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ザーネンの公開講話・対話

1969年公開対話
「暴力について」 「根本的な変化について」 「見る術」「未知に入ることについて」

1969年公開対話 「未知に入ることについて」

Saanen 6th Public Dialogue 8th August 1969
J. Krishnamurti Flight of the Eagle (邦題 自由への道-空かける鳳のように-)
Chapter 12, 'On Penetrating into the Unknown '
「未知に入ることについて」

 私たちは自分の中に持っている野獣たち全体をどうやって片付けるかを尋ねていました。私たちがこういったすべてを討論しているのは、人は未知の中に入らなければならないということを私たちは見る―少なくとも私は見る―からです。結局、どのよい数学者や物理学者も未知を探究しなければならず、おそらく芸術家もやはり、自分自身の感情や想像によって興奮し過ぎるのでないならそうでしょう。そして私たち、毎日の問題を持っている普通の人間も、やはり、深い理解の感覚を持って生きなければなりません。私たちもまた未知の中に入らなければなりません。心がでっち上げた野獣たち、もめ事や矛盾を伴う竜、蛇、猿を―それは私たちの現状です―いつも駆逐している心はとても未知の中に入ることは出来ないでしょう。輝かしい知性や偉大な識見を授からず、日々の単調な醜い取るに足らない人生を生きているだけのただの普通の人間であるのですが、私たちはどうやってその全部を即座に変えるかに関わっています。それが私たちが考えていることです。

 人は新しい発明や、新しい圧力、新しい理論、新しい政治情勢で変化します。それら全ては特定の性質を持った変化を引き起こします。しかし、私たちは個人の存在の中の根本的な、基本的な革命、そしてこのような革命が徐々にもたらされるべきか、直ちにもたらされるべきかについて話しています。昨日、私たちは徐々にそれをもたらすことに含まれている全てのこと、距離と時間とその距離を埋めるために必要な努力の意味全体を調べました。そして私たちは言ったのですが、人間はこのことに何千年も努めたのですが、しかしどういうわけか根本的に変化することは出来なかったのです―おそらく一二の人を除いて。それゆえ私たちが、私たち一人一人が、したがって世界が―なぜなら世界は私たちであり、私たちは世界であり、二つの切り離された状態ではないからです―私たちが作り出したすべての労苦、怒り、憎しみ、敵意と、各自が背負っている苦しさを直ちに拭い去ることが出来るかどうかを見ることが必要です。明らかに苦しさは最も共通に持っているものの一つです。その苦しさを、それの原因の全部を知り、それの全体の構造を見て、即座に拭い去ることが出来るでしょうか?

 そのことは観察があるときのみ可能であると私たちは言いました。心が非常に強烈に観察することができるとき、そのとき、その観察そのものが苦しさを終わりにする行為です。私たちはまた行為とは何かという問題に入りました。何か自由な、自然発生的な、意志的でない行為があるかどうか。あるいは、行為は私たちの記憶、理想、矛盾、傷、苦しさ等々に基づいているのでしょうか? 行為は常にそれ自身を理想、原理、型に近づけているのでしょうか? そしてその様な行為は全然行為ではない、なぜなら、それは「あるべき」ものと「あるがままのもの」との間に矛盾をつくるからだと私たちは言いました。あなたが理想を持っているときには、ありのままのあなたとあるべきあなたの間に、踏破されるべき距離があります。その「あるべし」は数年掛かるかも知れませんし、あるいは多くの人が信じるように、完全な理想郷に到達するまで何度も何度も生まれ変わる多くの人生を要するかも知れません。私たちはまた昨日の今日への生まれ変わりがあると言いました。その昨日が何千年も後ろへ広がっていようが24時間だけであろうが、過去・現在と、未来、それは「あるべきもの」です、との間のこの分離に基づいた行為があるとき、昨日は今もなお作用しているのです。この全部は、私たちは言ったのですが、矛盾、葛藤、悲惨をもたらします。それは行為ではありません。知覚することが行為です。知覚そのものが行為{です}。それはあなたが危険に直面するとき起きます。そのとき即座の行為があります。昨日この点まで来たと思います。

