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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開対話(第3回)

Saanen 3rd Public Dialogue 4th August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

Part2 Dialogue 3

依存と恐怖の深さ。 愛着を見守ること、愛着の種々のレベル。 習慣。 
習慣の全体網を見る必要。
どうやって全体を見ることができるか? 分析と観察の相違。 習慣の背後の機構。 
創造性とは何か?

クリシュナムルティ: 昨日、私たちは依存、その愛着、恐怖を話していました。私は思うのですが、このことは私たちの生活の中で重要な問題であるかもしれず、それで、私たちはそれをかなり深く実際に調べるべきです。とにかく、何かの形の依存があるとき、自由はとても存在できないということを人は見ることが出来ます。生理的、そして心理的依存があります。衣食住への生物的依存、それは自然な依存です。しかし、生物的な依存を通じて起こる愛着があります。たとえば家を持つことのような。家に人は心理的に愛着します。あるいは、発見されていない恐怖のほかの要因のために、特定の形の食物や、とりつかれたように食べることに愛着する-などなど。
 肉体的依存があり、ひとはそれにかなり容易に気づくことができます。喫煙への、薬物への、飲酒への、種々の形の肉体的刺激への依存のような。それにひとは生理的に依存します。それから心理的依存があります。非常に注意深くこれを見守らなければなりません。なぜなら、それらは相互に入り込むから、それらは相関するからです。人、あるいは信念への、確立した関係への、思考の心理的な習慣への依存があります。人はこのすべてにかなり容易に気づいていることができると思います。そして肉体的、心理的両方の依存と愛着があるため、愛着しているそれを失う恐れが恐怖を引き起こします。
 人は信念や、経験や、特定の偏見に結びついた結論に依存するかもしれません。いかに深くこの愛着は進むでしょうか? あなたがあなた自身の中にそれを観察したかどうか、私はわかりません。何かの形の愛着があるかどうか見出すために、私たちは終日それをすべて見守っていました-規則正しくここに来て、特定のアルプスの牧夫小屋に泊まり、一つの国から次の国へ行き、話し、人々に講演し、尊敬され、批判され、さらされ。終日見守ったなら、人はいかに深く何かに、あるいは誰かに愛着しているか、あるいは全くしていないかを自然に発見します。何かの形の愛着が-それが何であるかは問題ではありません-本に、特定の食事に、特定の型の思考に、特定の社会的責任に愛着があるなら-そのような愛着は常に恐怖を引き起こします。そして脅えている心は、愛着しているためであるとは知らないかもしれないけれど、明らかに自由ではなく、したがって絶え間ない葛藤の状態の中に生きているに違いありません。
 ひとは音楽家のような特定の才能を持っているかもしれません。彼は彼の楽器に、あるいは声の養成にものすごく愛着しています。そして楽器や声が駄目になるとき、彼は完全に途方に暮れ、彼の日は終るのです。手やバイオリンに保険をかけるかもしれませんし、指揮者になることも出来ますが、彼は、愛着を通して、避けられない恐怖の暗黒が待っていることを知るのです。
 私たちひとりひとりが-私たちがいやしくも真剣であるなら-この問題を調べたのかなと思います。なぜなら自由はあらゆる愛着からの、したがってあらゆる依存からの自由を意味するからです。愛着している心は客観的でなく、明確でなく、正気で考え、直接 観察することができません。
