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1969年公開対話
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1969年公開対話 「根本的な変化について」

Saanen 4th Public Dialogue 6th August 1969
J. Krishnamurti Flight of the Eagle (邦題 自由への道-空かける鳳のように-)
Chapter 10, 'On Radical Change'
「根本的な変化について」

クリシュナムルティ: 人間は非常に深くは変化していません。私たちは古い振舞のパターンに別の振舞のパターンを押しつけるのではなく、人間の中の根本的な革命について話しています。私たちは私たち自身のなかで内的に実際に進行していることの中の基本的な変化に関わっているのです。すでに述べたように、世界と私たち自身は二つの異なった存在ではありません。世界は私たちであり、私たちは世界です。私たちの存在の根底に大きな変化をもたらすこと、革命、変異、変容―どんな言葉を用いようが問題ではありません―それがこれらの対話の間私たちが関わることです。
 昨日私たちは尋ねていました。自分自身を何の歪みもなしにはっきり見ることができるでしょうか?―評価しよう、判断しよう、達成しよう、「あるがままのもの」を免れようという欲望である歪み。そういったものは全て明確な知覚を妨げ、「あるがままのもの」を正確に親密に見るのを妨げます。それで今朝は観察の性質、注視する、聞く、見るやり方を一緒に議論し、話し合ってしばらく過ごすのがよいと思います。私たちの存在の、視覚的、知性的、情緒的な一部だけではなしに見ることがいったい可能かどうか見いだしましょう。何の歪みもなしに非常に綿密に観察することがいったいできるでしょうか? それを調べるのは価値があるかもしれません。見るということはどういうことでしょうか? 私たちは私たち自身を、私たち自身の基本的な事実を見ることができるでしょうか―私たち自身は貪欲、羨望、心配、恐怖、偽善、欺瞞、野心です―私たちは、何の歪みもなしに、それをただ見守ることができるでしょうか?

 今朝は、見るとはどういうことか学ぼうとしてしばらくを過ごしていいでしょうか。学ぶということは絶え間のない動き、絶え間のない更新です。それは「学んでしまって」そしてそこから見ることではありません。言われていることを聞くことによって、そして自分自身を少々は見守ることによって私たちは何かを学びます。何かを経験します。そしてその学習と経験から私たちは見ます。私たちは学んだことの記憶と共に、そして経験したことと共に見ます。心の中の記憶と共に私たちは見るのです。したがって、それは見ることではないのです。学ぶことではないのです。学ぶことはその都度新たに学ぶ心を意味します。ですから学ぶことは常に新鮮です。そのことを心にとめて、記憶の養成というよりむしろ実際に起きていることを観察し見ることに私たちは関わります。私たちは非常に油断なく、非常に注意深くし、それゆえ見たことと学んだことがそれに基づいて見る記憶にならないようにしましょう。その記憶はすでに歪みなのです。その都度あたかも最初であるかのように見ましょう! 「あるがままのもの」を記憶と共に見る、観察するということは、記憶があなたの観察を指図する、形作る、指導するということを意味し、それゆえそれは既に歪められています。そこから始めていいですか?

 観察するとはどういうことか見出そうと思います。科学者は顕微鏡を通じてものを見て綿密に観察するかもしれません。外部の対象があり、彼は先入観なしにそれを見ています。とはいっても見るために持っていなければならない若干の知識と共にですが。しかし、ここでは私たちは生の全体の構造を、全体の運動を、「私自身」である全存在を見ているのです。それは知的にではなく、情緒的にではなく、正しいとか間違っているとか、あるいは「こうであってはならない」とか「こうあるべきである」とかといったどんな結論もなしに見られなければなりません。それゆえ親密に見る前に、この評価、判断、結論の形成の過程に気づいていなければなりません。それは起こっています。それは観察を妨げるでしょう。

 私たちはいま、見ることではなくて、何で見ているかということに関わっています。見ている器械が汚れ、歪み、ねじ曲がり、重荷を負っていないでしょうか? 重要なことは見ることではなく、見ている器械であるあなた自身の観察です。私が結論、例えば国家主義、を持ち、その深い条件付け、国家主義と呼ばれる部族的排他性を伴って見るなら、明らかに私は多量の偏見とともに見ています。したがって、私ははっきり見ることができません。あるいは私が見るのを恐れているなら、そのとき明らかにそれは歪んだ観察です。あるいは私が悟りや、より高い地位や、何であろうが野心を抱いているなら、そのとき、それもまた知覚の明晰さを妨げます。そのすべてに気づいていなければなりません。見ている器械に、そしてそれがきれいであるかどうかに気づいていなければなりません。

質問者: 見て器械がきれいでないのを見出すなら、そのときどうしますか?

