもっとも真面目に頼みます。なぜなら、あなたが真面目なら、私たちは非常に遠くまで行き理解することができるからです。いつかはでなく即座に。そしてそれが実際の変容、物事を非常に明確に見ること、そしてそれに従って行動することがあるところです。そしてそれはけた外れの忍耐、観察、内的な誠実を要します。

質問: あなたはこの16ヶ月の間引きこもっていました。そしてそれはあなたの人生で始めてです。これに何か意義があるかどうか話していただけるでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたもまた時には遠くに出かけ、静かにしてものごとの棚卸しをし、単に反復的な機械、話し手、説明者、解釈者にならないようにしたいと思わないでしょうか? ときにはそれをしたいと思わないでしょうか? 静かにしたいと思わないでしょうか? あなた自身をもっと知りたいと思わないでしょうか? あなた方の何人かはそれをしたいのですが経済的にできません。何人かはしたいのかもしれませんが、家庭の責任などなどが前に群がっています。それでも、静かにするために引きこもり、あなたがしたあらゆる事を棚卸しすることはよいことです。それをするとき、あなたは認識されていない、翻訳されていない経験を取得します。したがって私が引きこもることはあなたには意義がありません。お気の毒です。
しかしあなたが引きこもることは、それに正しく従うなら、あなたにとって意義を持つでしょう。そしてそして私は時には引きこもりに行くことは絶対必要であると思います。あなたがしてきたあらゆることをやめること、あなたの信念と経験を完全にやめ、それらを新たに見ること、信じていようが信じていまいが機械のように反復し続けるのではなく。あなたはそのとき新鮮な空気を心の中に入れるでしょう。入れないですか? それはあなたが不安定でなければならないのではないか?ということを意味します。あなたがそうすることができるなら、あなたは自然の神秘と私たちのまわりでささやいているものごとに対して開かれるでしょう。さもなければ、それにあなたは到達しないでしょう。あなたは生じるのを待っている神に、招かれることはできないがそれ自身で生じる真実に到達するでしょう。
しかし私たちは愛に、そして私たちの内部に起こっている、他のより細かい過程に対して開かれていません。なぜなら私たちは皆あまりに私たち自身の野心、私たち自身の達成、私たち自身の欲望によって閉じられているからです。確かにそのすべてから引きこもることはいいことではないでしょうか? 何かの会の会員であることをやめてください。一人のバラモン、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、イスラム教徒であることをやめてください。あなたの礼拝、儀式をやめ、それらすべてから完全に引きこもって、何が起こるか見てください。引きこもる中で、他の何かの中に飛び込まないでください。本を取り上げ、新しい知識や新しい習得に熱中しないでください。過去と完全に断絶し、何が起こるか見てください。
皆さん、それをしてください。すると歓喜を見るでしょう。愛、理解、自由の広大な広がりを見るでしょう。あなたのハートが開いているとき、そのとき実在が生じることができます。そのときあなた自身の先入観、あなた自身の雑音、のささやきは聞こえません。それが引きこもること、離れて定例の仕事を止めることがよい理由です-外部的生活の定例の仕事のみならず、心がそれ自身の安全と便宜のために確立した定例の仕事も。

それをやってみてください、皆さん。機会のある方々。そのとき、たぶん、認識を超えたもの、測られない真実が何であるかわかるでしょう。そのとき、神は経験され、認識されるものでないということを見出すでしょう。だが、神はあなたの招待なしにあなたに生じるものであるということを。しかし、それはあなたの心とあなたのハートが求めず、探さず、絶対的に静寂であるとき、そして獲ようという野心を持っていないときのみです。神は、心がもはや前進を求めていないときのみ見出されることができます。私達がそのすべてから引きこもるなら、そのとき、たぶん、欲望のささやきは聞こえるのをやめるでしょう。そして待機しているものが直接、確かに生じるでしょう。

1952年1月5日

(訳者: N.Goto)2000.9.掲載

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