 表面の、心理的な愛着があります。そして何かの形の愛着があるかもしれない深い層があります。どうやってそれらを見出しますか? 心は、それはその多くの愛着を意識的に観察してそれらの愛着をよく理解するかもしれませんが、どうやって真実とその真実の含む意味を見るのでしょうか? それはほかの形の隠れた愛着を持っているかもしれません。どうやってそれらの潜んだ秘密の愛着をあばくつもりですか? 愛着している心はそれを脱しなければならないと実感するという葛藤を経験します。そうでなければ、苦痛を悩みそれで他の何かに愛着するなどなどをします。これが私たちの生です。私は妻に愛着していることを見出し、その結果のすべてを見るかも知れません。彼女に愛着しているので、それに伴う恐怖が必ずあるに違いないということを私は実感します。したがって脱しようという葛藤と関係の試練、関係の中の葛藤があります。そのことを明確に観察し、自分自身にあばくことはかなり容易です。
 私たちの問題は、心の隠れた奥底で何かの形の伝統に、それが何であるにせよ、いかに深く愛着しているかということです。どうか、ついてきてください。なぜなら、自由はこのすべてからの完全な自由を意味するということをあなたは見るでしょうから。さもなければ恐怖があるに違いありません。そして恐怖を背負った心は理解することが、物事をありのままに見ること、そしてそれらを超えることができません。
 どうやって隠れた愛着を観察しますか? 私は愛着していないと考えて、頑固かもしれません。私は何事にも依存していないという結論に達してしまっているかもしれません。その結論が頑固さを促進します。しかし、学び、追求し、見守っているなら、そのとき、その学ぶという行為の中には結論はありません。私たちの多くは何かの形の結論に愛着しており、その結論にしたがって私たちは活動します。心は結論を形成しないでいられるでしょうか?-ただときたまではなく、何時も 。
 「私は長髪が好きだ、長髪は好きでない」、「これが好きだ、あれは好きでない」。知的に、あるいは何かの経験によって、あなたは、何であるにせよ、ある考え方に到らなければならないのです。心は結論なしに行動できるでしょうか? それがひとつの点です。二番目に、心は隠れた愛着、型、依存をそれ自身に明らかにすることが出来るでしょうか? そして三番目に、愛着の性質と構造を見て、心は孤立しているのではなくて非常に活動的な、しかもなお何かの点にとらわれていない生き方に入って行けるでしょうか。私たちはそれを調べましょう。
 最初に、私たちが生物的に、肉体的に、心理的に愛着していることに気づいているでしょうか。肉体的にものに愛着していることにあなたは気づいているでしょうか? そしてまたそれら愛着の意味するところに気づいているでしょうか? 喫煙に愛着しているなら、それを止めることがいかに途方もなく難しいかを見てください。喫煙する人々にとっては-その人にはそれは習慣になっています-信じられないほど止めることは困難です。それは興奮剤、社会的習慣として作用するだけでなくて、それへの愛着があるのです。人は飲酒、薬物、種々の形の刺激物への愛着に気づいているでしょうか? 気づいているなら、あなたはそれを即座にやめることが出来ますか?
 私がウィスキーに愛着し、そしてそのことに気づいているとしましょう。それはものすごい習慣になっています。身体がそれを要求します。それに慣れてしまっており、それなしにはすみません。そしてあなたは、自分は飲んではならないという結論に至っています。それはあなたによくありません。医者はそれを減らすよう求めています。しかし身体と心はその習慣に落ち込んでしまっています。この習慣を見守って、心はそれを完全に、即座にやめることが出来るでしょうか? それの中に何が含まれているか見てください。身体はその習慣に入り込んでいるためにそれを要求します。そして心は「私はそれを止めなければならない」と言っています。そこで肉体的な要求と心の決定との間に戦いがあります。どうするつもりですか? ウィスキーのかわりに、あなた自身の習慣を取り上げてください。たぶん、あなたはウィスキーを飲まないでしょうが、顔をしかめる、口を開けて見る、指をもてあそぶというようなほかの生理的習慣を持っているでしょう。よかったら、あなた、このことを討論しましょう。身体は飲酒に愛着しており、心は「私はそれを免れなければならない」と言います。そしてまたあなたは心と身体の間に葛藤があるとき、それは問題、苦闘になるということを実感します。あなたはどうしますか? どうぞ、皆さん、さあ! これを討論できないなら、あなたは並外れてすべての習慣から自由であるに違いありません!

