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最初のザーネン講話(1961年)

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1961年 ザーネンの公開講話(第3回)

Saanen 3rd Public Talk 30th July 1961

これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。
 今朝は葛藤の問題を調べ、できればそれのまさに終わりまで行き、心が完全に、まったく、すべての葛藤なしにあることができるかどうか、単に観念としてだけでなく実際に私達自身で経験したいと思います。それを自分自身で本当に発見するためには、とても観念のレベルに留まっていることはできません。
 明らかに外部の世界の中にある葛藤について、ひとは何もすることができません。それは世界中で、僅かの制御されていない人たちによって引き起こされています。そして私たちは彼等によって破滅させられるかもしれませんし、あるいは生き続けるかもしれません。ロシア、アメリカ、あるいは他の誰かが私たちを皆戦争に投げ込むかもしれず、私たちはそれについてほとんど何もできません。しかし私達自身の内部の葛藤について非常に根本的なことをすることができると私は思います。そしてそれが私が討論したいことなのです。なぜ私たちの内部で、私たちの皮膚の内側で、心理的に、私たちはこのような葛藤の中にあるのでしょうか? それは必要でしょうか? そして植物化し、眠ってしまうことなしに、まったく何の葛藤もない生を送ることができるでしょうか? あなたがそれを考えたことがあるかどうか、そしてそれがあなたにとって問題であるかどうか私は知りません。私にとっては、葛藤はあらゆる形の感受性を破壊します。それはすべての思考を歪めます。そして葛藤があるところ、愛はありません。
 葛藤は本質的に野心、成功の崇拝です。そして私たちは、表面のレベルだけでなく意識の非常に深い奥もまた、内的に葛藤の状態にあります。私たちがそれに気づいているかどうかなと私は思います。そして気づいているなら、それをどうしますか? 私たちは教会、本、ラジオを通して、楽しみ、娯楽、セックス、その他あらゆるものを通して、私たちが崇拝する神を含んで、葛藤から逃避するのでしょうか? それとも、それとどうやって取り組むか、どうやってこの葛藤と取っ組み合うか、どうやってそれのまさに終りまで行き、心がすべての葛藤からまったく自由であることができるかどうかを見出すか、私たちは知っているのでしょうか?
 葛藤は確かに矛盾を意味します。感情の中の、思考の中の、行動の中の矛盾。矛盾は人が何かをしようと望み、しかしその反対をするよう強いられるとき存在します。私たちの大抵に、愛があるところまた嫉妬、憎しみがあります。そしてそれもまた矛盾です。愛着のなかに、その矛盾と葛藤を伴なって悲しみと苦痛があります。私たちの触れるものはなんでも葛藤をもたらし、そしてそれが朝から夜までの私たちの生活であるように私には思われます。そして眠るときでさえも、私たちの夢は毎日の生活を妨害する象徴です。
 そこで意識の全体の状態を熟慮するとき、私たちは自己矛盾の葛藤、善良であろう、高尚であろう、これであって あれでないようにしようという際限のない企ての中にあることを見ます。なぜそうなのかなと私は思います。いったいそれは必要なのでしょうか、そしてこの葛藤なしに生きることはできるのでしょうか?
 言ったように、私たちはこれを、観念的にではなく実際に調べようとしています。それは私たちの葛藤の状態に気づいていること、その意味合いを理解すること、それと現実に接触していること―観念、言葉を通じてではなく、現実に接触していることです。それができるでしょうか? ひとは観念を通じて葛藤と接触することができますね。そして現実に私たちは事実それ自体より、葛藤の観念とより多く接触しています。そして問題は心が言葉を捨てて感覚と接触していることができるかどうかです。そして私たちが思考の全体の過程―他の誰かの思考の過程ではなくて私達自身の過程に気づいていないなら、なぜこの葛藤が存在するか発見することができるでしょうか?
