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ザーネンの公開講話・対話

1969年公開対話 「見る術」

Saanen 5th Public Dialogue 7th August 1969
J. Krishnamurti Flight of the Eagle (邦題 自由への道-空かける鳳のように-)
Chapter 11, 'The Art of Seeing '
「見る術」

私は思うのですが、観察の、見ることの性質と美を理解することが重要です。心が何らかのやり方で―神経症的な誘発と感情によって、恐怖、悲しみによって、健康状態によって、野心、俗物根性、そして権力の追求によって―歪んでいる限り、心はとても聞き、注視し、見ることはできません。見ること、聞くこと、注視することの術は養成されるものではなく、発達や徐々の成長の問題ではありません。危険に気づくとき即座の行為が、本能的瞬間的な身体と記憶の反応があります。子供の時から人は危険に出会うそのようなやり方を条件付けられ、そのため心は即座に反応します。さもなければ肉体的な破壊があります。私たちは、その中に条件付けが全くない{見ること}そのものの中で行為することができるかどうか尋ねています。心はどんな形の歪みに対しても自由に、即座に反応し、それゆえ行動することができるでしょうか? すなわち、知覚、行為、表現がすべて一つです。それらは分割されておらず、ばらばらになっていません。見ることそのものが行為であり、それは見ることの表現です。恐怖への気づきがあるとき、それを心底から観察するので、それを観察することそのものがそれを取り除くことであり、それは行為です。今朝はそれを調べていいでしょうか? 私はこれが非常に重要だと感じます。私たちは未知のものの中に入り込むことができるかも知れません。しかし何らかのやり方で、自分自身の恐怖、野心、貪欲、絶望、その他何やかやによって深く条件付けられた心は、並外れて健康な、正気な、平衡した、調和した存在を必要とするものにとても入り込むことができません。

 そこで私たちの質問は、心は―全存在を意味しています―特定の形の誤用、特定の形の努力、暴力、に気づくことができるかどうか、そしてそれを見て、徐々にではなく即座に終わりにすることができるかどうかです。このことは知覚と行為の間に時間が生じるのを許さないことを意味します。危険を見るとき、時間の隔たりはありません。即座の行為が起こります。

 私たちは来る日も来る日も見守り、実践することによって徐々に賢くなり、悟りを開くという観念に慣れています。それは私たちが習慣にしていることです。それは私たちの文化と条件付けの型なのです。今私たちは、恐怖や暴力から心自体を自由にするためのこの漸進的な心の過程は、いっそう恐れることであり、いっそうの暴力を助長することであると言っています。

 暴力を終わりにすることができるでしょうか―外部的にだけではなく、深い下 我々の存在のまさに根源において―攻撃の感覚、力の追求を終わりにすることが? それを完全に見ることそのものの中で、時間が生じるのを許すことなしにそれを終わりにすることができるでしょうか? 今朝そのことを討論していいですか? 通常私たちは見ることとすることの間の隙間に時間が入るのを、「あるがままのもの」と「あるべきもの」の間の遅れを許します。達成したり何か他のものになるために、あるがままを除去しようという欲望があります。この時間の隔たりを非常に明確に理解しなければなりません。私たちは子供の時から、結局は、やがては何かになると考えるよう育てられ教育されるので、そのような見地から考えるのです。外部的に、技術的に、時間が必要なことを見ることができます。私は一流の大工、科学者、数学者に、何年も費やさずになることはできません。人はまったく若くても数学の問題を見る明晰さ―私は「直観」という言葉を使いたくありません―を持っているかも知れません。そして人は新しい技術や言語を覚えるのに必要な記憶を身につけるには、時間が絶対に必要だということを実感します。私はドイツ語を明日話せません。何か月も掛かります。電子工学については何も知らず、それを学ぶのには多分何年も要します。それで技術を学ぶために必要な時間の要素を、知覚と行為に時間が干渉するのを許す危険と混同しないようにしましょう。

質問者: 子供について、成長することについて話しませんか?