質問者: それを止めるか、飲酒し続けるかどちらかです。

クリシュナムルティ: 現実にはあなたはどうしますか? どうかこれで遊ばないでください。なぜなら 一度それを理解するなら、いかにそれが途方もなく重要になるかが、どんな努力もなしに行動すること、あること、それは、どんな歪みもなしにということですが、いかにそれが重要になるかが見えるでしょうから。

質問者: 私が私の習慣なのだ、ということを私は実感します。

クリシュナムルティ: ええ、それでどうしますか? 私は私の習慣であると実感します、私の習慣は私です。

質問者(1): 私たちはこれら習慣の根源に行かなければならないのではないでしょうか?
質問者(2): 私たちはそれへの抵抗をやめることによって始めなければなりません。

クリシュナムルティ: あなた、少し話していいですか。理論付けしないようにしましょう。推測しないようにしましょう。私にどうするか告げるのではなくて、見出しましょう。どんなふうに見るかだけではなくて、その見ることそのものから、どんなふうに行為が起こるかを学びましょう。
 私は頭を掻く、指をもてあそぶ、口を開けて見る、非常に肉体的なことの特定の習慣を持っています。さて、どうやって私はそれを、少しの努力もなしに終りにするでしょうか? 私たちは意識的、無意識的に愛着している習慣について討論しています。私は頭を掻くとか、耳を引っ張るとか、指をもてあそぶようなごく些細な習慣を取り上げています。努力は二重性を意味する、抵抗、非難、それを超えたいという欲望を意味するということを知って、どうやって心はどんな種類の努力もなしにそれをやめますか-私が言葉で、あるいは言葉をもちいないで、抑圧や逃避のどちらかをするときに。 そこでそのすべてを心に留めて、それらの事実を理解して、どうやって私は肉体的な習慣を努力なしにやめますか?

質問者: それをそっくりそのまま観察します。

クリシュナムルティ: まってください、あなた、その陳述は私たちの問題すべてに答えるかもしれません。あなたはそれをそっくりそのまま観察します。それはどういうことでしょうか? 掻く、指を動かすというような、ただ一つの習慣ではなくて、習慣の全体の機構。それの断片ではなく、それの全体。さて、心はそれがその中で生きている習慣の全体をどうやって見守るのでしょうか?

質問者: 受動的な気づき、あるいは受動的な観察で。

クリシュナムルティ: あなたは話し手を引用しています。残念ながら、それではだめだと思います。誰からも引用しないでください、あなた!

質問者: 習慣をつくっているのは心でしょうか?

クリシュナムルティ: よく見てください、あなた、その質問は、あなたがそれを調べるなら、ほんとうにとても重要です。心は見守ることが、特定のちょっとした習慣のみならず、習慣を形成するこの機構全体に気づいていることが出来るでしょうか。どうか、はいと言わないでください。何かの結論に至らないでください。この質問に何が含まれているか見てください。自分の指を動かすような小さな習慣のみならず、性的習慣、思考の型、種々の活動の習慣もまたあるのです。私はこう思う、こう結論する、そしてそれは習慣になりました。私は習慣の中で生きます。私の生活全体は習慣の構造です。どうやって心は習慣の全メカニズムに気づけばいいでしょうか?
 ひとは千と一つの習慣を持っています。歯を磨き、髪を梳くやり方、読み方、歩き方。習慣の一つは有名になりたいこと、重要になりたいことです。どうやって心はこれらの習慣すべてに気づけばいいでしょうか? 心はひとつの習慣から次の習慣へと気づけばいいのでしょうか? それがいかに永く掛かるか、わかりますか? 私は私の残りの日をそれぞれの習慣を見守りながら過ごし、しかもなお、それを解決しないかもしれません。私はそれを学ぼうとしています。見出そうとしています。それをそのままにしておこうとはしていません。私は尋ねています。心が習慣の全体網を見ることができるでしょうか? どうやって心はそれをすればいいでしょうか? 推測しないでください。結論に至らないでください。説明を提供しないでください-私は興味ありません。「行って、あることをしなさい」というようなことではありません。私はそれをいま学びたいのです。私はどうしましょうか?

質問者: 習慣の特定の型-あるいは多くの型-を追い続けることのなかのエネルギーの浪費に気づけるでしょうか-そしてそれによって自分を解放する?

