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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開対話(第2回)

Saanen 2nd Public Dialogue 3rd August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

Part2 Dialogue 2

簡単な要約 恐怖は円熟した成長を妨げる
私たちは恐怖の影響を見るでしょうか、それともそれらについて知るだけでしょうか?
記憶としての恐怖と、恐怖との現実の接触の間の相違

人間の持つ空虚と無意味さの恐怖によって引き起こされた依存と愛着
孤独と浅薄さをあらわにすること 逃避の無益さ  「空虚さに気づいているのは誰か?」

クリシュナムルティ: 昨日私達は恐怖と自分自身を知る必要性を話していました。自分自身の性質と構造を理解することが大変重要であることを人が見ているかどうか私はわかりません。私たちが言ったように、理解、知的あるいは言葉の上ではなくて、自分が何であるかの実際の理解、そしてその自分の状態を超える可能性がないなら、私達は、大量の災厄と悲しみにつながる活動と共に、私達自身の中に混乱と矛盾を不可避的に引き起こすに違いありません。それゆえ、自分自身の表面的な層のみならず、全存在、隠れた部分の全てを人が理解するということが絶対に欠かせません。そして相互に伝達する中で、この問題全体を一緒に理解する中で、自己を知ることを通して心がそれ自身の条件付け、それ自身の習慣、それ自身の先入観などを超えることができるかどうかを、理論的でなく、実際に、私たちが見ることができることを期待します。

私たちはまた、自分自身を学ぶことについて話していました。学ぶことは非蓄積的な運動を意味します。蓄積があるなら運動はないのです。流れている川が湖に終わるなら運動はありません。運動があるのは絶え間ない流れ、強い流れがある時のみです。そして学ぶことは、外部のものと科学的事実だけでなく、また自分自身を学ぶことも意味します。なぜなら「自分自身」は絶えず変化している、動的な、移り気な存在であるからです。それを学ぶのに、過去の経験は少しも役に立ちません。それどころか、過去は学ぶことを、したがってあらゆる完全な行為を終わらせます。私たちはこのことを非常に明確に見たと思います。すなわち、私たちは生の絶えず生きている運動、「私」である運動を取り扱っているのです。大変微妙であるその「私」を理解するためには、強烈な好奇心、粘り強い気づき、非蓄積的な理解の感覚があることが必要です。この学ぶことの問題全体について、私たちが相互に伝達し得ることを望みます。

それは私たちが苦労しそうなところです。なぜなら、私たちの心は、固定した結論や先入観から、あるいは知識から、溝の中で、型の中で機能することを好むからです。心は特定の信念に束縛されており、そこからこの途方もない「私」の運動を理解しようとします。したがって、「私」と観察者との間に矛盾があります。

私たちはまた恐怖についても話していました。恐怖は「私」のこの全体の運動の一部です。ひとつの運動としての生をばらばらにする「私」、それ自身を「あなた」と「私」として分離する「私」。私たちは「恐怖とは何か?」と尋ねました。私たちは恐怖について非蓄積的に学ぼうとしています。「恐怖」という言葉そのものが、私たちが恐怖と呼ぶあの危険の感情に接触することを妨げます。ほら、皆さん、成熟は人間の全体的な、自然な発達を意味します。矛盾のない、調和のあるという意味での自然な-それは年齢と関係ありません。そして恐怖という要素は心のこの自然な、全体的な発達を妨げます。私はもう少し続け、それからこのすべてを討論しましょう。

人が肉体的なことのみでなく、また心理的要素をも恐れるとき、その恐怖の中に何が起こりますか? 私は恐れます。肉体的に病気になることだけでなく、死ぬことを、暗闇を-ひとが持つ無数の恐怖を、心理的なもののみならず生物学的なものもご存知ですね。その恐怖は心に、これらの恐怖をつくり出した心に何をしますか? 私の質問がおわかりですか? 直ちに私に答えないでください、あなた自身を見てください。心への、人の生全体への恐怖の影響は何でしょうか? それとも、私たちはそんなにも恐怖に慣れたので、恐怖に自分を慣らしてしまったので、恐怖は習慣になり、そのためその影響に気づかないということなのでしょうか? 私がインド人の国民感情に、教義に、信念に慣れてしまったなら、この条件付けに取り囲まれて、その影響が何であるかにまったく気づきません。私は私の中に起こされる感情、国家主義、を見るに過ぎず、そして私はそれに満足します。私は私自身と国、信念その他を同一視します。しかし、私たちはすべてにわたってそのような条件付けの影響を見ないのです。同様に、私たちは恐怖が何をするか見ないのです-心理的にだけでなく、心身相関的に。それは何をしますか? 皆さん、これは討論です。あなたもその中に参加しなければなりません!