クリシュナムルティ: 子供は成長しなければなりません。たくさんのことを学ばなければなりません。だが「あなたは成長しなければならない」と言うとき、それはむしろ軽蔑的な言葉です。

質問者: あなた、部分的な心理的変化は私たちの中に起こるのです。

クリシュナムルティ: もちろん! ひとが怒りました。あるいは怒っています。そして「私は怒っちゃいけない」と言い、徐々に働きかけ、少しはより怒っていない、よりいらいらの少ない、よりコントロールされた中途半端な状態をもたらします。

質問者: そういう意味ではありません。

クリシュナムルティ: ではどういう意味でしょうか、奥様?

質問者: 持っていて止めてしまったような事を言っています。再度混乱があるかも知れませんが、しかしそれは同じものではありません。

クリシュナムルティ: ええ、しかしそれは常に同じ混乱ではないでしょうか、少し形を変えた? 形を変えた継続があります。誰かへの依存を止めるかも知れません、依存の苦痛と孤独の痛みを通り抜け、「私はもはや頼るまい」と言って。そして多分それをやめることができるでしょう。そこである変化が起きたと言います。次の依存は以前そうであったのとぴったり同じでないでしょう。そして再度それに入っていき、またやめるなどなど。さて、私たちは依存の全性質を見てそれから即座に解放されることが可能かと尋ねています―徐々にではなく―危険がある時ただちに行動するように。これは、その中に、言葉の上だけでなく、深く内側に入って行かなければならない、ほんとうに重要な問題です。その含蓄を見守ってください。アジア全体が生まれ変わりを信じています。すなわち、この人生でどのように生きたかにしたがって、また次の人生に生まれるだろうということです。野蛮に、攻撃的に、破壊的に生きたなら、来世でそれの支払いをするのです。必ずしも動物になりはしませんが、より苦痛でより破壊的に生きる人間の状態に戻ります。なぜなら以前に美しい生を生きなかったからです。この生まれ変わりの観念を信じる人たちは、言葉を信じるだけで、その言葉の意味の深みを信じないのです。{今}行なうことが限りなく明日にとって重要なのです―なぜなら明日、それは次の生ですが、それを支払うからです。それゆえ徐々に違った形を得るという観念は本質的に東洋でも西洋でも同じです。常にこの時間の要素、「あるがままのもの」と「あるべきもの」があります。あるべきものを達成するには時間を要します。努力、集中、注意である時間。注意あるいは集中を得てはいないので、注意を練習する絶え間ない努力があり、それは時間を要します。

 この問題に取り組むまったく違うやり方がなければなりません。知覚を、見ることと行為の両者を理解しなければなりません。それらは分離していません、分割していません。私たちは行為の、することの問題を同様に調べなければなりません。行為、するという事は何でしょうか?

質問者: 知覚を持たない盲人はどうやって行動できるでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは一週間目隠しをしてみたことはありませんか? 私たちはしたことがあります、遊びでですが。ほかの感受性が発達しますね、感覚がとても鋭くなります。壁や椅子や机に至る前に既にそれがそこにあるのがわかります。私たちは、内面的に、自分自身に盲目であることについて話し合っているのです。私たちは、外側には物事に恐ろしく気づくのですが、しかし内側には盲目なのです。

 行為とは何でしょう? 行為は常に観念、原理、信念、結論、希望、絶望に基づいているでしょうか? 観念、理想を持っているなら、その理想に順応しているなら、理想と行為の間に間隙があります。その間隙は時間です。「あの理想のようになる」―自分をその理想に結びつけることによって、いつかはあの理想が働くだろうし、この理想と行為の間の分離もないだろう。この理想と、理想にそれ自身を漸近させる行為があるとき、何が起こるでしょうか? その時間の間隙に何が起こるでしょうか?

質問者: 絶え間ない比較。

クリシュナムルティ: そうです、比較その他諸々。どんな行為が起こりますか、観察するなら?

質問者: 現在を無視します。

クリシュナムルティ: それから、何かほかには?

質問者: 矛盾。

クリシュナムルティ: それは矛盾です。それは偽善に導きます。私は怒り、理想は「怒るな」と言います。私は抑圧し、制御し、順応し、自分を理想に漸近させ、従って常に葛藤し、ふりをしています。理想家はふりをする人です。また、この分離の中に葛藤があります。生じるほかの要素もあります。

質問者: なぜ私たちは前の人生を思い出すのを許されないのでしょうか? 私たちの進化はもっと容易でしょうに。

クリシュナムルティ: そうでしょうか?

