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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開対話(第1回)

Saanen 1st Public Dialogue 2nd August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

Part2 Dialogue 1

自己を知る必要性  知ることと学ぶこと:学ぶことは過去から自由な心を必要とする
恐怖から逃げることと恐怖を学ぶこと 恐怖を見ることの難しさ 見ているのは誰か?

クリシュナムルティ: 私たちはここで七回の討論を持とうとしています。それに私たち一人一人が参加するのです。それは単に、お互いから二三の言葉を聞き、私たちの意見や判断を手離さないということではありません。けれど、討論する中で、一緒にものごとを話し合う中で、私たちがどんなふうに考えるか、どんな観点から生を見るか、どんなふうに公式や結論が私たちの心を左右するか、制御するかを、私たち自身で見出し始めるでしょう。これら七つの討論を通して、私たちは多くの問題を調べることが出来ます。毎朝特定の課題を取り上げ、私たち両方がそれをすっかり理解するように 出来るかぎり完全に徹底的にそれを調べ、単に言葉の上や知的にではなく(それはもちろん理解ではありません)、それを理解し、そして越えるのです。そこで今朝は何を取り上げましょうか?

質問者(1): 思考の根と起源について話しましょうか?
質問者(2): 心と脳の違いを調べましょうか?
質問者(3): 人は自分自身の中に瞑想の方式を見出せるでしょうか、それともそれは方法なのでしょうか?
質問者(4): 個人的才能や能力を私たちは正しく使っているでしょうか?
質問者(5): 人間の間の関係について何か話していただけませんか?
質問者(6): すべての条件づけを捨て去り、放棄することを討論するのはどうでしょうか?
質問者(7): 開悟とはなんでしょうか?
質問者(8): 私たちは真実と美に基づく至福の状態に到達することが、なぜそんなに難しいのでしょうか?

クリシュナムルティ: これらの質問すべてをまとめることができるでしょうか? 自己認識とは何であるか議論するなら、これらの質問すべてが答えられるのではないだろうかと私は思います。次のような質問: 瞑想とは何なのか-それは方式だろうか? 心と脳の違いは何だろうか? なぜ開悟というものに到達したり理解することがそんなに難しいのだろうか? 私たちのたいていが種々の形で苦闘しなければならないのは何故だろうか? このすべてが含まれていそうな 自己を知ることを取り上げましょうか? 自分自身を知ることができる方法や方式があるでしょうか? 他の誰かに聞くことなしに、今朝私たちがしたすべての質問に対する答えを自分で見出すやり方があるでしょうか? そのことは私が思考のメカニズムを、どんなふうに脳は働くのか、どんなふうに心は条件付けに捕えられるのか、どんなふうに心は執着するのか、どんなふうに心はそれ自身を解放しようと望むのかを自分自身で知るときにのみ可能です。絶え間ない苦闘が各人の内部にあり、また外部にあります。それで自分が自分自身に尋ねるすべての質問に答え、そして外部に存在する問題を解決するためには、自分自身を理解することが重要ではないでしょうか? このことを討論しましょうか?

まず最初に、どうやって私は私自身を観察しますか? 私は権威や専門家や心理学者が言ったこと、それは明らかに私の心を条件付けているのですが、それにしたがって私自身を見るのでしょうか? 私はフロイド、ユング、アドラー、そしてより最近の心理学者と精神分析医を好まないかもしれません。しかし彼らの言説そのものが私の心に浸透しているので、私は彼らの目で私自身を見ているのです。何かの感情的な反応なしに客観的に私自身を見ることが、ありのままの私をただ見ることができるでしょうか? そして私のありのままを見ることは、分析を要するでしょうか?

私が、私は私自身を知らなければならないと言うとき、これらの問題すべてが関係しています。私自身を完全に知ることなしに、私はどんな行為の基礎も持ちません。私が私自身を知らず混乱しているなら、私がするどんな行為も一層の混乱につながるに違いありません。それゆえ私は私自身を知らなければなりません。私の性質の構造を深く見出さなければなりません。私は私の活動の足場、私の作動するパターン、私の追う道筋、私自身や社会について私が確立してきた傾向を見なければなりません。私にものごとを、矛盾なく、あるいは矛盾して行なわせるこの衝動を理解しなければなりません。神があるかどうか、真理があるかどうか、瞑想とは何か、瞑想者は誰か-そのことは瞑想よりもっと重要です-これらの問題すべてを理解するためには、私は私自身を完全に知らなければなりません。あなたが何であるかをあなた自身で知ることの重要さがわかりますか? なぜなら、あなた自身を知ることなしには、あなたがすることは何であろうが無知の中で、したがって錯覚の中で、矛盾の中で行われるでしょうし、そこで、混乱、悲しみ、その他もろもろがあるでしょうから。そのことは明確ですか? 人は自分自身を意識的レベルのみならずその人の深い層でも知らなければなりません。この事は明らかでなければならず、そしてあなたはそれをあなた自身で知らなければなりません-私がそう言うからではなしに。