質問者: この事が起こるのを止めようとすることに私は没頭します。

クリシュナムルティ: それは行為を止める、あるいは動けなくします。人はそのことに気づいているでしょうか? あなたは? 一般化しないで下さい。私たちはこれらすべての討論を、私たちの内部にいま実際に起こっていることを見るために行なっているのです。さもなければこれらの対話は意味がありません。恐怖が何をするかを話し合い、それを意識するようになることの中で、それを越えることができるかもしれません。それで、いやしくも私が真面目であるなら、恐怖の影響を見なければなりません。私はそれの影響を知っているでしょうか? それとも、それらをただ言葉の上で知っているだけなのでしょうか? 私はそれらを過去において起きた何かとして知っているのでしょうか? 何かは記憶を残し、その記憶が「これらはその影響である」と言います。それゆえ、その記憶は恐怖の影響を見ますが、心は現実の影響を見ません。あなたがこの事を見るかどうか私にはわかりません? 私は本当に極めて重要なことを言ったのです。

質問者: それをもう一度言っていただけませんか?

クリシュナムルティ: 恐怖の影響を私は知っていると言うとき、それはどういうことでしょうか? 私はそれを言葉の上で、すなわち知的に知っているか、それを記憶として、過去に起きた何かとして知っているかです。そして「これは起こった」と言います。それゆえ、過去が私に影響が何であるか教えているのです。しかし私はその影響を実際の瞬間に見ていません。したがって、それは思い出される何かであり、実際のものではありません。ところが「知ること」は非蓄積的な見ること-認識ではなくて-事実を見ることを意味します。私はこのことを伝えたでしょうか?

私が「空腹だ」と言うとき、私に教えているのは昨日空腹だったことの思い出でしょうか、それとも、それは、いま、空腹という実際の事実でしょうか? 私がいま空腹であることの実際の気づきは、空腹であったので それゆえ いま空腹かもしれないと私に教える記憶の反応とはまったく異なります。過去があなたに恐怖の影響を教えているのでしょうか、それとも恐怖の影響が実際に起きていることにあなたが気づいているのでしょうか? 二つの行為はまったく違います-違いませんか? 一つは、恐怖の影響にいま完全に気づいているので、即座に行動します。しかし記憶がこれらがその影響であると教えているなら、そのとき行動は異なります。私は私の言っていることを明確にしたでしょうか? さて、どちらでしょうか? 

質問者: ある特定の恐怖と、そのような恐怖の影響に実際に気づいていることを区別することができるでしょうか-恐怖の影響を覚えていることは別にして?

クリシュナムルティ: それが私が説明しようとしていたことです。二つの行為はまったく異なっています。そのことが見えますか? どうか、それが見えていないなら「はい」と言わないでください、お互いにゲームをしないようにしましょう。このことを理解することがとても重要です。過去があなたに恐怖の影響を教えているのでしょうか、それとも、恐怖の影響の直接の知覚、気づきが いま あるのでしょうか? 過去があなたに恐怖の影響を教えているのであるなら、行為は不完全であり、それゆえ矛盾しています。それは葛藤をもたらします。しかし、人が いま 恐怖の影響に完全に気づいているなら、行為は全体的です。

質問者: いまテントに座っているとき、私は恐怖がありません。なぜならあなたが話していることを傾聴しているからです。それゆえ私は恐れていません。しかし、テントを去るとき、この恐怖はやってくるかもしれません。

クリシュナムルティ: しかし、このテントの中のここに座っていて、恐怖を見ることができませんか? 恐怖を昨日持ったかもしれません。それを引き出すことが、それを招くことができませんか? 

質問者: それは生の恐怖かもしれません。

クリシュナムルティ: 恐怖が何であれ、あなたは「いま恐怖はありませんが、外に出るとき恐怖を持つでしょう。」と言う必要があるのです。恐怖はそこにあります!