クリシュナムルティ: 私はあなたの言うすべてに到達しました。そして私は言います。どうか私がこれを見出せるよう助けてください。私は空腹です。メニュ-を与えないで食べ物を下さい! 私は尋ねています、あなたはどうしますか?

質問者: 一つの習慣を、すっかり、理解すること。そのとき、ひょっとすると習慣をすべて捨てることが出来るかもしれません。

クリシュナムルティ: どうやって私は一つの習慣、それは指をいじり回すことですが、を見守り、そしてほかのすべての習慣を見ますか? そんな小さな事柄でそのことが可能でしょうか? 私は緊張のためにそれをすることを知っています。私は妻とうまくやっていくことが出来ず、そこでこの特定の癖がつきます。あるいは私は神経質、内気なので、あれやこれやであるのでそれをします。しかし私は習慣の全体網を学びたいのです。私は少しづつそれをすべきでしょうか、それともこの全体網を即座に見るやり方があるでしょうか? どうか私に答えてください。

質問者: 習慣の構造は二つの部分からなり...

クリシュナムルティ: 二つの部分、習慣、そしてそれらの習慣に関わっている観察者があります。そして観察者もまた習慣です。それゆえ両方が習慣です。私は指を動かし、観察はそれもまた習慣の結果である実体から生じます。明白に! それゆえ、それはすべて習慣です。どうか、あなた、どうやってそれを学ぶのを助けてくれますか、教えてくれますか?

質問者: 私の全生活は習慣です。私の心は習慣です。私が変えなければならないのは、その心の状態です。

クリシュナムルティ: それを変えようとしている「私」は誰ですか? 「私」もまた習慣です。「私」は一連の言葉と記憶と知識です。それは過去です。それは習慣です。

質問者: 私たちはすべて習慣に捉えられているので、明らかに私たちは知りません。

クリシュナムルティ: したがって、多くの言葉をさし挟むかわりに、「私は知らない」となぜ言わないのでしょう? 知らないなら、では一緒に学びましょう。しかし最初にあなたが知らないことを明確にしましょう。そして誰も引用しないこと。私たちは「私は本当に知らない」という立場にいるでしょうか?

質問者: しかし、なぜ私たちはこれらの習慣を持つのでしょうか?

クリシュナムルティ: それはかなり簡単です。私が多数の習慣、毎朝八時に起きる、事務所に行く、六時に帰宅、酒を飲む、などなどを持っているなら、すごく考えることも、非常に生き生きしていることも必要ありません。心は溝の中で、習慣の中で機能するのを好みます。それは安全、確実です。そのことは多くの説明を要しません。さて、どうやって心はこの習慣の全体網を観察すればいいでしょうか?