さて、どうやって私は私自身を知りましょうか? 手順はどうですか? 見たところ、探究しある結論に達した権威、専門家にしたがいましょうか、その結論を後の心理学者や哲学者が変更したり強化したりするかもしれませんが? 「ノー」と言わないでください。したがわないなら、どうやって私自身を理解しましょうか? 過去の哲学者や教師の探究のすべて-インド人の心はこのことを非常に深く調べました-は現代の人の探究と同様に、意識的無意識的に、私の心に刻み込まれています。それで、私はちょうど始めているところであり、その人たちは私に先んじて進んだのであるので追随し、それから彼らの行ったところより更に先に進みましょうか? あるいは誰にもしたがわずに私自身をよく見ましょうか? 私が私自身を「あるがままのもの」として見ることができるなら、そのとき私はこれら哲学者、教師、救い主の言ったことすべての結果である私自身を見ています。したがって私は誰かにしたがう必要はありません。この事は明白でしょうか? どうか、これをよく見てください。それに後で戻らないでください。

私の心は彼らが言ったことの結果です。それは受け容れられただけではありません。これらのことは、現在からだけではなく過去からも、そしてとても多くの教師を通じて、波のように流れこんできました。私はそのすべての結果です。それで私がなすべきことのすべては私自身を観察すること、私自身という本を読むことです。どうやって読めばいいでしょうか、どうやって障害がないように明確に観察すればいいでしょうか? 私は色眼鏡をかけているかもしれません。私自身を見ることを妨げる特定の偏見、特定の結論を持っているかもしれません。そしてそのことすべてが私自身を見ることの中に含まれています。それで私はどうしましょうか? 私は条件づけられているので、私自身を完全に自由に見ることができません。したがって私は私の条件付けに気づいていなければなりません。そこで私は尋ねなければなりません: 気づくとはどういうことでしょうか?

では進みましょう。私の心は自由ではないので、私は私自身を自由にすっかり見ることができません。私は多くの意見や結論、無数の経験を持っています。私は教育を受けています-そのすべては私の条件付けの一部です。したがって、私の一部であるこれらの条件付けに私は気づいていなければなりません。そこで最初に私は気づいているとはどういうことか知らなければなりません、理解しなければなりません。あなたにとって、気づいているということはどういうことでしょうか? 先日話し手は「どうか、ノートを取らないでください」と言いました。あなたはそれを聞き、数人の人はノートを取ることを続けました。それは気づいていることでしょうか?

質問者: 私は二分間以上気づいていることができず、それから無秩序が始まるということを既に知っています。

クリシュナムルティ: 私たちは この気づきを延ばすことができるのか、あるいは非常に短い期間のみ可能なのかに至るでしょう。しかしその質問に答えるまえに、気づいているとはどういうことか見出しましょう。私はあの川の流れの音に気づいているでしょうか? このテントのなかで男の人や女の人が着ているさまざまな色彩すべてに気づいているでしょうか? テントの構造や形に気づいているでしょうか? テントのまわりの空間に気づいているでしょうか、丘、木、雲、暑さ-私は客観的に、表面上これらすべてに気づいているでしょうか? どんなふうにあなたは気づいていますか?

質問者: 私たちは内と外に同時に気づいています。

クリシュナムルティ: どうか一歩一歩行きましょう。このテントに、人々の服のさまざまな色彩に気づいていますか、丘、木、牧草地に気づいていますか? それを意識しているという意味で気づいていますか? 気づいていますね?

質問者: 私がそれに注意するとき、それに気づいています。

クリシュナムルティ: あなたがそれに注意するとき、気づいています。したがってあなたが不注意なとき、気づいていません。それゆえ、あなたが注意を払うときだけ、あなたは気づいています。どうかこのことを綿密に追ってください。

質問者: 私が一つの事に注意を払うとき、私は夢中になり、私のまわりの他のことに注意を払うことができません。

クリシュナムルティ: あなたは一つの特定のことに夢中になり、残りのものは消えていきます。注意深くテント、木、山を見ているとき、見ているものを言葉にしていることに気づいているでしょうか? 「あれは木だ、あれは雲だ、あれはテントだ、この色は好きだ、あの色は好きでない」と言います-いいですか? どうかこの事に少し心をかけてください-退屈しないでください。なぜなら、このことを非常に深く調べるなら、テントを去るとき、何かをあなた自身で見るからです。それであなたが見守るとき、自分の反応に気づいていますか?