質問者: 誤りを避けられます。

クリシュナムルティ: 前の人生とはどういう意味ですか? 昨日の人生、24時間前?

質問者: 直前の前世です。

クルシュナムルティ: 百年も前の? それがどのように人生を容易にするのでしょうか?

質問者: よりよく理解するでしょう。

クリシュナムルティ: どうかそのことを一歩一歩追ってください―あなたはしたことやしなかったこと、百年前に悩んだことの記憶を持つかもしれませんが、それはまさしく昨日と同じです。昨日あなたは好きな、あるいは悔やむ沢山のことをし、それはあなたに苦痛、絶望、悲しみを引き起こしました。その全部の記憶があります。そしてあなたは千年の記憶を持ち、それは本質的に昨日と同じです。なぜ{それ}を生まれ変わりと呼び、昨日の肉体化、それは今日生まれているのですが、は呼ばないのでしょうか? ほら、私たちはそれを好まないのです。なぜなら自分は並み外れた存在であるとか、あるいは成長し、何かになり、生まれ変わる時間を持っていると考えるからです。あなたが決して見たことのない、生まれ変わるそれは何でしょうか―それはあなたの記憶です。それに関して神聖な、尊いものは何もありません。あなたの昨日の記憶は、今日行なっていることの中に生まれているのです。昨日が、今日していることをコントロールしているのです。そして千年の記憶が昨日を通じ、そして今日を通じて作用しているのです。それゆえ過去の絶え間ない肉体化があるのです。これをそれから出る利口なやり方、説明と考えないでください。記憶の重要さとその全くの無益さを見るとき、そのとき、人は決して生まれ変わりについて語らなくなります。

 私たちは行為が何であるかを尋ねているところです。そもそも 行為は自由で、自発的で、即座でしょうか? それとも行為は常に時間、それは思考です、記憶です、で縛られているのでしょうか? 

質問者: 私は猫が鼠を捕るのを見ていました。猫は「鼠だ」とは考えません。即座に、本能的に捕えます。私たちもまた自然発生的に行動しなければならないと思います。

クリシュナムルティ: どうか、あなた、「ねばならない」、「すべきだ」でなく―私たちが時間の要素を本質的に理解するとき、決して「すべきだ」、「ねばならない」と言わないだろうと思います。私たちは自分に、言葉の上でなく、知的にではなく、深く、内側に、行為が何であるかを尋ねています。行為は常に時間の束縛なのでしょうか? 記憶から、恐怖から、絶望から出る行為は常に時間の束縛です。完全に自由であり、それゆえ時間から自由である行為はあるでしょうか?

質問者: 人は蛇を見てただちに行動するとあなたは言います。しかし蛇は行動と共に成長するのです。生はそんなに簡単ではありません。一匹の蛇だけでなく二匹の蛇がいます。それでそれは数学の問題のようになります。そこで時間が入ってくるのです。

クリシュナムルティ: 私たちは虎の世界に住んでおり、人は一頭の虎だけでなく、人間の形をした一ダースもの虎に出会うのだとあなたは言っています。その虎は野蛮、暴力、貪欲、強欲であり、それぞれが自分自身の特定の歓喜を追求しているのです。その世界で生き行動するためには虎を次々に除く時間を要します。虎は私自身です―私の中にいます―一ダースもの虎が私の中にいます。そしてあなたは、それらの虎を一つづつ除くには時間がかかると言いました。それはまったく私たちが問題にしていることそのものです。私たちは自分の中にいる蛇を次々に徐々に殺すには時間がかかるということを受け入れてきたのです。「私」は「あなた」です―あなたの虎、あなたの蛇を持っている「あなた」―こういったすべてはまた「私」です。そして私たちは,なぜ私の中にいるこれらの野獣を一つづつ殺すのでしょうか?と言います。私の内側には千の「私の」が、千匹の蛇がいて、それを全部殺してしまうまでに私は死んでいるでしょう。

 そこでやり方があるでしょうか?―どうか聞いてください、答えずに見いだしてください―全部の蛇を、徐々にではなく、直ちに、除いてしまうやり方があるでしょうか? 私は私の中のすべての野獣の、すべての矛盾の危険を見て、直ちにそれらから自由であることができるでしょうか? それをすることができないなら、そのとき私に希望はないのです。私はあらゆる種類のふりをすることができますが、私の中にある全てのことを直ちに拭い去ることができないなら、次の生に、あるいは千の十倍の生に再誕生しようが、私は永遠に奴隷です。そこで私は、知覚の瞬間に終わりに至らせる、私の中の特定の大蛇や特定の猿を終わらせる行為の、見ることのやり方を見いださなければなりません。

質問者: それをするのです!