質問者: それを引き出すことができます-おっしゃるように-それを思い出すことができます。しかし、このことが恐怖についての記憶、思考を持ち込むことについてあなたが作った要点です。

クリシュナムルティ: 私は尋ねています。テントを去るまで、私の恐怖が何であるか見出すことを待つ必要があるでしょうか? それとも、ここに座っていて、それらに気づいていることが出来るでしょうか? 私はこの瞬間、誰かが私に言うかもしれないことを恐れていません。しかしこれらのことを言おうとしている人に出会うとき、それは私をおびえさせるでしょう。私はその実際の事実をいま見ることができないでしょうか?

質問者: それをするなら、すでにそれの練習をしています。

クリシュナムルティ: いいえ、それは練習ではありません。ほら、あなたは練習になるかもしれない何かをするのをそんなに恐れています! あなた、仕事を失うことを恐れていませんか? 死を恐れていませんか? 達成できないことを恐れていませんか? 孤独であることを恐れていませんか? 愛されないことを恐れていませんか? 何かの形の恐怖を持っていませんか?

質問者: 挑戦がある場合だけ。

クリシュナムルティ: しかし私があなたに挑戦しています! 私はこの考え方を理解できません!

質問者: 衝撃があるなら行動します。何かしなければなりません。

クリシュナムルティ: いいえ! あなたはそれをとても複雑にしています。それはあの列車がゴーっと通り過ぎるのを聞くのと同じように自然です。あの列車の音を思い出すことができるか、あの音を実際に聞くことができるかどちらかです。どうか、それを複雑にしないでください。

質問者: 恐怖を呼び起こすことについて話すことによって、それを複雑にしていませんか? 私は何も私の恐怖を呼び出すには及びません-ただここにいながら、私の反応を見渡すことができます。

クリシュナムルティ: それが私の言っているすべてです。

質問者: ここで通じ合うために、私たちは脳と心の間の相違を知らなければなりません。

クリシュナムルティ: 私たちはそれを以前に議論しました。私たちはいま恐怖が何か見出そう、それを学ぼうとしているのです。心は恐怖について自由に学べるでしょうか? 恐怖の動きを見守っていることである学び。あなたはただ恐怖の動きを見守ることができるだけです、過ぎ去った恐怖を思い出し、それらの記憶を見守っているのではないときに。違いがわかりますか? 私は動きを見守ることができます。恐怖があるとき、あなたは実際に起こっていることを学んでいますか? 私たちはいつも恐怖で沸騰しています。私たちはそれを免れることが出来るようには思えません。過去において恐怖を持ったとき、そしてそれに気づいていたとき、それらの恐怖はあなたとあなたの周囲にどんな影響を持ちましたか? 何が起こりましたか? あなたは他のひとから切り離されなかったでしょうか? それらの恐怖の影響はあなたを分離していなかったでしょうか?

質問者: それは私を動けなくしました。

クリシュナムルティ: それはあなたを絶望的に感じさせました。あなたはどうすればいいかわかりませんでした。さて、この分離があったとき、行為に何が起こりましたか?

質問者: それは断片的でした。

クリシュナムルティ: どうかこれを注意深く聞いてください。私は過去に恐怖を持ちました。それらの恐怖の影響は私を分離し、動けなくし、絶望的にさせることでした。逃げ去りたい気持ち、何かに慰安を求める気持ちがありました。そのすべてを私たちはさしあたり、すべての関係から自分自身を分離することと呼びましょう。行為の中でのその分離の影響は断片化を引き起こすことです。この事があなたに起きませんでしたか? あなたが脅えたとき、どうすればいいかわかりませんでした。それから逃げ去りました。あるいはそれを抑えようしました。あるいは理屈を考えて追い払おうとしました。そして行動しなければならないとき、あなたは恐怖から行動していました。恐怖は本質的に分離することです。それゆえその恐怖から出た行動は断片的であるに違いありません。矛盾である断片化。大量の苦闘、苦痛、苦悩がありました-そうでない?

質問者: あなた、足の不自由な人が松葉杖で歩くように、そのように、恐怖で動けなくされ、麻痺した人は種々の松葉杖を使います。

クリシュナムルティ: それが私たちが言っていることです。その通りです。さて、あなたは過去の恐怖の影響についてとても明確です。それは断片的な行動を引き起こします。それと、記憶の反応のない恐怖の行動との間の差は何でしょうか? 肉体的危険に出会うとき、何が起こりますか?

