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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開対話(第4回)

Saanen 4th Public Dialogue 5th August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

Part2 Dialogue 4

恐怖と逃避の全体網を見ること。 愛着との苦闘は断片化の中の運動にすぎない。 断片化を通じて完全、悟りに到達できるだろうか?
どうやって断片化が起こるのだろうか? 思考と時間の種類。思考は分割するがなお必要な機能であることを見て、それについてどうするか?
既知のものから自由である心の機能。 不可能な質問をすること。

クリシュナムルティ: 私たちは愛着を話してきました。それは必然的に恐怖につながります。そして恐怖の種々の形について話しました。ひとが持つ意識的および無意識的恐怖の両方について。私たちは恐怖と逃避の全体網を分析なしに見ることができるかどうか、いやむしろそれらを少しの分析的な過程もまったくなしに観察することができるかどうかを尋ねています。私たちはこのことを非常に深く調べるべきだと私は思います。なぜなら、恐怖とその恐怖からの種々の形の逃避を免れていない心は必然的に動きが不自由になり、愚かになるでしょうから。たとえそれが瞑想の種々の方式などなどに従っているかもしれなくても。恐怖からの完全な自由がない限り、それはまったく子供じみていて未熟です。
 そこで、私たちはそれをもっとずっと深く調べ、見出し、心について学んでいいでしょうか? 表面の層について学ぶだけではなくて、恐怖がある心の深い隠れた層にもまた入り込むのです。たいていのひとは何やかやに愛着しているので、その愛着が自分自身の寂しさ、自分自身の挫折、空虚さ、浅薄さからの逃避を示します。さて、ひとがこの恐怖の運動全体に気づいているとき―それは空虚という事実から離れる運動です―この全部の過程を全体として、部分的にではなく見ることができるでしょうか? それが私たちが話していることです。
 何かを全部見るためには、成功を求める心の断片的過程は終らなければなりません。「ほかのものを獲得するために、恐怖を免れたい」、とか「悟りに達するために瞑想のある方式に従おう」、「もっとも並外れたものを見るために自分を修練し、制御し、形づくろう」。そのような考え方、生き方、行動の仕方は断片的です。私たちがそのすべてを明確に見るかどうか、私はわかりません。
 私たちは私たちの全存在が逃げ出す恐怖の網を、そしてそれからの種々の逃避を見ることができるでしょうか? 恐怖の性質そのものである、これらの複雑な、非常に微妙な形の逃避を私たちは見ることができるでしょうか? どんな形の結論から行動することも断片的であるということを私たちは見ることができるでしょうか? なぜならそれはそれ以上学ぶことを止めるからです。あなたは学び始めているかもしれません。しかしその学ぶことからの結論があるやいなや、それは断片的になります。何が断片化に寄与するのでしょうか? 私たちは自分が何かに愛着しているときの恐怖と恐怖を克服するための脱離の養成を討論しました。それは断片的な考えです。私たちの生の中の断片化に寄与するものは何でしょうか? どうか皆さん、あなたが聞くことから何かの結論を引き出さないでください。ひとは完全に、すっかり、全く恐怖から自由になることが出来るということをあなたに伝えるために、私は本当にあなたと通じ合いたいのです。生理的、肉体的恐怖だけでなくて深い底の方の心理的恐怖からも。
 恐怖は断片化の一形態です。愛着は断片化の一形態です。そして愛着を見て、離れていようとする企ては断片化の中の運動です。私は家族に愛着します。そのとき、私はそれが苦痛や快楽を引き起こすことを発見します。それが苦しいなら私はそれから離れたいと思い、愛着と戦います。それゆえ、それは断片化の中の運動であり、したがって、その断片化の中に解決はありません。生の中のこの断片化の基盤、機構は何でしょうか? 内的にだけでなくて外部的にも―様々の国、宗教、慣習へのこの分裂? この断片の一つを通して、人は統合、完全さ、悟り―あなたが呼びたい何でも―に到達することを望むのです。すなわち、断片化を通して、あなたは非断片的な心を獲得するのを望むのです。それは可能でしょうか? ヨーガの行者、聖者、様々な導師はこれらのことすべてを約束します。それで、なぜ断片化が生じるか、その機構は何であるかを人は見出さなければなりません。その過程が何であるか、言葉上で、あるいは知的に結論を下すのではなくて、非分析的にその機構全体を実際に見ること。私がこれをあなたに伝えているかどうかわかりません? 伝えていないなら、どうか中断してそれを討論しましょう。