質問者: それはまるで注意が広がるかのように思われます。

クリシュナムルティ: 私はあることを尋ねており、あなたはほかの何かに答えています。私はあの服に気づいています。私の反応は「何と素敵な」とか「何と醜い」と言います。私は尋ねています: あの赤い色を見るとき、あなたはあなたの反応に気づいていますか? 多くの反応ではなくて、赤い色を見るときのその特定の反応に? どうして気づきません? それは気づきの一部ではないでしょうか?

質問者: ものごとに名前をつけるとき、気づいていません。

クリシュナムルティ: それがどういうことか私は見出そうとしているのです、あなた。あなたはこの事に噛み付いていません! 私は気づいていたいのです。そして私は気づいていないことを知っています。ときには私は注意深いのですが、大抵は半分眠っています。木や色を見ている間、ずっと他の何かを考えています。言ったように、私自身を知らないなら私は何をするにも基礎を持っていないということがわかるので、私は完全に私自身を知りたいのです。それゆえ私は私自身を知らなければなりません。どうやって私は気づきますか? どうやって私は私自身を観察しますか? 観察する中で私は学ぶでしょう。それゆえ学ぶことは気づきの一部です。私はほかの誰かにしたがって私自身を学ぼうとするでしょうか-哲学者、教師、救い主、牧師にしたがって? それは学ぶことでしょうか? 他人が言ったことにしたがって学ぶなら、私は私自身を学ぶことを止めてしまったのではないでしょうか? それで最初のことは、私は私自身を学ばなければならない、ということです。さて、この私自身を学ぶということはどういうことでしょうか? それを調査しましょう、それに突っ込みましょう、自分自身を学ぶ-それはどういうことか見出しましょう。

質問者: 自分の反応を見ること。

クリシュナムルティ: いいえ、奥様、私はそのことを言っているのではありません。学ぶとはどういうことでしょうか?

質問者: 人はそのような気づきに到達する実際の方式を必死になって捜しているように思われます。かつて、すべての思考を書き下ろし、後ほどそれらを読むとき、映画のようにそれらの思考を見ることによって、私たち自身を教育しようとする事が出来るのではないかと考えました。もしかするとこの様にして何かを学ぶことができるかもしれません。

クリシュナムルティ: 質問者は言います。私たち自身を知ることの理由はわかります。私たちはこれの仕方を見出したくてたまらないのですが、しかしこの絶望から方式を、何かの方法を見出すことを望んでしまうのです。なぜなら、私たち自身をどうすればいいかわからないからです。そこで私たちは誰かが「これこれのことをしなさい、すると自分自身がわかるでしょう」と教えてくれるように望むのです。

では皆さん、どうかよく聞いてください。ここに私がいます: 私は社会の、私がその中に生きている文化の、宗教、実業社界、経済世界、風土、食物の結果です-私はそのすべての、無数の過去の、そして現在の結果です。私は私自身を知りたいのです。すなわち、私自身を学びたいのです。「学ぶ」という言葉はどういう意味でしょうか? このことの中の困難を見てください。私はドイツ語を知りません。それは私が単語の意味を学び、動詞をおぼえ、構文を学ばなければならないということです。すなわち、単語の知識その他すべてを蓄積しなければならず、それからドイツ語を話せるかもしれません。言葉で、あるいは何かほかのやり方で、私は蓄積しそれから行動します。そこでは学ぶことは蓄積を意味しました。さて、私が私自身を学ぶのであれば何が起こるでしょうか? 私自身について何かを見、「そのことを学んだ」と私は言います。「それがそうである」のを私は見ました。私はそれについて学びました。それは知識という残留物を残しました。そしてその知識でもって私は次の出来事を調べます。そしてそれはまたさらに蓄積を加えます。それゆえ、私自身を観察し、私自身を学べば学ぶほど、ますます私は私自身についての知識を蓄積しています。いいですか?

質問者: 私は変化しています。

クリシュナムルティ: 私は知識を蓄積しており、その過程の中で私は変化しています。しかし観察することによって私は知識と経験を蓄積しています。さて何が起こるでしょうか? その知識で私は私自身を見ます。それゆえ知識は新鮮な観察を妨げています。あなたにこのことが見えるかどうか、私にはわかりませんが? たとえばあなたが私を傷つけるために何かを言ったとします。そのことは私の知識であり、あなたを見る次のとき、傷つけられたという知識があなたに会いに現れます。過去のものが現在に会いに来るのです。それゆえ知識は過去のものであり、過去の目でもって私は現在を見ているのです-おわかりですか? さて、私自身を学ぶためには、私自身を見るためには、過去の知識からの自由がなければなりません。すなわち、私自身を学ぶことは常に新鮮でなければなりません。その難しさがわかりますか?