 また非常な危機、挑戦、あるいは大きな悲しみがある瞬間もあります。そのとき、心は一瞬途方もなく静かです。衝撃を受けたのです。私はあなたがそれを観察したことがあるかどうかわかりません。あなたが夕方か早朝、途方もない光を頂く山、影、広大さ、荘厳さ、深い単独の感じを見るとき―その全てを見るとき、あなたの心はそれをすべて取り入れることは出来ません。さしあたりそれは完全に静かです。しかし心はやがて衝撃を乗り越え、自分の条件付け、自分の特定の個人的問題などにしたがって反応します。そのように、心が完全に静かな瞬間がありますが、それはあの絶対的な静寂の感覚を維持できません。その静寂は衝撃によって作り出されることが出来ます。私たちの大抵は大きな衝撃があるときのこの絶対的な静寂の感覚を知っています。それは外的にある出来事によって作り出すことも、どこかの禅スクールでのような一連の不可能な問いによって、人工的に、内側に引き起こすこともできます。あるいは心を静かにさせる何かの想像による状態、何かの方式によって―それは明らかにむしろ幼稚で未熟です。私たちは私たちが話してきた意味で知覚が可能な心にとっては、その知覚そのものが行為であると言っています。知覚するためには心は完全に静かでなければなりません。さもなければそれは見ることは出来ません。あなたの言っていることを聞きたいなら、私は静かに聞かなければなりません。気まぐれな思考、あなたの言っていることのどんな解釈も、どんな抵抗の感覚も現実の聞くことを妨げます。

 それゆえ、聞く、観察する、見る、見守ることを望む心は、必然的に並外れて静かでなければなりません。その静かさはどんな衝撃の感覚によっても、特定の観念への没頭によっても、とても引き起こすことはできません。子供が玩具に夢中になっているとき、非常に静かです。それは遊んでいます。しかし玩具が子供の心を奪っており、玩具が子供を静かにさせているのです。薬物を摂取したり人為的な何かをしていることの中に、より偉大な何か―絵画、イメージ、ユートピア―によって心を奪われているこの感覚があります。この動かない、静かな心は全ての矛盾、曲解、条件付け、恐怖、歪みを理解することによってのみ起こり得るのです。私たちは、それらの恐怖、悲惨、混乱がすべて即座に拭い去られ、その結果、観察するために、入り込むために、心が静かであることが出来るかどうかを尋ねています。

 人は実際にそれをすることができるでしょうか? あなたは実際にあなた自身を完全に静かに見ることができるでしょうか? 心が能動的であるとき、そのとき、それは自分が見るものを、翻訳し、解釈し、「これは好き」、「それは嫌い」と言って歪めています。それはものすごく興奮し、感情的になり、その様な心はとても見ることができません。

 そこで私たちのような普通の人間がこれをすることができるだろうかと私たちは尋ねています。私は、「恐怖」とか「苦しさ」のような言葉の危険、そしてその言葉そのものが「あるがまま」を実際に見ることを妨げるだろうということをわかって、私自身を、私が何であろうが見ることが出来るでしょうか? 私は言葉の落とし穴に気づきながら観察することができるでしょうか? また、干渉しようとするどんな時間の感覚も―「達成しよう」「免れよう」というどんな感覚も―許さないで、静かに、熱心に、注意深く、ただ見ることが出来るでしょうか? その強烈な注意の状態の中で、心の隠された通路、知られていない隠れ場所が見えます。その中にはどんな分析もなく、知覚のみがあります。分析は時間、そしてまた分析者と分析されるものを含みます。分析者は分析されるものと違うでしょうか?―違わないなら、分析に意味はありません。このすべてに気づき、それをすべて捨てなければなりません―時間、分析、抵抗、届こう、克服しようとすること等々―なぜならその扉を通しては悲しむことへの終わりはないからです。

 この全部を聞いた後で人は実際にそれをすることが出来るでしょうか? これは本当に重要な質問です。「どうやって」はないのです。あなたにどうすべきかを教え、必要なエネルギーを与えてくれる人はいないのです。観察するには大きなエネルギーがいります。静かな心は何の浪費もない全体のエネルギーです。そうでないならそれは静かではありません。そして人は自分自身をこの全体のエネルギーで、見ることが行為でありそれゆえ終わりであるように、完全に見ることが出来るでしょうか?