質問者: ことによると、エネルギーが許す限り、私たちはあらゆる瞬間注意を払うことが出来るかもしれません。

クリシュナムルティ: ねえ、それはただの考えです。私は興味ありません。あなたは声明をしました。それはこうでした。心は習慣のメカニズムの構造と性質の全体を見ることができるだろうか、そしてそれが全体を見るとき、違う行為があるかもしれない。それが私たちが調べていることです-私がいまそれを調べてもいいでしょうか? 私たちは共に見出そうとしています。
 どうやって脳を含めての心は、何かをすべて見るのでしょうか?-習慣だけでなくて、何かをすべて見る。私たちは物事を断片的に見るのではないでしょうか? 仕事、家庭、共同体、個人、私の意見とあなたの意見、私の神、あなたの神-私たちはあらゆるものを断片で見ます。それは事実ではないですか? それに気づいていますか? 見ることが断片的であるなら、そのとき全体を見ることはできません。私の心が条件づけられているので生を私が断片で見るなら、そのとき明らかに心は人間の全体を見ることができません。私が私の野心、私の特定の偏見を通じて私自身を切り離すなら、私は全体を見ることが出来ません。私が生を部分的に見ていることに私は気づいているでしょうか?-「私」と「私でないもの」、「われわれ」と「彼ら」。私は生をそのように見るのでしょうか? そうするなら、そのとき、明らかに私は何もすっかり見ることは出来ません。それで私の質問が起きます。心は、それは断片的視野と活動からなるこの習慣にひどく囚われていますが、どうやって全体を見たらいいでしょうか? 明らかにそれはできません。私が自分の特定の成就、野心、競争、達成しようという欲望に関わっているなら、人間の全体を見ることは出来ません。そこで私はどうすればいいでしょうか? 成就を望むこと、何ものかであろうと望むこと、何かを達成しようと望むことは習慣、私に快楽を与える習慣であるのはもちろん、社会的な習慣でもあります。私が町を行くとき人々が私を見て「ほら彼が行く」と言います。それは私に大きな快楽を与えます。心が断片化のその分野で作動している限り、明らかにそれは全体を見ることは出来ません。さて、私の質問はこうです。断片で機能していて、とても全体を見ることは出来ないと実感するとき、心はどうすればいいのでしょうか? 心はあらゆる断片を破壊すべきでしょうか、あらゆる断片を理解すべきでしょうか? それは長い時間が掛かるでしょう。あなたは話し手からの答えを待っているのですか?

質問者: まったくの静寂がなければなりません。

クリシュナムルティ: おや、誰かを引用しています。

質問者: もしも私たちの習慣のすべてを、実際に起こっているままに、まさにいま見ることが、そして、実際にこれをいま見ることを妨げている過程を見ることが出来るなら...

クリシュナムルティ: 私たちはそれをしているのではないでしょうか? あなたは少しも進んでいません。繰り返し後戻りしています。私はいま習慣に囚われています。私は指を動かしています。言われることを口を開けて聞いています。私はそれが習慣であることを見ます。私の質問はこうです。いま、この習慣の機械装置全体を私は理解することができるでしょうか? あなたは注意を傾けていません。見てください、あなた、断片になっている心はとても全体を見ることが出来ません。そこで私は一つの習慣を取り上げ、その一つの習慣を学ぶことを通して、すべての習慣の機構全体を見ます。私はどんな習慣を取り上げましょうか?

質問者: 喫煙...

クリシュナムルティ: 結構ですね。私は分析しているのではありません-分析と観察の違いがわかりますか? 分析は分析する人と分析されるものを意味します。分析されるものは喫煙であり、それを分析するためには分析者がいなければなりません。分析と観察の間の違いはこうです-観察は分析なしに直接に見ること、観察者なしに見ること、赤、ピンク、黒の服を、「私はそれが嫌いだ」と言わないで、ありのままに見ることです。わかりますか? 見ることの中には観察者はありません。私は赤い色を見、好きや嫌いはありません。観察があります。分析は、私の子供の時代にさかのぼってそれを思い出し、「私は赤い色が嫌いだ。なぜなら父と不和だった母が...」を意味します。それゆえ、分析は分析者を意味します。どうか、分析者と分析されるものの間に分離があるということをはっきり理解してください。観察の中には分離はありません。検閲者なしに、「私は好きだ」、「私は好きでない」、「これは美しい」、「これは美しくない」、「これは私のものだ」、「これは私のものではない」という言うことなしに観察があります。それをただ理論付けるのではなく、これをしなければなりません。そのとき見出すでしょう。
 私が言ったように、私たちは分析しているのではありません。私たちは単に喫煙の習慣を観察しているに過ぎません。観察する中で、何があらわになりますか?―それが示しているものについてのあなたの解釈ではなく。違いがわかりますか? 解釈はありません。翻訳も、正当化も、非難もありません。喫煙の習慣は何をあらわにしますか?

質問者: 煙を肺に吸いこんでいることをあらわにします。

クリシュナムルティ: それは一つの事実です。二番目に、それはあなたに何を示していますか? 解釈しないなら、それは喫煙の由来を示すでしょう。聞くことができるなら、喫煙を見守ることができるなら、光景はそれが望むすべてをあなたに示すでしょう。
 さてそれは何を示していますか?―沢山の煙を肺に吸い込んでいることは? ほかに何を?