質問者: 変化しない生の中の一定のものもあるでしょうね。

クリシュナムルティ: 後ほど変化の問題に至るでしょう。私は見守っています。私は私自身を学びたいのです。「私自身」は運動です。「私自身」は静的ではありません。それは生きており、活動的で、さまざまな方向に動いています。それゆえ、過去のものである心と脳で私が学ぶなら、それは私が私自身を学ぶことを妨げます。一度そのことを見るなら、そのとき次の質問はこうです: どうやって心は、それ自身を学ぶように、それは常に新らしいのですが、過去のものからそれ自身を解放すればいいでしょうか? その美、その興奮を見てください! 

私は私自身を学びたい、そして「私自身」は死んだ何かではなく生きているものです。私はある日このように考え、次の日ほかの何かを望みます。これは生きている一定のもの、動いているものです。そして観察するためには、それを学ぶためには、心は自由でなければなりません。したがって心が過去のものを背負っているなら、それは観察できません。そこで心はどうすればいいでしょうか?

質問者: それは健忘症ではなくて、過去のものの影響から自由であるという問題です。

クリシュナムルティ: ええ、あなた、それが私たちの言っていることです。さて、私はどうしますか? 私は次のことが起こるのを見ます: あの赤い色を見て、「私はそれが好きでない」と言います。すなわち過去のものが反応します。過去のものが直ちに活動し、それゆえ学ぶことを止めます。そこで人はどうすればいいでしょうか?

質問者: どうやって考えるか忘れなければなりません-思考を持つのではなく。

クリシュナムルティ: あなたは私が言っていることについてきていません。「思考を持つのではなく」と言うとき、あなたは結論に達しました。あなたは本当に学んではいません。

質問者: 自分自身を空(から)にしなければなりません。

クリシュナムルティ: それももう一つの結論です。どうやって自分自身を空にしますか? 心を空にしようとしている実体は誰でしょうか?

質問者: それもまた空にしなければなりません。あらゆるものを空にしなければなりません。

クリシュナムルティ: 誰がそれを空にしようとしているのですか? あのね、あなた、あなたは言われていることを聞いていませんね-そう言うことを許してもらえるならば。私は私自身を学びたいと言いました。過去のものが干渉するなら私自身を学べません。学ぶことは学ぶという言葉の能動態現在形を意味します。「学んでいる」は現在での能動態を意味します。そしてそれは心が、脳が、過去のものすべてを背負っているときはできません。さて、私にどうしたらいいか教えてください。

質問者: 私はよく注意していなければなりません。

クリシュナムルティ: おわかりですね! どうやって私はよく注意していればいいでしょうか?

質問者: 私は現在の中に生きなければなりません。

クリシュナムルティ: 私の過去が私に重荷を負わしているときに、どうやって現在の中に生きればいいでしょう?

質問者: 起こっている過程に気づいていることによって。

クリシュナムルティ: それはどういうことでしょうか? 過去のものが干渉しており、それゆえ脳が学ぶのを妨げているのに気づいているということ? ゆっくり行きましょう、あなた。あなたは私たちが話しているときに、この運動に気づいていますか? そのとき、私たちが話しているときにそれに気づいているなら何が起こりますか? 推測しないでください! 「あるべきである」、「あるべきでない」と言わないでください、それは意味がありません。この運動にあなたが気づいているとき、実際に何が起こっていますか? この運動とは過去のものが現在に干渉し、それゆえその言葉を使っている意味で学ぶことを妨げていることですが。進行しているこの全体の過程に気づいているとき、そのとき何が起こりますか?

質問者: 過去のものの影響としての自分自身が見えます。

クリシュナムルティ: 私たちはそのことが事実であるのを見ます。私たちは結果が何であるかを尋ねました。あなたが過去の影響であること、そしてそれは現在の中で学ぶことを妨げていることにあなたが気づいているとき、何が起こりますか? 推測しないでください。この過程に気づいているときに、あなたの中に何が起こりますか、? 

質問者(1): 運動は停止します。
質問者(2): もはや思考はありません。
質問者(3): 恐怖があります。

クリシュナムルティ: 一人はもはや思考がないと言います。別の人は静寂があると言います。けれども、もう一人は恐怖があると言います。

質問者: 現在以外何もないように見えます。

クリシュナムルティ: さて、これらの陳述のどれがほんとうでしょうか?