クリシュナムルティ: どうかこのことを注意深く追ってください。私たちは「あるがままのもの」、基本の利己的、自己中心的な活動、抵抗し、挫折し、怒っているもの―その全部を観察せよと言いました。次に私たちは観察している器械をじっと見るように、その器械がきれいかどうかを見いだすようにと言いました。私たちは事実から、見ようとしている器械に移ったのです。私たちは器械がきれいかどうか調べており、それがきれいでないことを見いだします。そのときどうすればいいでしょうか? 英知が鋭敏になっています。以前は私は事実、「あるがままのもの」を観察することにのみかかわっていました。私はじっと見ていました。そしてそれから移って「私は見ている器械を、それがきれいかどうか、見守らなければならない」と言いました。まさにその疑うことの中に英知があります―この全部についてきていますか? したがって英知が鋭敏になっています。心が、頭脳が、鋭敏になっています。

質問者: これは分離も条件付けもない意識のレベルがあるということではないでしょうか?

クリシュナムルティ: それが何を意味するか知りません。私はただ少しづつ動いているだけです。その動きは断片的な動きではありません。それはばらばらになっていません。以前、私が見たとき、私は英知を持っていませんでした。私は「それを変えねばならない」、「それを変えてはならない」、「こうあってはならない」、「これは良い、これは悪い」、「こうあるべきだ」―そのすべてを言いました。これらの結論とともに私は見、何も起こりませんでした。今私は、器械は見るために並外れてきれいでなければならないと実感します。それゆえ、それは断片的な状態ではなく、一つの絶え間ない英知の運動です。私はこのことと共に進みたいのです。

質問者: この英知それ自体がエネルギーなのでしょうか? それが何かに依存しているならば頓挫してしまうでしょう。

クリシュナムルティ: さしあたり心配しないでください。エネルギーの問題を放っておきましょう。

質問者: あなたはすでにそれを得ました。ところが私たちには精錬を重ねているように思われます。しかし推進力は元のままです。

クリシュナムルティ: はい。それが起きていることですか―精錬? それとも心、頭脳、全存在が、圧力や活動などの様々な手段を通じてとても鈍くなっているのでしょうか? そして私たちは全存在が完全に目覚めていなければならないと言っています。

質問者: それはお決まりのごまかしです。

クリシュナムルティ: 待ってください。それに触れようとしているのです、すぐにそれを見るでしょう。英知に進化はありません。英知は時間の産物ではありません。英知は「あるがままのもの」についての敏感な気づきのこの性質です。私の心は鈍く、私は「私自身をよく見なければならない」と言い、この鈍い心はそれ自身をよく見ようとしています。明らかに何も見えません。それは抵抗したり、拒否したり、順応したりします。それは見続けているとてもお上品な心、中産階級の小さな心です。

質問者: あなたは道徳の観念的なシステムについて話し始め、今はさらに進んで、自己観察を用いるべきであり、他のすべての方式は効果がないことを示唆しています。このこともまた観念ではないのでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ、あなた。私は反対に、私のを含めて、何かの観念をもって見るなら、そのときあなたは迷ってしまう、そのときあなたは全く見てはいないと言っているのです。あなたはとても沢山の観念、立派なもの、立派でないもの、そのほか何やかやを持っています。それらあなたの頭の中の、心の中の観念でもってあなたは見ているのです。それらの観念が頭と心とあなたの全存在を鈍くしてしまったのです。さて鈍い心が見ます。そして明らかに鈍い心は、それが何を見ようが、瞑想しようが、月へ行こうが、なお鈍い心です。それでその鈍い心は観察し、誰かがやってきて「ご覧、友よ、君は曇っている、君の見るものも同じように曇っているだろう、なぜなら君の心は曇っているので君の見るものもまた当然曇っているだろう。」と言います。それは大発見です。途方もなく新鮮な何かを見ている鈍い心は、それが見るものをもまた曇らせてしまっているということは。