質問者: あなたが頼っていること。

クリシュナムルティ: それはあなたが煙草に頼っていることを示しています。

質問者: あなたの内側が空虚であること。

クリシュナムルティ: それはあなたの翻訳です。それはあなたに何を示していますか?

質問者: それがただの機械的なことであるのが見えます。私はそれについて何も考えません―ただそれをします。

クリシュナムルティ: それはあなたが機械的に何かをしているということを示しています。それは最初に煙草を吸ったとき、気分が悪くなったということを示します。それは心地よくはありませんでした。しかし他の人たちが吸っていたので、そこであなたは吸いました。いまやそれは習慣になってしまいました。

質問者: それはある程度あなたを静めるということを示していないでしょうか?

クリシュナムルティ: それはあなたを眠りに付かせ、自分を静めるのに役立つということを示しています。それは神経を静めます。食欲を減らします。そのためあなたは太りません。

質問者: 生活にうんざりしていることを示しています。

クリシュナムルティ: 他人に会い神経質になるとき、和らげてくれるということをあなたに示しています。それは沢山のことを示しました。

質問者: それは私が不注意であるということを私に示しています。

クリシュナムルティ: それはあなたの翻訳です―それはあなたが不注意であると示してはいないでしょう。

質問者: 特に夕食の後には、それはある程度の満足を与えてくれます。

クリシュナムルティ: ええ、それはあなたの役に立ちます。それはあなたにこのすべてを示しています。そして何故あなたはそれをしているのでしょうか? まあちょっと聞いてください、あなた―どうかそんなに急いで答えないでください。なぜあなたは、それがあなたにあらわにしたことのすべてを受け入れているのでしょうか? テレビはあなたにどうすればいいか、どんな種類の石鹸を買えばいいか、その他何もかも教えます。あなた方はみんなそれらのコマーシャルを見ています! あなたは何時も教えられているのです―なぜそれを受け入れるのでしょうか? 神聖な本があなたに何をすべきか、何をすべきでないかを教えます。なぜ教会や政治家たちの宣伝を受け入れるのでしょうか?

質問者: 方式に従うことがより容易であるからです。

クリシュナムルティ: なぜそれに従うのでしょうか? 安全のためでしょうか? ほかの人たちと仲間づきあいを感じるために? ほかの人たちと同様であるために? それは、ほかの人たちと同様でないことを恐れているということです。あなたはほかのあらゆる人と同様であることを望みます。なぜなら、そのことの中に完全な安全があるからです。あなたがカソリックの国の中の非-カソリック教徒なら、それが非常に困難なのがわかります。あなたが共産主義の国におり、党の方針に従わないなら、それが困難なのがわかるでしょう。
 さて、あの煙草の光景があらわにしたものと、なぜ私が習慣に囚われているかを見てください。それは煙草と私の間の相互関係です。これは習慣です。これが私の心全体が働いているやり方です。私は何かを、それが安全なので行なうのです。私は習慣を身につけます―些細であれ重大であれ―なぜなら、もはやそれについて考える必要がないからです。そこで私の心は習慣の中で作動することが安全であると感じるのです。喫煙という一つの習慣を通して、私は全体のパターンを発見しました。私は習慣を作り出している機械装置を発見しました。

質問者: 一つの習慣を傾聴することを通して、どうやってあなたが習慣の全体の機構を見ることができるのか、私にすっかりわかったというわけではありませんでした。

クリシュナムルティ: 私はそれをあなたに示しました、あなた。習慣は機械的に作動することを意味し、喫煙の機械的習慣の観察から、どんなふうに心が習慣の中で作動するかを私は見ます。

質問者: しかしすべての習慣は機械的なのでしょうか?

クリシュナムルティ: そうであるに違いありません―習慣という言葉を使う場合、それは機械的であるに違いありません。

質問者: 単に機械的である習慣より、もっと深い依存がないでしょうか?