質問者: 私たちは混乱しています。

クリシュナムルティ: そうです、私たちは混乱しています。

質問者(1): 気づいています。
質問者(2): 学んでいます。
質問者(3): 直接の行為によって破壊されなければならない矛盾があると感じます。

クリシュナムルティ: 注目してください 皆さん、お願いです、どんな結論にも至らないでください。なぜなら結論は学ぶことを妨げるでしょうから。そして「直接の行為が起こらなければならない」と言うならそれは結論です。私たちは学んでいます。私は私が過去の影響であることを見ます。過去は昨日であるかもしれないし、知識として印を残した最後の瞬間かもしれません。その知識、それは過去のものですが、現在の中で学ぶことを妨げています。それははずみです。それはいつも起きています。さて私がこの運動に気づいているとき、何が起こりますか? 私はあなたの結論を望みません。私があなたの結論を受け入れるなら、あなたは新しい哲学者であるでしょう! 私はどんな新しい哲学者も望みません! 私は学びたいのです。したがって、私が見なければならないことは、この運動に脳が気づいているとき、実際に起こっていることです。脳はこの運動に気づいていることができるでしょうか、それとも脳は新しいものに気づいて脅えるでしょうか?

質問者: 運動は止まるでしょう。

クリシュナムルティ:それから何が? 私は学んだでしょうか? 学びがあるでしょうか?

質問者: 私が十分静かであるなら、私が知覚するもの、そして私自身から出てくるものを見ることができると思います。

クリシュナムルティ: ええ、あなた。どうかこの事をよく観察してください。私はこの運動を学びたいのです。学ぶためには好奇心を持たなければなりません。私が単に結論に達するなら好奇心は止まります。それで学ぶために好奇心がなければなりません。情熱がなければなりません。そしてエネルギーがなければなりません。これがなければ私は学ぶことはできません。恐怖があるなら私は情熱を持てません。そこで私はそのことをほっといて尋ねなければなりません。なぜ私は新しいかもしれないものを学ぶのを脅えるのでしょうか? 私は恐怖を調査しなければなりません。私は過去のもののはずみを離れて、いまや、恐怖を学ぼうとしています。このすべてについてきていますか? さて、なぜ私は脅えるのでしょうか?

質問者: 私たちは自分のイメージを失うことを恐れます。

クリシュナムルティ: 私は私自身について私が築いたイメージを失うことを恐れます-私自身は知識で満ちています、私自身は死んだ実体です。いいえ あなた。私に説明しないでください。私は自分が脅えていることを実感します-なぜ? それは私が死んでいるということを見るからでしょうか? 私は過去の中に生きており、観察し現在の中で生きるとはどういうことか知りません。したがってこれはまったく新しいことであり、私は新しいどんなことをするのも脅えます。そのことは何を意味するのでしょう? 私の脳と心は古いパターン、古い方法、古い考え方、生き方、働き方にしたがったということ。しかし学ぶためには、心は過去から自由でなければなりません-私たちはそのことを真実として確立しました。さて、何が起こったか見てください。過去のものが干渉するなら学びはないという事実を真実として私は確立しました。そしてまた私は脅えていることを実感します。それゆえ、学ぶためには心は過去のものから自由でなければならないということと、同時に そうすることを脅えるということの実感の間に矛盾があります。この中に二重性があります。私は見る。そして私は見ることを恐れる。

質問者: 私たちは新しいものを見るのをいつも恐れるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 恐れませんか? 私たちは変化を恐れませんか?

質問者: 新しいものは未知のものです。私たちは未知のものを恐れます。

クリシュナムルティ: そこで私たちは古いものにしがみつきます。このことは必然的に恐怖を引き起こすでしょう。なぜなら生は変化しているからです。社会的大変動があります。騒動があります。戦争があります。それゆえ恐怖があります。さて、どうやって私は恐怖を学んだらいいでしょうか? 私たちは先ほどの運動から移りました。今私たちは恐怖の運動を学びたいのです。
 恐怖の運動はどんなでしょうか? あなたはあなたが恐れていることに気づいていますか? あなたが恐怖を持っていていることに気づいていますか?

質問者: いつもではありません。

クリシュナムルティ: あなた、あなたはいま知っていますか。あなたはいま自分の恐怖に気づいていますか? 恐怖を蘇らせ、取り出し、「私は人々が私について何を言うか恐れている」と言うことができます。このように、あなたは死を、お金を失うことを、妻を失うことを恐れていることに気づいていますか? それらの恐怖に気づいていますか? また肉体的恐怖にも-明日苦痛があるかもしれないなどなど。あなたが気づいているなら、その中での運動は何ですか? 恐れていることに気づいているとき何が起こりますか?