質問者: しかしほかならぬそのことが拡大し続けています。

クリシュナムルティ: 待ってください、よろしければゆっくり行きましょう。ただ一歩一歩話し手と一緒に動きましょう。

質問者: 鈍い心が自分が鈍いということを認識するなら、それはそんなに鈍くはありません。

クリシュナムルティ: 私はそれを認識しません! もしも鈍い心が自分は鈍いと認識するならばそれは素晴らしいでしょうが、しかし、しないのです。それは、博学に、科学的に、何やかやになろうとすることによって自分をますます磨こうとしたり、あるいはそれが鈍いことに気づけば「この鈍い心は明確に見ることができない」と言ったりするのです。そこで次の質問はこうです。「どうやってこの鈍い、汚れた心が並み外れて聡明になり、その結果、通して見る器械が非常にきれいであることができるでしょうか?」

質問者: 心がそのように質問するとき、それは鈍さを終わりにしたとあなたはおっしゃるのでしょうか? 人は悪い原因のせいで正しいことをなしうるのでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ。あなたの結論を離れて話し手の言っていることを見出して下さるよう願います。

質問者: いいえ、あなた。私と一緒にとどまってください。

クリシュナムルティ: あなたが言っていることは、あなたが鈍い心をもっと鋭くきれいにしてくれる何かを掴えようとしているということです。私はしません。私はこう言っているのです、鈍さを見つめよ。

質問者: 継続的な運動なしに?

クリシュナムルティ: 鈍い心を継続的な歪みの運動なしに見つめること―どうやってそれは起こるのでしょうか? 私の鈍い心が見ます、したがって見えるものは何もありません。私は自分に「どうすれば心を利発にすることができるだろうか?」と尋ねます。この質問は私が鈍い心を他の利口な心と「私はその様にならなければならない」と言って比較したので生じたのでしょうか? わかりますか? その比較がまさに鈍い心の継続なのです。

質問者: 鈍い心は自分を利口なものと比較できるでしょうか?

クリシュナムルティ: 鈍い心は何時も自分をどれかの利口な心と比較しませんか? それが私たちが進化と呼んでいるものではないでしょうか?

質問者: 鈍い心は比較しません、「何故私はそうしなければならないんだ?」と尋ねます。あるいは少し違う言い方をすれば、自分がもう少し利口ならもっとうまくやれるだろうと信じているのです。

クリシュナムルティ: ええ、それは同じことです。そこで私はあることを発見しました。鈍い心は「比較によって私は鈍い。あの人は利口だから私は鈍いのだ。」と言います。鈍い心はそれ自体が鈍いことに気づきません。二つの異なる状態があります。あなたが素晴らしいので私は鈍いと気づくなら、それが一つです。私が鈍いと比較なしに気づくなら、それは全く違います。あなたはどうなのでしょう? 自分を比較していて、それゆえ「私は鈍い」と言っているのでしょうか? それとも自分が鈍いと比較なしに気づいているのでしょうか? そうなのですか? どうか少しばかりそれに留まっていてください。

質問者: あなた、このことは可能なのですか?

クリシュナムルティ: どうかこの問題に二分間ください。私は自分が空腹だとあなたが私にそう言うから気づくのでしょうか、それとも自分が空腹だと感じるのでしょうか? あなたが私に私が空腹だと言うのなら、私は少し空腹を感じるかも知れませんがそれは真の空腹ではありません。だが私が空腹であるなら私は空腹{です}。ですから私は私の鈍いことが比較の結果であるかどうかについて非常に明確でなければなりません。それなら私はそこから進むことができます。

質問者: ほうっておけることをそんなふうにあなたに痛切に感じさせ、鈍いかそうでないかにだけ関わらせているものは何なのですか?

クリシュナムルティ: なぜなら私は比較が心を鈍くするという真実を見るからです。学校で一人の少年が他の少年と比較されるとき、他と比較することでその少年を破壊しているのです。弟に兄さんのように利口でなければならないと言うなら、弟を破壊してはいないでしょうか? 弟に関心があるのではなく、年上の少年の利口さに関心があるのです。

質問者: 鈍い心は見て、それが鈍いかどうか見いだすことができるでしょうか?

クリシュナムルティ: 見いだそうとしているところです。どうか、再度始めましょう。今朝はこの一つの事に専念できないでしょうか?