 確かに、際限なく思考を制御しよう、形作ろうとしている思考者を伴なう思考者と思考の間の分離があります。私たちはこのことが起こっていることを知っています。そしてこの分離が存在する限り葛藤があるに違いありません。二つの異なった状態として経験者と経験がある限り葛藤があるに違いありません。そして葛藤は感受性を破壊します。それは情熱、強烈さを破壊します。そして情熱、強烈さなしには、何かの感情、何かの思考、何かの行為のまさに終りまで行くことはできません。
 まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見するためには、情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します―情報に通じた心、知識を詰め込まれた心ではなく。情熱なしに敏感であることはできません。そして情熱、見出そうとするこの活力は、私達自身の内部の絶え間のない戦いによって鈍くされます。不幸にも私たちは苦闘と葛藤を避け難いものとして受け入れ、日に日により無感覚で鈍くなります。その極端な形は精神病につながります。しかし普通私たちは教会、観念、あらゆる種類の浅薄なものごとの中に逃避を見つけます。そこで、葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? それとも、私たちは社会によって、私達自身の野心、貪欲、羨望、成功の追求によって非常に深く条件づけられているので、葛藤を良いこととして、目的を持った高尚なこととして受け入れるのでしょうか? もしも私たちの一人一人が、私たちが実際に葛藤をどう考えるか見出すことができるなら、それは有益であるだろうにと私は思います。私たちはそれを受け入れるのでしょうか、あるいはそれに捉えられ、それからどうやって逃げ出せばいいかわからないのでしょうか、それとも多くの逃避に満足するのでしょうか?
 それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。
 思考のみがあり思考者はないのでしょうか? 経験している状態のみがあり経験者はないのでしょうか? 記憶を通して経験者が生じるやいなや、葛藤があるに違いありません。私はそれは、あなたがそれを考えたことがあるなら、かなり簡単であると思います。それは自己矛盾のまさに根源です。私たちの多くにとって思考者がもっとも重要になっていますが、思考がではありません。経験者がもっとも重要になっていますが経験している状態がではありません。
 このことは私たちが先日 討論していた、見ることとはどういうことかという問題を実際に含みます。私たちは生、他の人、木を観念、意見、記憶を通して見ているのでしょうか? それとも生や人や木と直接に親交しているのでしょうか? 私たちは観念、記憶、判断を通して見ており、それゆえ決して見ていないと私は思います。同様に、私は私自身を私が「実際にそうである」ように見るのでしょうか、あるいは私自身を私が「そうあるべき」もの、または私が「そうであってきた」もののように見るのでしょうか? 言い換えると、意識は分割できるでしょうか? 私たちは非常に安易に無意識と意識的な心、そして両方のそれの中の多くの様々な層について話します。そのような層、そのような部分があり、それらはお互いに対立しています。私たちはすべてのこれらの層を一つ一つ詳しく調査し、それらを捨てたり、理解しようとしなければならないでしょうか―それは非常にうんざりするし、問題を処理する効果のないやり方です―、それともすべての区別、全部のものを払いのけ、意識全体に気づいていることが出来るでしょうか?