クリシュナムルティ: いいえ、奥様、どうか、これは実際に途方もない問題です。「こうせよ」とか「そうするな」とだけ言うことはできないのです。これはものすごい探究を必要とします。わかったとか、あれやこれをすべきだとか私に言わないでください、それには関心がありません―私は見いだしたいのです。

質問者: もしそれを見ることができさえすれば!

クリシュナムルティ: いいえ、どうか、「もし」ではなく。

質問者: 私が何かを知覚するなら、それを言葉にすべきでしょうか、それとも心に留めておきましょうか?

クリシュナムルティ: なぜあなたは非常に簡単な言葉で言われたことを自分自身の言葉に翻訳するのでしょうか―なぜ言われたことを見ることができないのでしょうか? 私たちは多くの獣を、危険を自分の中に飼っています。その全部から{一つの}知覚で―見ることで、直ちに自由であることができるでしょうか? あなたはそうしてしまったかも知れませんが、奥様、私はあなたがなさったかどうか尋ねているのではありません。それは私の側からは出過ぎた行いでしょう。しかし私はこのことが可能であるか?と尋ねているのです。

質問者: 行為には二つの部分があります。内部、決定する部分は直ちに行われます。外部の世界に向かっての行為は時間を要します。決定は内側の行為を意味します。行為のこの二つの局面に橋渡しするには時間がかかります。これは言語の、伝達の問題です。

クリシュナムルティ: わかります、あなた。時間を要する外側の行為と、知覚であり行為である内部の行為があります。この知覚、決定、即時の行為を伴う内部の行為は、時間を要するもう一つの行為とどうやって橋渡しされればいいでしょうか? 質問は明確でしょうか?

 指摘させていただくなら、私は橋を要するとは思いません。二つにかかる、連結する橋はありません。その意味をお話しましょう。私は非常に明確にここからあそこに行くには時間がかかることを理解します。言語を学ぶには時間が要ります、物理的に何かをするには時間が要ります。内面に時間が必要でしょうか? 私が時間の性質を理解できるなら、そのとき外部の世界で時間の要素を正しく取り扱うでしょうし、そしてそれを内部の状態に干渉させないでしょう。それゆえ私は外部から始めていません。なぜなら外部のものは時間を要すると認識するからです。しかし私は私自身に、内部の知覚、決定、行為の中に、いったい時間があるのかどうかを尋ねています。したがって私は尋ねています。「いったい決定は必要なのか?」―時間の一瞬である決定―一秒、一点。「私は決める」は時間の要素が{ある}ことを意味します。決定は意志と欲望に基づいており、そのすべては時間を含んでいます。それで私は尋ねています。そもそもなぜ決定がこの中に入らなければならないのでしょうか? それともその決定は、「あなたは時間を持たなければならない」と言う私の条件付けの一部なのでしょうか。

 そこで決定のない知覚と行為はあるでしょうか? すなわち、私は恐怖、思考によって、過去の記憶によって、経験、昨日の恐怖の今日への出現によってもたらされた恐怖に気づいています。私は恐怖の全性質、構造、真相を理解してしまいました。そして決定なしに恐怖を見ることは、恐怖からの自由である行為です。これは可能でしょうか? はい 私はそれをしましたとか、誰かがそれをしましたとか言わないでください―それは要点ではありません。この恐怖はその出現にあたって直ちに終わることができるでしょうか? 表面の恐怖があります、それは世界に対する恐怖です。世界は虎で満ちています。その虎は、それは私の一部分ですが、破壊しようとしています。したがって私―虎の一部―と残りの虎の間に戦いがあります。