クリシュナムルティ: 習慣という言葉を使用するとき、それは機械的反復を意味します―習慣を確立すること―それは何かを繰り返し、繰り返し行なうことを意味します。それで、善い あるいは悪い習慣はありません。私たちはただ習慣にだけ関わっているのです。

質問者: 私が例えば、権力の習慣や安楽の習慣を、あるいは財産の習慣を持っているなら、それはただの機械的な習慣より、より深い何かではありませんか?

クリシュナムルティ: 権力の習慣、権力、地位、支配、攻撃、暴力への要求―そのすべてが権力を求める欲望のなかに含まれています。子供のように、あるいは大人のように、自分がしたいことをする。それは習慣になってしまいます。

質問者: あるいは安全を望んで...

クリシュナムルティ: それは安全その他をあなたに与えると私は言いました。その一つの習慣を調べる中で、ほかの習慣がすべてそのことに基づいているということを私は見てしまいました。習慣は機械的、反復的なので、「私は偉大な人になりたい」と言うとき、そのとき私は捕らえられてしまいます。なぜならその習慣の中に安全を見出し、それを追求するからです。深い底では―私たちはいい習慣や悪い習慣ではなくて、ただ習慣を議論しているだけです―習慣はすべて機械的です。繰り返し行なうどんなことも、それは何かを昨日や今日から明日に向けて行なうことですが、機械的であるに違いありません。何かの機械的行為は少しはより洗練し、少しはより円滑に作動するかもしれませんが、しかしそれはなお習慣であり、なお反復的なのです―それは明白です。

質問者: 一定の創造的な努力は習慣であるとおっしゃるのでしょうか?

クリシュナムルティ: その質問に答えようではありませんか。あなたは創造は習慣であるとおっしゃるのでしょうか?

質問者: 創造は新鮮さを意味します。創造的であるために努力することはできません。

クリシュナムルティ: このすべてを、あなたが創造的であるから言っているのでしょうか、それともただそれを推量しているのでしょうか? 創造という言葉が何を意味しているのか、ひとは問わなければなりません。これはとてつもない質問です―そしてあなたはそれを払いのけます。あなたは絵を描きます。絵を描くことを愛するから描いたり、お金をもたらす、あるいは独自の描き方を見出したいなどから描いたりします。創造的であるとはどういうことでしょうか? 妻や社会とうまくやっていくことができないから詩を書く人、彼は創造的でしょうか? 自分のバイオリンに愛着し、それから多くの金をもうける人、彼は創造的でしょうか? そして自分の中に大きな緊張があり、その緊張から、世界が「何と素晴らしい」という戯曲を作り出す人―それをあなたは創造的と言うでしょうか? 酒を飲み、そのことからリズムあふれる素晴らしい詩を書く人―彼は創造的でしょうか?

質問者: どうやってあなたは判断できるのですか?

クリシュナムルティ: 私は判断していません。

質問者: しかしそれはあなたが持ち出している質問です。私が誰かは創造的であるとかないとか言うなら、私は判断しています。

クリシュナムルティ: 私は判断していません。あなた、私は尋ねているのです。私は学んでいるのです。私は本を書く人たち、詩や戯曲を書く人たち、バイオリンを演奏する人たちみんなを見ます。私は私の前にこれを見ます。「これはいい」、「これは悪い」と言いません。私は「創造的とはどういうことだろうか?」と言います。「これは正しい」と言うやいなや、私は終えているのです。そのとき私は学ぶことができません。そして私は学びたいのです。私は創造的であるとはどういうことか見出したいのです。

質問者: たぶん、それは純粋な普遍性を持つということでは...

クリシュナムルティ: 私は知りません―たぶん―私は見出したいのです。私は学びたいのです。

質問者: それは生きているということです。

クリシュナムルティ: 私は美術館に行き、それらの絵全部を見、それらに感嘆し、それらを比較し、「何と素晴らしい創造的な人たちなのだろう」と言います。そこで私は創造的であるとはどういうことか見出したいのです。創造的であるためには、私は詩を書き、絵を描き、戯曲を書かなければならないのでしょうか? それは、創造的であることは表現を必要とするか?ということです。どうか注意深く聞いてください。暑い台所でパンを焼く女性は創造的なのでしょうか?