質問者: それを免れようとします。

クリシュナムルティ: それを免れようとするとき何が起こりますか?

質問者: それを押さえつけます。

クリシュナムルティ: あなたはそれを押さえつけるか、それから逃げるかどちらかです。恐怖とそれを免れようとすることとの間に葛藤があります-ありませんか? そこで抑圧か逃避のどちらかがあります。そしてそれを免れようとすることの中に葛藤があり、それはただ恐怖を増すだけです。

質問者: 質問していいですか? 「私」とは脳それ自身ではないでしょうか? 脳は新しい経験を常に求めることに疲れて息抜きを望みます。

クリシュナムルティ: 脳それ自身が自由になることを恐れており、恐怖の原因であるとあなたは言っているのですか? ねえ、あなた。私は恐怖を学びたいのです。それは私は好奇心を持っていなければならない、私は情熱的でなければならないということです。まず第一に私は好奇心を持っていなければなりません。そして、結論を下すなら、好奇心を持っていることはできません。それゆえ、恐怖を学ぶためには、私はそれから逃げることによって気を逸らしてはなりません。抑圧の動きがあってはなりません。それもまた恐怖から気を逸らすことを意味します。
「私は恐怖を免れなければならない」という感情があってはなりません。これらの感情を持つなら、私は学ぶことができません。さて、恐怖があるのを見るとき、私はこれらの感情を持つでしょうか? 私はこれらの感情を持つべきでないと言っているのではありません-それらはそこにあります。それらに気づくなら私はどうするでしょうか? 私の恐怖はそれから逃げたいほどとても強いのです。そして恐怖から離れる動きそのものが一層の恐怖を育てます-これらすべてについてきていますか? 私は恐怖から離れることが恐怖を増すという真理と事実を見ているでしょうか? したがって、それから離れる動きはありません-いいでしょうか?

質問者: これはわかりません。なぜなら、恐怖がありそれから離れるなら、私はその恐怖を終わらせてくれる何かに向かって、それを通して私がわかる何かに向かって動いていると感じるからです。

クリシュナムルティ: あなたは何を恐れていますか?

質問者: お金。

クリシュナムルティ: あなたはお金ではなく、お金を失うことを恐れています。多ければ多いほど陽気になります! しかしそれを失うことを恐れます-いいですか? だからどうしますか? あなたのお金がちゃんとしたところにあることをよく確かめますが、しかし恐怖は続きます。この変化している世界では安全でないかもしれません。銀行が破産するかもしれないなど。あなたが多くのお金を持っていてさえ、この恐怖が常にあります。その恐怖から逃げることはそれを解決しません。
「そのことについて考えまい」と言って、それを抑圧することも。というのは次の瞬間あなたはそれについて考えているからです。それゆえ、それから逃げること、それを避けること、それについて何かをすることは恐怖を継続させます。そのことは事実です。さて私たちは二つの事実を確立しました。学ぶためには好奇心がなければならず、そして過去の圧力があってはならないということ、そして恐怖を学ぶためには恐怖から逃げることがあってはならないのです。そのことは事実です。そのことは真理です。したがって、逃げません。さて、私がそれから逃げないとき何が起こるでしょうか?

質問者: それと同一化しているのをやめます。

クリシュナムルティ: それは学ぶということでしょうか? あなたはやめてしまったのです。

質問者: あなたが言っていることがわかりません。

クリシュナムルティ: やめることは学ぶことではありません。恐怖を持ちたくないという欲望のため、あなたはそれから逃げたいのです。その微妙さをただ見てください。私は恐れています。そしてそれを学びたいのです。私は何が起きようとしているのか知りません。私は恐怖の動きを学びたいのです。そこで何が起こりますか? 私は逃げていません。抑圧していません。それを避けていません。私はそれを学びたいのです。

質問者: 私はどうやってそれを免れるかを考えます。

クリシュナムルティ: あなたがそれを免れたいのであるなら-私がちょうど今説明したように-それから免れようとしている人は誰でしょうか? あなたはそれを免れようと望みます。そのことはあなたが恐怖に抵抗していることを意味し-したがって恐怖は増加します。あなたがその事実を見ないなら、気の毒ですが手伝うことはできません。

質問者: 私たちは恐怖を受け入れなければなりません。

クリシュナムルティ: 私は恐怖を受け入れません-恐怖を受け入れている実体は誰でしょうか? 