 また内部の恐怖もあります―心理的に安全でないこと、心理的に不確実なこと―皆思考によってもたらされました。思考は快楽を育てます。思考は恐怖を育てます―私はその全部を見ます。私は、蛇や断崖や深い急流の危険を見るように、恐怖の危険を見ます―私は危険を完全に見ます。そしてそのまさに見ることが終わりです、決定する最も短い瞬間の間隙さえなしに。

質問者: 時には恐怖を認識することができますが、まだその恐怖を持っています。

クリシュナムルティ: このことには非常に注意深く入って行かなければなりません。まず第一に、私は恐怖を除こうと望んでいません。私はそれを表に出し、理解し、それを流れさせ、生じさせ、私のなかに爆発させる、などなどをさせたいのです。私は恐怖について何も知りません。私は自分が恐れていることを知っています。さて、私はどんなレベルで、どんな深みで恐れているのか見いだしたいのです。意識的に、あるいはまさに根っこで、私の存在の深いレベルで―洞窟の中で、私の心の未探検の領域で。私は見いだしたいのです。私はその全部が出てくることを、さらけ出されることを望みます。そこでどうやってそれをしましょう? 私はそれをしなければなりません―徐々にではなく―おわかりですか? それは私の存在から完全に表に出てこなければならないのです。

質問者: 千もの虎がいて、私が地面に腰を下ろしているなら、それらを見ることはできません。しかし、もし私が上の飛行機に移動するなら、処理できます。

クリシュナムルティ: 「もし」ではなく。「もし私が飛べるならば地球の美を見るであろう」。私は飛べません、ここにいるのです。私はこれらの理論的な諸問題は全く価値がないと思います。そしてどうやら私達はそのことを理解していないようです。私は空腹であり、あなたは理論を私に与えてくれています。ここに問題があります。どうかよく見てください。なぜなら皆恐れているからです。誰もが何らかの恐怖を持っているからです。深い、隠れた恐怖があり、そして私は表面の恐怖に、世界に対する恐怖にとてもよく気づいています。職を失うことや何やかやから起きる恐怖―妻や息子を失うこと。私はそれを非常によく知っています。多分、恐怖のより深い層があるでしょう。どうやって私は、どうやってこの心は、その全部を即座にさらけ出せばいいでしょうか? あなたはどう思いますか?

質問者: 獣を最終的に追い払うべきだとおっしゃるのですか、それともその都度駆逐する必要があるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 質問している方は、獣をある日追い払って次の日帰ってこさせるのではなく、獣をすっかり、永久に追い払うことができるとあなたは示唆していると言っています。それが私たちが言っていることです。私は獣を繰り返し追い払いたくはありません。それは全ての学校で、全ての聖者が、全ての宗教と心理学者が言っていることです、少しづつ追い払え。それは私にとっては問題ではありません。私は決して帰ってこないように獣を追い払うにはどうすればいいか見いだしたいのです。そして帰ってきたときどうするか知っています、家に入らせません。おわかりですか?

質問者: もうその野獣の正しい名を言ったほうがいいでしょう。それは思考です。そして獣が帰ってきたとき、それをどうしなければならないかわかるでしょう。

クリシュナムルティ: 私はどうしなければならないか知りません―見ていきましょう。あなた方はみんな熱心ですね。

質問者: これは私たちの生です―熱心でなければなりません!

クリシュナムルティ: 答えるのに熱心ですね(と言ったのです)。もちろん私たちは熱心でなければなりません。これはとても難しい問題です。ただ多くの言葉を並べることはできません。これは注意を要します。

質問者: なぜ私たちは現実に、今ただちに知覚することをしないのでしょう?

クリシュナムルティ: それが私が提案していることです。

質問者: 私があなたを見るなら何が起きますか? 最初にあなたの姿を得ます。どうか私を見てください。最初に起きることは私の視覚的な姿です、いいですか? それから何が起きますか? 思考が姿について起きます。

クリシュナムルティ: そのことがご婦人が言っていたことです。まさに同じことです。思考が野獣なのです。どうかその野獣に専念しましょう。その野獣は思考、自己、私、エゴ、恐怖、貪欲であると言い、そしてその後でそれの別の記述に戻らないでください。その野獣は、私たちは言います、この全部です。そしてこの野獣は徐々には追い出せないことを私たちは見ます。なぜならそれは常に違った形で帰ってくるからです。いくぶん気づいて私は言います、この全部の何と愚かなことか、この絶え間ない野獣の駆逐―帰ってきてはまたの駆逐。私はそれを完全に駆逐し決して帰ってこないようにすることができるかどうかを見いだしたいのです。