質問者: 一般にこれらの活動を創造的であると言います。

クリシュナムルティ: 私はそこを尋ねているのです。私はその人たちがそうでないと言っていません―私は知りません。私は学びたいのです。

質問者: 私がパンを焼くなら―私は今までそれをしたことが一度もありませんが―私は創造的です。

クリシュナムルティ: 私は、あなた、何が創造的なことなのかを尋ねているのですよ。

質問者: 私たちはこの瞬間創造的です。

クリシュナムルティ: いえ、いえ。人が創造的と呼んでいるものをすべて観察しながら、私は私自身に尋ねます。創造的なこととは何でしょうか? それは表現を持たなければならないのでしょうか?―パンを焼くとか、絵を描く、戯曲を書く、金を儲けるといったことのように。それは表現を必要とするでしょうか?

質問者: ええ、私たちはいま創造的であると私は思います。

クリシュナムルティ: そのことは私の要点ではありません。私の要点は、あなたが創造的であるのか、それとも誰かがこれらすべてを指摘しているのを単に聞いているに過ぎないのかどうかです。

質問者: 無批判で観察するとき創造していると私は思います。

クリシュナムルティ: 「私は思う」ではなく。あのね、あなた、私は熱烈に見出したいのですよ。

質問者: 自分が愛着していることを見るやいなや、まさにその瞬間、見、行動します。それが創造の瞬間です。

クリシュナムルティ: したがってあなたは、見ることは行為であり、そのとき創造があると言っています。それは定義です。

質問者: 自然との人の調和は創造性ではないでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは自然と調和してしていますか? あなた要点を逃がしています。私は見出したいのです。私は空腹です。私は偉大な画家をすべて観察しました。偉大な戯曲などをみんな見ました。私は尋ねますが、創造とは何でしょうか? 創造的であるとはどういうことでしょうか? 定義を与えないでください。私は学びたいのです!

質問者: 新しい何かをすることが創造的です。

クリシュナムルティ: それはどういうことですか? 決定のない、まったく新しく新鮮な何か? そのことは過去が終らなければならないということです。それはあなたに関して終っていますか? それとも本について話すように、創造についてただ話しているだけですか。そうであるなら、私はそれに関わりたくありません。私は学びたいのです。私は熱烈です。私はそれに涙を流したいのです! 人はこれらの事を何もしないで創造的に生きることができます。パンを焼く事も、絵を描く事も、詩を書く事も何もしないで。それをする事ができるのは、心が非-断片的なとき、恐怖がないとき、心が過去のすべてのかかわり合いから自由であるとき、心が既知のものから自由であるときのみです。

質問者: 私にとって、創造性はものごとではありません。それは運動です。

クリシュナムルティ: あなたにとってではなく、あなた、私にとってではなく―あなたはそれをまったく個人的なものにしています。それは意見ではありません。私は空腹であり、あなたは多くの言葉を与えています。それはあなたは空腹ではないということです。昨日、愛着について話したあとで、私はそれを見守っていました。心は終日、それが何かのことに愛着しているかどうかを見守っていました。演壇に立つこと、話すこと、人々に教えようと望むこと、何かを書くこと、あるいは誰かに、考えに、地位に愛着すること。人は見出さなければなりません。そして見出すことの中で、巨大なものごとを発見します。自由の美、そしてその自由から生じる愛。私たちが創造について語っているとき、それは攻撃のない心を意味します。
 それで、機械性、習慣の全体網を見出すためには、人は気づいていなければなりません。それを突っ込んで調べなければなりません。あなたを通してそれを流れさせましょう。流れているあの河のように。この探究に終日あなたを運ばせましょう。そうすれば巨大なものごとを発見するでしょう。

1970年8月4日

(訳者: N.Goto)'98.09.-'98.10.掲載 '98.09.04、10.02、03修正

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