質問者: あなた、あなたの質問も同じく不可能ではないでしょうか?

クリシュナムルティ: これは不可能な質問でしょうか? 不可能な質問であるなら、そのときなぜあなた方は皆ここに腰掛けているのでしょうか? ただ話している人の声を聞くために、流れ行く小川の音を聞くために、この丘と山と牧草地に囲まれてすばらしい休日を過ごすのでしょうか? なぜあなたはそれをすることが出来ないのでしょうか? それはそんなに難しいですか? それは非常に利口な頭脳を持つという問題でしょうか? それともあなたは人生の中で実際にあなた自身を全く観察したことがなく、したがってこのことがとても不可能に見えるということでしょうか? 家が燃えているとき、ひとは何かしなければなりません! 「それは不可能だ、私は信じない、それについては何もできない」と言い、腰掛けて燃えるのを見守りはしません! あなたは現実との関係で何かをし、あるべきであるとあなたが考えることとの関係で何かをするのではありません。現実は家が燃えているのです―あなたは消防車が来る前に完全に火を消すことは出来ないかも知れませんが、その間に―とても「その間に」はないですが―火事との関係で行動します。

 それであなたがそれは不可能な質問である、アヒルを小さな瓶に入れるのと同じように困難で、不可能であると言うとき―それはあなたが家が燃えていることに気づいていないことを示しています。なぜひとは家が燃えていることに気づかないのでしょう? 家は世界を意味します。世界はあなたです。あなたの不満を伴う、あなたの内側とあなたの外側の世界で進行している一切のものを伴う世界。もしあなたがこれに気づいていないなら、なぜ気づかないのでしょう? それは利口でないということですか、沢山の本を読んでおらず、自分自身の内部に起きていることをわかるほど敏感でなく、実際に進んでいることに気づかないということですか? もし「済みません、私は気づかない」と言うのなら、それではなぜ気づかないのでしょう? 空腹なとき、誰かがあなたを侮辱するとき、あなたは気づきます。誰かがあなたにお世辞を言ったり、あなたが性的欲望を満たそうと欲するとき、あなたはとてもよく気づきます。そのとき、あなたはとてもよく気づきます。しかしここではあなたは「私は気づかない」と言います。ではひとはどうすればいいでしょう? 誰かの刺激や激励に頼りますか?

質問者: あなたは、変容がなければならない、このことは自分自身の思考と欲望を見守ることによってなされ得る、このことは即座になされなければならない、と言います。私はある時これをしましたが変化はありませんでした。あなたの示唆することをするなら、そのときそれは永久的な状態なのですか、それともそれは毎日、規則的になされなければならないのでしょうか?

クリシュナムルティ: この行為である知覚、これは、これを最後に、してしまうことが出来るのでしょうか、それとも毎日しなければならないのでしょうか? あなたはどう思いますか?

質問者: 音楽を聴いた後でやれると思います。

クリシュナムルティ: その結果、音楽が薬物のように必要になります。音楽が薬物よりずっとお上品なだけです。質問はこうです。毎日、毎分見つめなければならないのか、それともある日非常に完全に見て全部のものごとが終わりになることが出来るのか? 一度ものごとを完全に見てしまったら、残りの時間は眠ることが出来るのでしょうか? 質問がわかりますか? 私は自分が毎日見なければならず、眠ってはならないのではないのかと心配です。あなたは侮辱や、お世辞、怒り、絶望についてだけではなく、自分の周りと内部で起きている全部のことにも いつも気づいていなければなりません。あなたは「今や私は完全に悟っている、何も私に害を及ぼさないだろう」と言うことは出来ないのです。