質問者: その衝動がある限りは、私が自分自身愚かなのか、比較して愚かなのかはどんな有効性を持っているのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは見いだそうとしています。どうか、受け入れたり拒否したりではなく あなた自身を見守りながら、しばらく話し手についてきてください。私たちは今朝の対話の始めで革命は私たち存在のまさに根本で起こらなければならない、そしてそれは私たちが私たちのありのままをどんなふうに観察するか知るときのみ起こることができると言いました。観察は見る心の明るさ、明晰さ、開いていることに依存します。しかし私たちの大抵は鈍く、そして見るとき、私たちは何も見えないと言います。私たちは怒り、嫉妬等々を見ますが、何の結果にもなりません。そこで私たちは見ていることではなく、鈍い心に関わります。この鈍い心は「私は見るために利口でなければならない」と言います。そこでその心は利口が何であるかのパターンを持ち、そうなろうとします。誰かがその心に「比較は常に鈍さを生むでしょう」と告げます。そこでその鈍い心は「私はそれにものすごく気をつけなければならない、比較をしないようにしよう。私は比較を通して鈍さが何であるか知っただけだ。比較しないなら、どうやって私は私が鈍いのを知るのだろう?」と言います。そこで私は私自身に言います。「私はそれを鈍いと呼ぶまい」。私は「鈍い」という言葉をまったく使いません。私は「あるがままのもの」を観察するだけで、それを鈍いと呼びません。なぜなら私が鈍いと呼ぶやいなや、すでにそれに名前を付けて、それを鈍いとしてしまったからです。しかし私がそれを鈍いと呼ばないでただ観察するだけなら、私は比較を除いたのです。「鈍い」という言葉を除いたのであり、「あるがままのもの」だけがあります。これは難しくないですね? どうかそれをあなた自身で見つめてください。今起こったことを見てください! 私の心がいまどこにいるか見てください。

質問者: 私の心がのろ過ぎるのが見えます。

クリシュナムルティ: どうかちょっと聞いてください。非常にゆっくり、一歩一歩進みましょう。
 どうやって私は自分の心が鈍いことを実感・理解するのでしょうか? あなたが告げてくれたからでしょうか? 私が並外れて優れた、難解で、深遠な本を読んだからでしょうか? それとも私は優れた人たちを見てしまって、そして彼らと私自身を比較して私自身をを鈍いと呼ぶのでしょうか? 私は見いださなければなりません。そこで私は比較しようとしません、私自身を他の誰かと比較するのを拒否します。では私は自分が鈍いとわかるでしょうか? 言葉が私が観察するのを妨げているでしょうか? あるいは言葉が「現実にあるもの」の場所を取っているのでしょうか? これがおわかりですか? それで私は言葉を使わないでしょう。それを鈍いと呼ばないでしょう、それをのろいと呼ばないでしょう。どんなものとも呼ぼうとしないで、「あるがままのもの」を見いだします。それゆえ私は比較を除いてしまいました。それはもっとも微妙なものです。私の心は、比較せず、「あるがままのもの」を見るのに言葉を使わないので、記述は記述されたものではないのをよく理解したので、並外れて聡明になったのです。それで「あるがまま」の事実は実際には何でしょうか?

 そこから進んでいいでしょうか? 私はそれを見守っています、心はそれ自身の動きを見守っています。今や私はそれを非難し、裁き、評価し、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と言うでしょうか? 「あるがままのもの」を必然的に歪める何かの公式、理想、解答、結論を持っているでしょうか? 私は調べなければなりません。私が何かの結論を持っているなら見ることはできません。私が道徳家であるなら、立派な人、クリスチャン、ベーダーンタの信奉者、「悟りを開いた人」、あれやこれやであるなら―そのすべては私が見ることを妨げます。したがって、私はそのすべてについて自由でなければなりません。私は何かの種類の結論を持っているかどうか見守っています。それで心は驚くほど明瞭になりました。そして「恐怖はあるか」と言います。私はそれを見守り、「恐怖がある、安全に対する欲求がある、快楽に対する衝動がある」などと言います。何かの種類の結論、何かの種類の満足を与える動きが起こるなら、とても見ることはできないということが見えます。それゆえ私は見守っており、私が非常に因習的であることを見いだし、このような因習的な心は見ることができないと実感します。私の深い関心は見ることであり、その深い関心は私にどんな結論も危険であることを示します。それゆえ、危険の知覚そのものがその危険の放棄です。それゆえ私の心はそのとき混乱していないのです。結論を持たず、言葉や記述の見地から考えず、そして比較していません。そのような心は観察することができ、そしてそれが観察するものはそれ自体です。したがって革命が起こりました。今やあなたはなくなりました―完全になくなりました!