質問者: 自然発生的な行動。

クリシュナムルティ: それは自然発生的な反応と呼ばれます-それは自然発生的でしょうか? どうかよく調べてください。私たちは何かを見出そうとしています。あなたは未開の地方で、一人ぼっちで森の中にいます。そして突然小熊をつれた熊に出会います-そのとき何が起こりますか? 熊が危険な動物であるとわかっていて、あなたに何が起こりますか?

質問者: アドレナリンが増えます。

クリシュナムルティ: ええ、では、起こる行動は何でしょう?

質問者: 熊に自分の恐怖を伝染させる危険を見ます。

クリシュナムルティ: いいえ、あなたに何が起こりますか? もちろん、恐れていればそれを熊に伝染させ、熊は脅えてあなたを襲います。このことはすべて非常に単純です。あなたは全体の要点を逃しています。今までに森の中で熊と出会ったことはありませんか?

質問者: 出会った方がここにいます。

クリシュナムルティ: 私は出会いました。あの紳士と私は数年の間に、これらの経験を数多くしました。しかし何が起こりますか? あなたから数フィート離れたところに熊がいます。あらゆる肉体的反応、アドレナリンの流れなどがあります。あなたは直ちに立ち止まり、向きを変えて走ります。そこに何が起こったのでしょうか? 反応は何だったのでしょうか? 条件づけられた反応、そうではなかったでしょうか? 人々は何世代も「野獣に気をつけろ」と教えてきました。脅えるならあなたはその恐怖を動物に伝染させ、そこで動物はあなたを襲うでしょう。全体のことが一瞬に通過します。それは恐怖の機能でしょうか-それともそれは英知でしょうか? 何が働いているのでしょうか? それは「野獣に気をつけろ」の繰り返しによって引き起こされた恐怖でしょうか? 「野獣に気をつけろ」は子供の頃からのあなたの条件付けであったのです。それともそれは英知でしょうか? その動物に対する条件づけられた反応とその条件づけられた反応からの行動は一つのものです。英知の働きと英知からの行動は違います。二つはまったく異なります。あなたはこの事に出会っていますか? バスが走り過ぎます、あなたはその前に身を投じません。あなたの英知が「そうするな」と言います。これは恐怖ではありません-あなたが神経症か薬物を飲んでいない限り。恐怖でなく、あなたの英知があなたを防ぎます。

質問者: あなた、野獣に出会うとき、英知と条件づけられた反応の両方を持つべきではないのでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえあなた。それを見てください。それが条件づけられた反応である瞬間、それに含まれている恐怖があり、それは動物に伝わります。しかし、それが英知なら、そうでありません。それゆえ、どちらが作用しているか自分で見出して下さい。それが恐怖であるなら、そのとき行動は不完全で、それゆえ動物からの危険があります。しかし英知から行動の中には恐怖はまったくありません。

質問者(1): 私がこの英知で熊を見守るなら、恐怖を経験することなく熊に殺されることができるとあなたは言っています。
質問者(2): もしも私が以前に熊に遭ったことがないなら、私はそれが熊であることさえわからないでしょう。

クリシュナムルティ: あなたがたはみんなとても複雑な状態を作っています。このことは非常に単純です。さて動物をそのままにしておきましょう。私達自身で始めましょう。私たちも部分的には動物なのです。

恐怖の影響と過去の記憶に基づいた恐怖の行動は破壊的で、矛盾していて、麻痺させます。その事が見えますか?-言葉の上でなく実際に。すなわち恐れるとき、あなたは完全に分離しており、その分離から起こるどんな行動も断片的であり、それゆえ矛盾しているに違いありません。したがって苦闘、苦痛その他もろもろがあります。さて、あらゆる記憶の反応なしに恐怖に気づいている行為は完全な行為です。それをやってみてください! それをしてください! 家に帰るとき一人で歩いていながら気づいてください。あなたの古い恐怖がやってくるでしょう。そのとき見守りましょう。それらの恐怖が実際の恐怖か、思考によって記憶として投影されているのかに気づきましょう。恐怖が起きるとき、あなたが思考の反応から見守っているのかどうか、あるいは単に見守っているだけなのかどうか見守りましょう。私たちがいま話しているものは行為です。なぜなら、生は行為であるからです。私たちは生の一部分だけが行為であると言っているのではありません。生の全体が行為です。そしてその行為がばらばらになっています。行為の分裂はその思考と分離を伴うこの記憶の過程なのです。そのことは明確でしょうか?