質問者: 逃げることができないなら、受け入れなければなりません。

クリシュナムルティ: それから逃げること、それを避けること、小説を手にとって他の人たちがしていることを読むこと、テレビを見ること、寺院や教会に行くこと-それはすべてなお恐怖を避けているのです。そしてそれを避けることは何でも恐怖を増し、強くするだけです。そのことは事実です。その事実を確立した後では私は逃げようとしません、押さえようとしません。私は逃げていないで学んでいます。したがって、恐怖の気づきがあるとき何が起こるでしょうか?

質問者: 恐怖の過程の理解。

クリシュナムルティ: 私たちはそれをしています。私は過程を理解しています。私はそれを見守っています。それを学んでいます。私は恐れていますがそれから逃げていません。では何が起こりますか?

質問者: 恐怖に直面しています。

クリシュナムルティ: そのとき何が起こりますか?

質問者: どの方向にも動きがありません。

クリシュナムルティ: あなたはこの質問を尋ねないでしょうか? どうか二分間私の言うことをただ聞いてください。私は逃げていません。私は押さえていません。私は避けていません。私はそれに抵抗していません。そこにそれはあります。私はそれを見守っています。そのことから起こる自然の質問はこうです。誰がこの恐怖を見守っているのでしょうか? どうか推測しないでください。「私は恐怖を見守っている、私は恐怖を学んでいる」と言うとき、それを見守っている実体は誰でしょうか?

質問者: 恐怖それ自身。

クリシュナムルティ: 恐怖それ自身が、それ自身を見守っているのですか? どうか推測しないでください。何の結論にも達しないでください、見出してください。心は恐怖から逃げていません。勇気その他もろもろで恐怖に対して壁を築くことをしていません。私が見守っているとき何が起こりますか? 私は自然に私自身に尋ねます。誰が恐怖と呼ばれるものを見守っているのでしょうか? どうか私に答えないでください。私が疑問を提起したのです、あなたではなく。あなた、誰がこの恐怖を見守っているのか見出してください。私のもう一つの断片?

質問者: 見守っている実体は過去の結果ではあり得ません。それは新鮮であるに違いありません-この瞬間に起きる何か。

クリシュナムルティ: 私はその見守っていることが過去の結果であるかどうかについて話しているのではありません。私は見守っています。私は恐怖に気づいています。お金を失うこと、病気になること、妻が私から去ることを恐れているのに気づいています。ほかのことは誰にもわかりません。そして私はそれを学びたいのです。したがって私は見守っており、そこで私の自然な質問です。誰がこの恐怖を見守っているのでしょうか?

質問者: 私自身についての私のイメージ。

クリシュナムルティ: 「誰が見守っているのか」という質問を私が尋ねるとき、何が起こっていますか?-その質問そのものの中に分離があるのではないでしょうか? そのことは事実です。「誰が見守っているのか」と私が言うとき、それはそのことがそこにあり、私が見守っているということです。したがって分離があります。ではなぜ分離があるのでしょうか? このことを私に答えてください。推測しないこと。私自身を含めてほかの誰かが言ったことを繰り返さないこと。見出してください、「誰が見守っているか?」という質問をする瞬間になぜこの分離が存在するのかを。見出してください。

質問者: 私による見守ろうとする欲望があるからです。

クリシュナムルティ: それは欲望が「逃げるために見守れ」と言っているということです-わかりますね? 前に「私は逃げてはならないことを理解した」と言いました。そして今、欲望が巧妙に逃げさせようとしていることを見出します。したがってなお局外者として恐怖を見守っているのです。この事の重要さを見てください。恐怖を免れようという意図を持って見守っているのです。そして私たちは少し前、恐怖を免れようとすることは恐怖を検閲する最初を意味すると言いました。それゆえ、この見守っていることは恐怖を免れようとしていることを意味します。したがって分離があり、それは恐怖を増すだけです。そこで私は再び質問しています。誰が恐怖を見守っているのでしょうか?

質問者: もう一つの点もまたないでしょうか。「誰が恐怖を見守っているか」という質問を、誰がしているのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私がその質問を尋ねています。あなた。

質問者: しかし誰が質問をしているのでしょう?