質問者: 私はこの革命が起こったとは思いません。今日私はあなたが言うように心を見ることを何とかなし遂げ、心はより鋭くなりますが、明日はどうやって見るか忘れてしまうでしょう。

クリシュナムルティ: それを忘れることはできません、あなた。蛇を忘れますか? 断崖を忘れますか? 「毒薬」の印のある瓶を忘れますか? それを忘れることは{できません}。紳士が「どうやって器械をきれいにすることができるでしょうか?」と尋ねました。私たちは器械をきれいにすることはどうやって器械が鈍く、曇らされ、汚されるかに気づいていることだと言いました。私たちは何がそれを曇らせるかを述べました。そしてまた記述は記述された実際のものではないと言いました。ですから言葉に捕えられないようにしましょう。記述されたもの、それは鈍くされた器械です、と共にいましょう。

質問者: 自分自身をあなたが述べたように見るなら、必ず何かを期待します。

クリシュナムルティ: 私は変容、開悟、変異を期待していません。私は何も期待していません、なぜなら私は何が起こるか知らないからです。私はただ一つのことだけを非常にはっきりと知っています。すなわち、見ている器械はきれいではありません。曇っています。ひびが入っています。それが私の知っている全部で他には何もありません。そして私の唯一の関心は、どうやってこの器械が全体的に、健全にされ得るか?です。

質問者: なぜあなたは見ているのですか?

クリシュナムルティ: 世界は燃えており、世界は私です。私はひどくかき乱され、ひどく混乱しています。そしてこの全部の中のどこかに多少の秩序がなければなりません。それが私を見させているものです。しかし「世界は大丈夫、なぜ悩むのですか、あなたは健康で少々の金、妻と子供を得ている。そのままにしておきましょう」と言うなら―そのとき、もちろん、世界は燃えていません。しかしそれでもそれは、好むと好まないに関わらず燃えて{います}。それゆえそれが私をして見させるものです。何かの知的な概念や、なにかの情緒的な興奮ではなく、世界が燃えているという現実の事実―戦争、憎悪、欺瞞、イメージ、偽りの神々、その他もろもろ。そして外部に起きていることの知覚そのものが、私を内部に気づかせるのです。そして私は内部の状態は外部の状態であり、両者は一つであって不可分であると言うのです。

質問者: 私たちはそもそもの始めに戻ります。事実は、鈍い心は、比較によって自分は違わなければならないと思うのが見えないということです。

クリシュナムルティ: ええ、それはまったく間違っています。私は変わろうと望みません! 私は器械が鈍いということを見るだけです。私はそれをどうしたらいいか知りません。それで私は見いだそうとしているので、それは私が器械を変えようと望んでいるということではありません。私は望んでいません。

質問者: 何か言葉を用いることは見ることへの障害でしょうか?

クリシュナムルティ: 言葉はものではありません。したがってものを見ているなら、言葉を脇にやらない限り、それが途方もなく重要になります。

質問者: あなたと意見が合わないようです。見るとき、器械に二つの部分があるのが見えます。一つは知覚で、もう一つは表現です。これら二つの部分を切り離すことはできません。それは言語に関する問題であって、鈍いという問題ではありません。困難は言語の中に、表現のまちまちさの中にあります。

クリシュナムルティ: あなたは、観察の中には知覚と表現があり、二つは分離していないとおっしゃっているのですか? したがって知覚するとき、表現の明確さ、言語的理解もまたあるはずである。そして知覚と認識は不可分で、それらは常に一緒であるはずである。それゆえ、正しい言葉を使うことは非常に重要だということを言っているのですね。

質問者: 私は「表現」と言っているので「意向」と言っているのではありません。

クリシュナムルティ: 分かりました―表現。そこからもう一つの要素が生じます。知覚、表現、行為です。行為が表現と知覚でないなら―言語により表わすことである表現―そのとき、断片化があります。それゆえ知覚は行為ではないでしょうか? 知覚することそのものが行為することです。私が断崖を認めるとき即座の行動があるように、その行為は知覚の表現です。それゆえ知覚と行為は決して分離できず、したがって、理想と行為はあり得ません。私が理想の愚かさを見るなら、その愚かさの知覚そのものが英知の行為です。それゆえ鈍さを見つめること、鈍さを知覚することは、心の鈍さをきれいにすることであり、それは行為です。

ザーネン、スイス、1969年8月6日

(訳者: N.Goto)'98.01.掲載、2002.11.01 修正

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