質問者: あなたが言っている考えは、記憶が入ってくることなしに、あらゆる瞬間を全体的に経験するということでしょうか?

クリシュナムルティ: あなた、あなたがそのように質問をするとき、あなたは記憶の問題を調査しなければなりません。記憶は持たなければなりません。明瞭で、明確であればあるほどよりいいのです。技術的に機能しなければならないなら、あるいは家に帰りたいのであってさえも記憶を持たなければなりません。しかし、記憶の反応としての思考、そしてその記憶から恐怖を投影することはまったく違う行為です。

さて、恐怖とは何でしょうか? 恐怖があるということはどうやって起こるのでしょうか? これらの恐怖はどうやって起こるのでしょうか? どうか私に話してくれませんか?

質問者: 私においてはそれは過去への愛着です。

クリシュナムルティ: その一つのことを取り上げましょう。その「愛着」という言葉はどういうことでしょうか?

質問者: 心は何かにしがみついています。

クリシュナムルティ: すなわち、心は何かの記憶にしがみついています。「私が若かったとき、すべてのことが何と素晴らしかったことか」。 あるいは、起こるかもしれない何かのことにしがみついています。それゆえ、私は、私を保護してくれる信念を身につけてしまったのです。私は記憶に愛着します。私は一つの家具に愛着します。私は私が書いているものに愛着します。なぜなら、書くことによって私は有名になろうと思うからです。私は名前に、家族に、家に、種々の記憶などなどに愛着します。私はそういったことすべてを自分自身と同一視しているのです。なぜこの愛着が生じるのでしょうか?

質問者: それは恐怖が私たちの文明の基盤そのものであるからではないでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ あなた。なぜあなたは愛着するのでしょう? 愛着という言葉は何を示すのでしょう? 私は何かに依存します。私は出席しているあなた方皆に依存します。それで私はあなたに話すことが出来るのです。私はあなたに依存しており、それゆえ私はあなたに愛着します。なぜなら、その愛着によって、私はあるエネルギー、ある活力、その他すべてのがらくたを得るからです! それで私は愛着します-それは何を意味するのでしょうか? 私はあなたに依存します。私は家具に依存します。家具に、信念に、本に、家族に、妻に愛着する中で、それが私に慰安を与えてくれるのを、名声、社会的地位を与えてくれるのを当てにします。それゆえ、依存は愛着の一つの形です。さて、私はなぜ依存するのでしょうか? 私に答えないでください。それをあなた自身の中に見てください。あなたは何かに依存しないでしょうか? あなたの国に、あなたの神々に、あなたの信念に、あなたが摂取する薬物に、酒に!

質問者: それは社会の条件付けの一部です。

クリシュナムルティ: あなたを依存させるのは社会の条件付けですか? それはあなたが社会の一部であるということです。社会はあなたと別個ではないのです。あなたが堕落した社会を作ったのです。あなたがそれを組み立てたのです。そのかごの中にあなたは捉えられているのです。あなたはその一部です。それゆえ、社会を責めないこと。依存の意味が見えますか? 何が含まれていますか? なぜあなたは依存しているのでしょうか?

質問者: 寂しく感じないように。

クリシュナムルティ: 待ってください。静かに聞いてください。私は何かに依存します。その何かが私の空虚を満たしてくれるからです。私は知識に、本に依存します。なぜなら、それが私の空虚、私の浅薄さ、私の愚かさを覆い隠すからです。そこで知識は途方もなく重要になります。私は絵画の美について語ります。なぜなら私自身の中でそれに私は依存しているからです。それゆえ、依存は私の空虚、私の寂しさ、私の不十分なことを示し、そのことは私をあなたに依存させます。それは事実ではないでしょうか? 理論を立てないでください。それで議論しないでください。それはそうなのです。もしも私が空虚でないなら、もしも私が不十分でないなら、あなたが何を言ったりしたりするか気にかけないでしょうに。何かに依存しないでしょうに。私は空虚であり、寂しいので、私の生をどうすればいいのかわからないのです。私は愚かな本を書き、それは私の虚栄心を満たします。それで私は依存します。それは私が孤独であることを恐れている、私の空虚を恐れているということです。したがって私はそれを物質的なものごとや観念や人で満たします。