 私が先日言っていたように、何かに全体的に気づいているためには知覚が、観念によって薄く色をつけられていない見ることがなければなりません。何かをすっかり、全体として見ることは動機、目的があるならできません。私たちが変更にかかわっているなら、実際にそうであるものを見ていません。私たちは違わなければならない、私たちが見るものをよりよい、より美しいものに変えなければならないという観念にかかわっているなら、そのとき私たちは「そうであるもの」の全体を見ることはできません。そのとき心は単に変化、変更、改良、改善にかかわっているに過ぎません。
 そこで私は、区別、層、意識の中の対立する観念に捕われることなしに、私自身を、私がそうであるままに意識全体として見ることが出来るでしょうか? あなたが今までに何かの瞑想をしたかどうか私にはわかりません―そして今直ちにそれを論じようとしてはいません。しかし、あなたがしたことがあるなら、瞑想の中の葛藤、思考を制御しようとする意志とさまよう思考を観察したに違いありません。それは私たちの意識の一部です―制御しよう、形作ろう、満足しよう、成功しよう、安全を見つけようというその衝動。そして同時に、そのすべての馬鹿らしさ、無益さ、無用さの一見。私たちの多くは私達自身の周囲の壁として働く行為や、観念や、抵抗の意志を発達させようとします。その壁の内側で私たちは葛藤のない状態に留まろうと望みます。
 さて、この葛藤のすべての全体を見ること、そしてその全体と接触していることができるでしょうか? このことは葛藤の全体という観念と接触していることや、私が使用している言葉と同一化することではありません。そうではなくすべての葛藤の悲しみ、惨めさ、熱望、苦闘を伴なう、人間存在の全体という事実と接触していることを意味します。それは事実と直面すること、それと共に生きることを意味します。
 何かと共に生きることは途方もなく困難ですね。これらの周囲の山々と共に、木々の美しさと共に、影、朝の光、雪と共に生きることは、本当にそれと共に生きることはとても骨が折れます。私たちは皆それを受け入れるのではないでしょうか? それをくる日もくる日も見て、小作農がなるように、私たちはそれに鈍くなり、それを二度と実際に本当に見ようとしません。しかしそれと共に生きること、毎日新鮮さ、明確さをもって、感謝をもって、愛をもってそれを見ること―そのことは多量のエネルギーを必要とします。そして醜いものが心を堕落させ、むしばむことなしに、醜いものと共に生きること―そのことも等しく多量のエネルギーを必要とします。美しいものと醜いものの両方と共に生きることは―ひとが生の中でしなければならないように―巨大なエネルギーを要します。そしてこのエネルギーは絶え間ない葛藤の状態にあるとき、否定され、破壊されるのです。
 それゆえ、心は葛藤の全体を見ることが、それと共に生きることが出来るでしょうか? それを受け入れたり否定したりすることなしに、私たちの心を捩じ曲げようとする葛藤を認めることなしに、葛藤をつくり出す私達自身の欲望の内部の運動のすべてを実際に観察して。私はそれは可能だと思います―ただ可能なだけでなく、私たちがそれを非常に深く調べたとき、心が単に観察しているに過ぎず、抵抗していないで、否定していないで、選択していないでいるとき、それは可能です。そのとき、時間や空間の見地でなくて葛藤の全体の実際の経験の中で、そこまで行くなら、そのときあなたはあなた自身で、心がもっとずっと強烈に、情熱的に、活力に満ちて生きることが出来るということを発見するでしょう。そしてそのような心があの測り知れないものが生じるのに絶対必要です。葛藤の中の心は真実であるものを決して見出すことができません。それは神、善、精神性、その他あらゆることを果てしなくぺちゃくちゃ喋るかもしれませんが、名付けられないもの、測ることが出来ないものを受取ることができるのは、葛藤の性質を完全に理解してしまい、それゆえその外にいる心だけです。
 多分私たちはこのすべてについて討論したり質問をしたりできるでしょう。正しい質問をすることは非常に困難です。そして正しい質問を尋ねるまさにそのことの中で、私たちは私たち自身で答えを見出すだろうと私は思います。正しい質問をするということは、事実と、そうであるものと接触していなければならないのであり、観念や意見とではないということを意味します。