質問者: 私は自分の中に異なった速度を持つ、異なった機能を見ます。もし一つの機能が他を追いかけるのならば何も起きません。例えば、感情が観念を追いかけるのなら。ひとは全部の機能で見なければなりません。

クリシュナムルティ: それは同じことで、あなたは別の言葉に置き換えているのです。

質問者: あなたは説明を始めましたが、それは中断されました。あなたはそもそも恐怖を取り除こうとは望まないと言い始めていましたね。

クリシュナムルティ: 私は皆さんに、何よりもまず、私は野獣を除こうと望まないと言いました。野獣を駆逐しようとは望まないのです。鞭やビロードの手袋を取る前に、駆り立てているのは誰か知りたいのです。もしかすると野獣を駆り立てているのはもっと大きい虎かも知れないのです。そこで私は自分に、私はどんなものも駆り立てまいと言います。この重要さを見てください!

質問者: 駆逐することは結果としてあなたの死の判決かも知れません。

クリシュナムルティ: いいえ、私は知りません。ゆっくり行きましょう、あなた、私に説明させてください。野獣を駆逐する前に、私はそれを駆逐しようとしている実体は誰か見いだしたいと言います。そしてそれはより大きい虎かもしれないと言います。私が全ての虎を除きたいのであるなら、小さい虎を追うために大きい虎を得るのは無益です。そこで私は待てと言います、私は何も追い立てようとは望みません。私の心に何が起きているか見てください。私は何も駆り出そうとは望まないが見たいのです。私は観察したいのです、私は大きな虎が小さな虎を駆っているのかどうか非常に明確でありたいのです。このゲームは果てしなく続くでしょう、それが世界で行なわれていることです―一つの特定の国の横暴な政治が小さな国を駆り立てています。

 そこで、今や私は―どうかこれをわかってください―{何も}追い立ててはならないということにとてもよく気づいています。私はこの何かを追い出す、それを克服する、それを支配するという原理を根こそぎにしなければなりません。なぜなら「そのちっぽけな小虎を除かねばならない」と言っている決定は大きな虎に成長するかも知れないからです。それゆえ何かを除こう、追い出そうという全ての決定、全ての衝動の完全な停止がなければなりません。そのとき私は見ることができます。そのとき私は自分に言います(言葉通りの意味です)、「私は何も追い出すまい」。したがって私は時間の重荷から自由です、時間の重荷とは他の虎で一頭の虎を追い出すということです。そのことの中には時間の間隔があり、そこで私は「したがって何もやるまい、追い立てまい、行動すまい、決定すまい、私はまず第一に見なければならない。」と言います。

 私は見ています―エゴを意味しているのではなく、心が見ているのです、頭脳が見守っているのです。私は種々の虎を、子供と夫といっしょの母虎を見つけることができます。私はその全部を見ることができますが、私の内部のより深いものもあるに違いなく、私はそれらを全部曝したいのです。それを行為を通じて、することを通じて表に曝しましょうか? どんどん怒ってそれから静まって、そして一週間後また怒ってそれから静まって? それとも全部の虎を見るやり方があるでしょうか、小さいもの、大きいもの、ちょうど生まれているもの―その全部を? 厄介ごと全部を理解してしまうほど完全にそれらのすべてを見守ることができるでしょうか? それをできないなら、そのときは私の人生は古いお決まりの手順で、中産階級のやり方で、込み入った、愚かな、狡猾なやり方で続いていくでしょう。それだけのことです。それで、あなたがどうやって聞くかわかったなら、今朝の話しは終わりです。

 あなたは弟子に毎日話していた師の物語を知っていますか? ある日かれが説教壇に上ります。小鳥が来て窓に止まってさえずり始め、師はさえずるままにします。しばらくさえずっていたあと小鳥は飛び去ります。そして師は弟子に「今朝の法話はおしまい」と言います。

1969年8月7日

(訳者: N.Goto)'98.03.01.掲載、'98.03.21.修正、2003.01 修正

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