あなたはあなたの孤独をあらわにすることを恐れませんか? あなたはあなたの孤独、不十分さ、空虚をあらわにしたことがありますか? それはいま起こっているのではないですか? したがって、あなたはその空虚をいま恐れます。何をあなたはしようとしていますか? 何が起こっていますか? 以前、あなたは人に、観念に、あらゆる種類のものごとに愛着しました。そして依存はあなたの空虚、浅薄さをおおうことを見ます。そのことを見るとき、あなたは自由です-そうでないですか? いま、反応はどんなですか? その恐怖は記憶の反応ですか? それともその恐怖は実際にあるものですか? それが見えますか?

私はあなたのために随分働いていますね?(笑い) 昨日の朝、漫画がありました。子供がもう一人の子供に言います。「大きくなったら僕は偉大な予言者になるんだ。深遠な真理を話すのだが誰も聞こうとしないんだ」。 もう一人の子供が言います。「ではなぜ話すの、誰も聞こうとしないなら?」「おう」、彼は言いました。「われわれ予言者はとても頑固なのさ」。(笑い)

そこでいまや、あなたは愛着、それは依存です、を通してあなたの恐怖をあらわにしてしまいました。それを調べるとき、あなたはあなたの空虚さ、浅薄さ、取るに足らなさを見、それに脅えます。そのとき何が起こりますか? それを見てください、皆さん?

質問者: 私は逃げようとします。

クリシュナムルティ: あなたは愛着を通して、依存を通して逃げようとします。したがってあなたは古いパターンにまた戻るのです。しかし、愛着と依存があなたの空虚さを蔽っているという真実を見るなら、あなたは逃げないのではないでしょうか? その事実を見ないなら、あなたはきっと逃げ出します。あなたはその空虚をほかの方法で満たそうとするでしょう。前はそれを薬物で満たしました。いまや、それをセックスやほかの何かで満たします。そこで、その事実を見るとき、何が起こりましたか? 進んでください、あなた、それを続けること! 私は家、妻、本、私の著作、有名になることに愛着してきました。私の空虚をどうすればいいかわからないため恐怖が起こり、したがって依存し、したがって愛着するのを私は見ます。私の中にこの大きな空虚の感情を感じるとき、私はどうしますか?

質問者: 強い感情があります。

クリシュナムルティ: それは恐怖です。私は私が恐れていることを発見します。したがって私は愛着します。その恐怖は記憶の反応でしょうか、それともその恐怖は実際の発見でしょうか? 発見は過去のものの反応とはまったく異なる何かです。さて、それはあなたの場合、どちらですか? それは実際の発見ですか? それとも過去のものの反応? 私に答えないでください。見出してください、あなた、あなた自身を徹底的に調べてください。

質問者: あなた、その空虚のなかに、確かに世界に向かって開らいている状態があるのでは?

クリシュナムルティ: いいえ、私はまったく違うことを尋ねています。空虚の、孤独の恐怖とその不十分さのすべて-あなたはそれを通り抜け、終らせるために、それを十分に理解することが出来ないできました-それでそれは恐怖をもたらしました。いまそれはあなたの発見ですか、ここテントの中での? それともそれは過去の認識ですか? 依存するので愛着するということ、そして空虚の恐怖のため依存するということを発見したのですか? あなたの空虚とこれが意味する過程に気づいていますか? その空虚さに気づくとき、それに含まれている恐怖がありますか、それともあなたは単に空虚であるに過ぎないでしょうか? 一人ぼっちであるという事実を単に見るに過ぎないでしょうか?

質問者: そのことを見ることができるなら、もはや孤独ではありません。

クリシュナムルティ: かまわなければ一歩一歩進みましょう。そのことが見えますか? それとも古い依存、古い愛着に、何度でも繰り返されている規則的な型に戻ろうとしているのでしょうか? 何が起ろうとしていますか?