クリシュナムルティ: 同じ事です。あなたはそれをさらに押し戻しているだけです。さてどうか聞いてください。このことはそれに取り掛かるもっとも実際的なやり方です。あなたがこのことを非常に注意深く追うなら、心は恐怖から解放されるということが見えるでしょう。しかしあなたはそれをしていません。

私はお金を失うことを恐れています。それで私は何をするでしょうか? 私はそれについて考えるのを避けることによって逃げます。そこでそれを避けることがいかに愚かであるかを実感します。なぜなら抵抗すればするほど、ますます私は恐れるからです。私はそれを見守っており、疑問が生じます。 誰がそれを見守っているのでしょうか? 見守っているのは、恐怖を免れよう、超えよう、解放されようと望んでおり、見守っている欲望でしょうか? そうです。そしてそのようにそれを見守ることは、ただ分離し、それゆえ恐怖を強めることだけであるのを私は知ります。それで私はそのことの真実を見、したがってそれを免れたいという欲望は消えました-私についてきていますか?

それは毒蛇を見るようなものです。それに触れたいという欲望は終わります。麻薬を摂取したいという欲望は私がそれらの本当の危険を見るとき終わります。私はそれに触れません。その危険を見ない限り、私は続けるでしょう。同様に、恐怖から逃げることが恐怖を強めるということを見ない限り、私は逃げ続けるでしょう。それを見るや否や、私は逃げません。そのとき何が起こりますか?

質問者: かかわることを恐れている人がどうして見ることができるでしょうか? ひとは怖がります。

クリシュナムルティ: 私はそれをあなたに指摘しているのです。恐怖を見ることを怖がるやいなや、あなたはそれについて学ばないでしょう。あなたがそれについて学びたいなら、怖がらないでください。それはあれと同じように簡単なことです。私がどうやって泳ぐか知らないなら川に飛び込まないでしょう。見ることを私が恐れるなら、とても恐怖は終わらないことがわかるとき、そして本当に見ることを私が望むなら-「私は気にしない、見よう」と言うでしょう。

質問者: 絶えず一層の恐怖を引き起こすのは、恐怖から逃げようとする欲望であるということが述べられました。私が恐れるとき、私はそれから逃げようと思います。それゆえ私が常にしていることは恐怖を身内にし、それと同一化できるようにすること、私自身を一体化できるようにすることなのです。

クリシュナムルティ: それが見えていますね! 私たちが自分自身にしかけているのはすべてこれらのトリックです。よく聞いてください、あなた。誰がこのすべてを言っているのでしょうか? あなたは自分自身を恐怖と同一化させる努力をしているのです。

質問者: 私がその恐怖です。

クリシュナムルティ: おヽ! 待ってください。あなたがその恐怖であるなら、あなたが言うようにそうであるなら、そのとき何が起こりますか?

質問者: それに慣れるとき、それは小さくなり始めます。

クリシュナムルティ: いいえ、慣れないでください! あなたが、自分は恐怖であると言うとき、恐怖はあなたから分離した何かではありません。何が起こりますか? 私は褐色です。私は褐色であることを恐れますが、しかし「そう、私は褐色だ」と言います。そしてそのことがそれの終わりではないでしょうか? 私はそれから逃げていません。そのとき何が起こりますか?

質問者: 受容。

クリシュナムルティ: 私はそれを受容するでしょうか? そうではなく、私は褐色であるのを忘れています。あなたはこのすべてをまったくわかっていません。あなたはただ推測しています。私は私自身を学びたいのです。私は私自身を完全に、情熱的に知らなければなりません。なぜなら、そのことがすべての行為の基礎であるからです。そのことなしには私はまったく混乱した生を送るでしょう。私自身を学ぶためには私は誰にも従うことができません。誰かに従うなら私は学んでいません。学ぶことは過去のものが干渉しないことを意味します。なぜなら、「私自身」は途方もなく生き生きとした、動いている、活発なものだからです。それゆえ、私は新しい心で新鮮にそれを見なければなりません。過去のものが常に作用しているなら新しい心はありません。そのことは事実です。私はそのことを見ます。そのとき、そのことを見る中で、私は私が恐れていることを実感します。私は何が起こるのか知りません。そこで私は恐怖を学びたいのです-わかりますか?
私は常に学ぶ運動の中で動いています。私は私自身を知りたい、そして私はあること-深遠な真理を実感します。私は恐怖を学ぼうとしています。そのことは私はどうあってもそれから逃げてはならないということを意味します。それから逃げようという微妙な形の欲望を持ってはなりません。そこで、分離なしに恐怖を見ることができる心に何が起こるでしょうか? 恐怖を免れようとすること、逃避の微妙な形、抑制などである分離。心が恐怖に直面しており、それから逃げるという問題がないとき、心に何が起こりますか? どうか見出してください、それに心を注いでください。

1970年8月2日

(訳者: N.Goto)'98.05.-'98.06.掲載 2003.04.修正

ザーネンの公開講話・対話

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