質問者: この知覚を得、そして何が起きているか理解することが起こるその瞬間、そのわずかな間に、あなたはそのとき、侮辱が生じたときに持った暴力的な反応を抑圧していないでしょうか? この知覚は単に起きるかもしれない反応の抑圧ではないでしょうか? 反応の代りにあなたは知覚し代りに―知覚はただ反応を抑圧することかも知れません。

クリシュナムルティ: 私たちはこの事の中にかなり徹底的に入っていったのではなかったでしょうか? 私は嫌いという反応を持ちます―私はあなたを好きでありません。そしてその反応を見守ります。私が非常に注意深く見るならそれは開き、私の条件付け、私が育てられてきた文化を曝し出します。私がなおも見守っており、眠ってしまわないなら、心が曝し出されたものを見守っているなら、沢山のことがあらわにされます―抑圧の問題はまったくありません。なぜなら私は起こっているものを見ることに関心があるのであって、どうやってすべての反応を超えるかに関心があるのではないからです。心が 私、自我、自己の構造そのものを見ること、知覚することができるかどうかを見いだすことに私は関心があります。そしてそのことの中に、どうして何かの形の抑圧が存在し得るでしょうか?

質問者: 私は時には静寂の状態を感じます。その静寂から行為があり得るでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは「どうやってこの静寂は維持、保持、保たれることが出来るのか?」と尋ねているのでしょうか?―そういうことですか?

質問者: 私は日常生活を続けられるでしょうか?

クリシュナムルティ: 日常の活動は静寂から出てくることが出来るでしょうか? あなた方は皆私がこれに答えるのを待っています。私はお託宣をする人であることはごめんです。なぜなら私はたまたま演壇に腰掛けており、それは私に何の権威も与えていないからです。これが質問です。非常に静かな心は、日常生活の中で行動できるでしょうか? あなたが日常生活を静寂から、ユートピアから、理想から―それは静寂です―区別するなら、そのとき二つは決して出会いません。私は二つを分離して保つことができるでしょうか、これが世の中、私の日常生活で、こちらは私が経験した、自分の進む道と感じた静寂だと私は言えるでしょうか? 私はその静寂を日常生活に移すことができるでしょうか? あなたは出来ません。しかし二つが切り離されておらず―右手は左手です―そして二つの間に、静寂と日常生活の間に調和があるなら、統一があるときは、そのとき、ひとは決して「私は静寂から行動できるだろうか?」と尋ねないでしょう。

質問者: あなたは強烈な気づき、強烈な凝視、強烈な見ることについて話しています。その人の持っている強烈さの程度が本質的にそれを可能にするものであると言えないでしょうか?

クリシュナムルティ: 人は本質的に強烈であり、そして人が持つ深い、基本的な強烈さがある―そういうことですか?

質問者: 情熱をもってそれに取り組むやり方は、それが目的ではなくて、根本的な必要条件であると思われます。

クリシュナムルティ: それを私たちはすでに持っています。そうですね?

質問者: イエスであり、またノーです。

クリシュナムルティ: あなた、なぜ私たちはそんなに沢山のことを想定するのでしょう? 何も知らずに航海して調べることは出来ないでしょうか? 自分自身の中への航海を、何がいいか悪いか、何が正しいか間違っているか、何であるべきか、何でなければならないか知ることなしに、何の重荷もなしにただ航海することは出来ないでしょうか? それは最も難しいことの一つです、どんな意味の重荷もなしに内的に航海をすることは。そして航海するにつれて発見するのです―あなたは出発せずに、始めに「これはそうあってはならない」、「これはそうあるべきだ」と言います。どうもそれはするのが最も難しいことの一つのようです、私はなぜだかわかりませんが。ほら、皆さん、話し手を含めて、助けてくれる人は誰もいないのです。信頼する人は誰もいないし、私はあなたが{誰も}信頼しないことを望みます。あるがままのもの、すべきもの、こちらに行くように、あちらには行くな、落とし穴に用心するように、君のために皆印をつけてある、とあなたに教えてくれる権威はないのです―あなたは一人で歩いているのです。あなたはそれをすることができますか? あなたは「私は恐ろしいのでできません」と言います。その時は恐怖を取り上げて調べ、それを完全に理解してください。旅行を忘れてください、権威を忘れてください―この恐怖と呼ばれるものの全体を検査してください―恐怖、頼るべき誰も、どうすればいいか教えてくれる誰もいないがゆえの、過ちをするかも知れないがゆえの恐怖。過ちをなさい、そして過ちを観察することの中で、あなたはそれから即座に跳び出るでしょう。