質問者: あなた、これは人間の苦境のすべてではないでしょうか-これらの問題を何も持っていない小犬のように、私がうまくいっているとは思いません。

クリシュナムルティ: あいにく私たちは犬ではありません。私は、あなたが答えていないことを尋ねています。あなたの空虚、あなたの浅薄さ、あなたの孤立を見るとき起こる恐怖を、あなたはあなた自身で発見しましたか? あるいは、それを発見して、逃げよう、何かに愛着しよう、とし始めていますか? 依存と愛着を通じて逃げないなら、そのとき、この空虚があるとき何が起こりますか?

質問者: 自由。

クリシュナムルティ: それをよく見てください。それは非常に複雑な問題です。それは自由であると言わないでください。以前、私は愛着し、私の恐怖を隠しました。いま、その質問をすることによって、この愛着は空虚さに一瞬気づいたときに生じた恐怖からの逃避であったことを見出します。いまや私は逃げることをやめました。そのとき何が起こりますか?

質問者: 私はその一瞬の後、別の逃避があると言おうとしていました。

クリシュナムルティ: それはあなたが逃避の無益さを見ていないということです。したがってあなたは逃避し続けます。しかしほんとうに見るなら、空虚に気づいているなら、何が起こりますか? 非常に注意深く見守っているなら、普通起こることはこうです。あなたは尋ねます。「誰がこの空虚さに気づいているのだろうか?」

質問者: 心。

クリシュナムルティ: どうかそこに飛躍しないでください。一歩一歩行きましょう。誰がそれに気づいているのでしょうか? 心? 心の一部が寂しい別の部分に気づいているのでしょうか? 私の質問がわかりますか? 寂しいことに私は突然気づきました。それは「私は寂しい」と言っている心の一断片でしょうか? その中には分離があります。分離がある限り逃避があります。あなたはこれを見てない!

質問者: 空虚を経験するとき何が起こるでしょうか? この寂しさを経験するとき、もはやそれに気づいていません。

クリシュナムルティ: ねえ、あなた。どうか聞いてください。あなたはここで粘り強い観察が必要です。何かの結論や、あるべきだとあなたが考える何かではなく。すなわち、私は私の空虚に気づいています。以前は、私はそれを覆い隠しました。いまや、それはむき出しにされ、私は気づいています。誰がこの空虚に気づいているのでしょうか? 私の心の分離した断片? そうであるなら、そのとき、空虚と、それが空虚であることに気づいているものとの間に分離があります。そのとき、その空虚さの中に、その分離の中に、何が起こりますか? 私はそれについて何もすることが出来ません。私はそれについて何かしたいと思い、「私はそれを結合しなければならない」、「この空虚を経験しなければならない」、「行動しなければならない」と言います。観察者と観察されるものの間の分離がある限り、矛盾があり、したがって葛藤があります。それがあなたのしていることですか? それ自身の一部分ではない空虚を見守っている心の分離した一切片? それはどちらですか? 皆さん、あなたはこれに答えなければなりません! それが見守っている一部分であるなら、そのとき、その部分は何でしょうか?

質問者: それはエネルギーから生じた英知でしょうか?

クリシュナムルティ: それを複雑にしないでください。それははなはだ複雑です。ほかの言葉を持ち込まないでください。私の質問は非常に単純です。私は尋ねました。あなたが愛着を通じて逃げていたこの空虚さに気づいていて、そしてもはやそれから逃げていないとき、誰が気づいているのでしょうか? 見出すのはあなたです。

質問者: 自分は空虚であるというこの気づきはもう一つの逃避です。そして、組み立てられたこれらすべてのものに自分が他ならないのを見ます。

クリシュナムルティ: 「私は私の空虚に気づいている」と言うとき、それは逃避のもう一つの形であり、私たちは逃避の網に捉えられています。それが私たちの人生です。愛着が逃避であることを実際に理解するなら、そのとき、あなたはその逃避をやめます。あなたは一つの逃避から別の逃避に行こうとしているのでしょうか? あるいは逃避の一つの要素を見、そこで、逃避のすべての要素を理解したのでしょうか?

皆さん、10分以上も続けて注意を保つことはとてもできないでしょう。そして私たちは1時間50分も話しています。それで止めた方がいいでしょう。私たちは明日同じ事を続けましょう。それがあなたにとって実際のものになるまで-私がそう言うからではなしに。それはあなたの人生です。

1970年8月3日

(訳者: N.Goto)'98.07.-'98.08.掲載 '98.07.03, 2003.04修正

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