質問: 創造の性質は何でしょうか?

クリシュナムルティ: あなた、美の性質は何でしょうか? 愛の性質は何でしょうか? 葛藤の中にない心の性質は何でしょうか? あなたはその記述を望んでいるのですか? そして記述があなたを満足させるなら、そしてそれを受け入れるなら、そのとき、あなたはただ言葉を受け入れているのです。あなた自身で実際に経験していません。ほら、私たちは説明によって、知的な観念によって、非常に容易に満足してしまいますね。しかしその過程のすべてはただ言葉をもて遊んでいるだけです。そしてそれから間違った質問が生じます。あなた、葛藤なしにこの世界の中で生きることができるかどうか、あなた自身で見出したくないでしょうか?

質問: ひとは外部の世界に反対の立場をとらなければならないと感じます。そしてその世界に反抗する行為そのものの中に葛藤があります。

クリシュナムルティ: 私たちは何かを、ただそれをすることが好きなので実際にしているのかどうかなと思います。私の言っていることがわかりますか? 私は私のしていることをするのを愛します―演壇に腰掛け沢山の人に話すことから私が何かの刺激を得るということではありません。それは私がそれをしている理由ではありません。私はそれが好きなのでそれをしています。たとえもし、ただひとりの人しか、あるいはまったく誰もいないとしてもです。そしてそれが葛藤をつくり出すなら、それがどうしたというのでしょう? 何といっても、私たちの誰もかき乱されたくありません。私たちは私達自身の孤立した平和な場所をつくり出し、その中で私たちの観念、夫、妻、子供、神と生きることを好みます。そして誰かか何か―生、嵐、地震、戦争―がやってきて私たちを震え上がらせます。そして私たちは反応します。より強い壁を建てようとします。かき乱されないためにいっそうの抵抗をつくり出します。そして神が私たちの最後の隠れ家であり、その中でそれ以上かき乱されることがないように私たちは希望します。私たちがかき乱され、そしてそのかき乱されることから騒動があるなら、それのどこが間違っているというのでしょうか? 私はあなたに聞くように強要していません。ドアは開かれてそこにあります。私たちがここでしようとしていることは葛藤を理解することです。そして世界に対して立ち上がることのどこが間違っているというのでしょう? 何といっても、私たちが反対して立ち上がろうとしている世界は体面の世界、無数の虚偽の神々、教会と観念の世界です。私たちは憎悪、羨望、貪欲、そして私達が私達自身を保護するために案出したそのようなものすべてに対して立ち上がっているのです。それをやって、それが撹乱をつくり出すなら、それのどこが間違っているというのでしょう?

質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。

クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?

質問: 私たちが実際の事実に向かい合っているのか、事実についての観念に向かい合っているのか、どうやって知るのでしょうか?

クリシュナムルティ: さて、これはあなたの問題です。そうではないですか? それでどうやってあなたは見出すことに取り掛かりますか? あなたは今までに観念なしに何かを見たことが、あるいは感情を持ったことがありますか? 私が怒りの感情を持っているとしましょう。私はその感情をただ言葉を通じてのみ知るのでしょうか? 観念を通じて感じるのでしょうか? 私はインド人であると言うことによって、それは観念ですが、私は国籍の特定の感情を得ます。それゆえ感情を作り出したのは観念ではないでしょうか? なぜなら、私は私自身をインド人として考えるよう教育されてきており、地球の特定の一片、特定の色と同一化しているので、それは私に特定の感情を与えます。そしてそれらの感情で私は満足します。しかし、もしも私が特定の種族や集団に同一化しないで、ただ人間であるように、違って教育されているなら、私の感情はまったく異なっているのではないでしょうか? それゆえ私たちにとって、言葉は特定の言外の意味―共産主義者、信じる者、信じない者、キリスト教徒―を持っており、そしてそれらの言葉を通して私たちは特定の感じ、特定の感情を持ちます。私たちの大部分にとって言葉は非常に重要です。私は心がいったい言葉から自由でありうるかどうか見出そうとしています。そしてそれが自由であるとき、感じる心の状態はどんなでしょうか? 私は私の言おうとしていることを明確にしているでしょうか?
 聞いてください、あなた、私たちは今朝葛藤を話してきました。そして私は、言葉をもてあそぶことなく、心が葛藤から自由であることができるかどうか見出したいのです。私は見出したい、それのまさに終りまで行きたいのです。それは私が観念とではなく葛藤それ自体と実際に接触していなければならないということです。いいでしょうか? それゆえ私は観念によって脱線させられてはなりません。私はそれの全体の中に手探りで進まなければなりません。苦痛、苦しみ、欲求不満、葛藤の全体と接触していなければなりません。言い訳や正当化を見つけることなく、徹底的に、深くその中に入らなければなりません。私はそれを言葉の上で、言葉でするのでしょうか? 私の要点に出会っていますか? それが今朝、私たちがものをどうやって見るか私が尋ねた理由です―言葉のスクリーンを通して、あるいは実際の接触によって? 言葉なしに感じることができますか? 何といっても、空腹な人は食べ物を欲します。食べ物の描写では満足しません。そして、同様に、あなたは葛藤を見出すことを望み、その終りに向かって真っ直ぐに進みますか? それとも葛藤の中にない心の状態の言葉の描写で満足しますか? あなたがそれのまさに終りまで行きたいなら葛藤を経験しなければなりません。それについてすべてを知らなければなりません。一つの葛藤が、あなたがそれと共に生き、それを学び、それと眠り、それと夢を見、それに夢中になることができるなら、すべての葛藤の全体をあらわにするでしょう。しかしそれは情熱、強烈さを要します。表面で生き、論じることはどこにもつながらず、持っているなけなしのエネルギーを浪費します。

質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?

クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
 それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。

1961年 7月30日

(訳者: N.Goto)'99.09.掲載

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