 進むにつれて発見しましょう。このことには、絵を描いたり、本を書いたり、ステージに上がって自分自身を笑い物にするより、より大きな創造性があります。より大きな―この言葉を使ってよろしければ―興奮が、より大きな感覚―

質問者: 高揚?

クリシュナムルティ: おお、言葉を供給しない。

質問者: 日常生活が観察者を導入することなしに遂行されるなら、そのとき何も静寂を妨げません。

クリシュナムルティ: それが問題の全てです。しかし観察者は常にトリックを仕掛けています。常に影を投げかけています。それによっていっそうの問題をもたらしながら。あなたと私が何も知らずに、進むにつれて自分の性的欲求、自分の熱望、意図を発見しながら、内面に旅をすることが出来るかどうかを私たちは尋ねているのです。それは月に行くよりずっと大きなものすごい冒険なのです。

質問者: これが問題です。月に行くことに従事したとき、その人たちはどこに行っているのか知っていました。方向を知っていました。内面には方向がありません。

クリシュナムルティ: 紳士は月に行くことは客観的であり、どこへ行くのかわかっていると言います。ここでは、内面に旅をするとき、私たちはどこに行こうとしているのか知りません。したがって不安と恐怖があります。あなたがどこに行こうとしているのか知っているなら、あなたは決して未知の中に入り込まないでしょう。それゆえあなたは永遠なものを見出す真の人間では決してないでしょう。

質問者: 師の助けなしに全体的な、即時の知覚があり得るでしょうか?

クリシュナムルティ: それは話し合ってきたことですね。

質問者: 私たちはもう一方の問題を終わっていません。私たちがどこに行こうとしているかわかっているのでこれが問題なのです。私たちは快楽にしがみついていたいのです、ほんとうに未知のものを望んではいません。

クリシュナムルティ: そうです、私たちは快楽のエプロンの紐にしがみついていたいのです。私たちは知っている事にしがみついていたいのです。そしてその全部を携えて旅をしたいのです。山に登ったことがありますか? 荷物を背負えば背負うほどそれはますます困難になります。これらの小さな丘に登るのでさえ重荷を背負えばとても困難です。そして山に登るならもっと自由でなければなりません。私は困難がどんなであるか実際に知りません。私たちは自分が知っているあらゆるものを持ち運びたいのです―侮辱、抵抗、愚かさ、歓喜、高揚、私たちが持ったすべてを。「私はその全部を運んで旅に行こう」と言うとき、あなたはあなたが運んでいるものの中にではなく、他のどこかに旅をしているのです。したがって、あなたの旅は想像の中にあります。非実在のものです。そうではなく、あなたが運んでいるもの、既知のものの中に旅をしましょう―未知のものの中にではなく―あなたが既に知っているものの中に。あなたの快楽、あなたの歓喜、あなたの絶望、あなたの悲しみ。その中に旅をしましょう、それはあなたが持っている全てです。あなたは「私はその全部を携えて未知の中に旅をしよう、そしてそれに未知のものを加えよう、別の歓喜を、別の快楽を加えよう」と言います。あるいは、それはとても危なそうなので「私はそうしたくない」と言います。(訳者: N.Goto)

1969年8月8日

(訳者: N.Goto)'98.04.01.掲載、2003.02 修正

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