質問者: あなたの言う これらの賢人たち、これらの賢者たちは悟りを開いた人たちではないのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはどう思いますか? あなたは私の意見を尋ねているのですか? 愚かな人のみが意見を言います!(笑い) 誰が悟りを開いているか、どうやってあなたは知りますか? あなたは決してそのことを尋ねません。私は演壇に座り、私がもっとも賢い、もっとも悟りを開いた、もっとも神聖な人間であると言うかもしれませんが、どうやってあなたは知りますか? これは世界中で起こっていることです。人が来てこれらの断言をします。あることをなさい、そうすればあなたは悟りを得るだろうと言います。「私はそれを得た。それをあなたに授けよう。」彼が悟っているかどうか、どうやって知りますか? なぜ、誰が悟っているのか、誰が悟っていないのかで頭を悩ますのでしょうか?

質問者: 特定のことをすれば自分自身を経験することができます。方法があるはずです。

クリシュナムルティ: いいえ、あなた、方法はありません。私たちは全くあなたに方法を示してはいません。私たちは学んでいるのです。学ぶことは方法ではありません。方法を通じて学ぶこともできますが、それはただ心をその特定の方式に条件付けるだけです。学んでいるなら、あなたは観察します。一つの方式が心を条件付けそれを機械的にするということを学ぶなら、そのとき、方式はすべて同じことです。あなたは方式が何をするかを学びます。何かの方式によってたいへん驚くべき経験をすることができますが、それもなお非常に限定された経験です―これは非常に明白です。

質問者: 方式を使うことが出来るでしょうに。例えそれが部分的であっても、その着想を得ることから始めることができないでしょうか? 次にそこから大きなものを得ることに進むのです。

クリシュナムルティ: 松葉杖で始め、あとになってそれらを投げ捨てることは役に立たないでしょうか? 私たちの問題はこうです。自分が観察し、自分自身で存在の現象全体を見守ることから学び、それを超えることができるときに、なぜ何かのひもにしがみつくのでしょうか? あなた、あなたは助けられたいのです。謹んで指摘してよろしければそれは最大の障害です。あなたは誰かがあなたを教えることが出来るという考えを持っています。したがって、あなたはまさしく断片化で始めるのです。この分離は断片化です―あなたと教師、あなたと悟った存在―明らかに分離があります。

質問者: しかしあなたは教えているのではないですか?

クリシュナムルティ: わたしが? はじめから話し手は教師も弟子もないと言ってきました。45年にわたって話し手はこのことを言い続けてきました。愚かさからや反応としてではなくて、誰も何かの方式や瞑想や何かの修練によって他人に悟りを教えることは出来ないという真実を知覚したからです。そのことを45年前に見たのです。しかしながらあなたは尋ねます。あなたは教師なのかそうでないのかと。私はそれを示しました。教師は知識を蓄積しており、それを他人に伝える人を意味します。教授と生徒のように。私たちはここではまったくその関係にありません。私たちは共に学んでいるのです。私たちはそのことを非常に明確にしました。コミュニケーションはすべて共に学ぶこと、共に創造すること、共にじっと見ることを意味します。そのことが理解されるなら、そのとき、私たちのコミュニケーションはまったく異なります。しかし、あなたが、話し手が演壇に着席しているので、彼はより知っている、彼は悟った人であるという感じを持つなら、私は、どうか ものごとが演壇に着席している人に備わっていると考えないでください、と言います。あなたは悟りについて何も知りません。もしもそれを知っているなら、もしもそれを理解しているなら、それを生きているなら、あなたはここにいないでしょうに。見出すこと、学ぶことはもっとも途方もないことの一つです。「教えられる」のではなく―あなたはこのことを教えられるために100ドル支払いません。ちょっと考えてください―真理を学ぶためにお金を払うことを! みんな何をしているのでしょう?
 それで、皆さん、私たちは断片化のなかに含まれていることを見出そう、学ぼうとしているのです。教師と弟子―それは断片化です。高位の自我と低位の自我、魂と肉体、この絶え間ない分離。

質問者: 思考は一時に一つの事に注意することが出来るだけです。あなたは思考が断片化の原因であるとおっしゃっているのでしょうか? 思考がそのことに注意を払うことができるだけであって、残りは全て捨てるのであるなら、そのとき思考は必ず断片化を引き起こします。思考の過程そのものが断片化です。

クリシュナムルティ: 私たちはそれを学ぼうとしているのです―どうか結論を引き出さないでください。私は、なぜ私たちは断片化して生きているのかを尋ねています。どうやってそれは起こるのでしょうか? そしてこの断片化を求める要求の背後に何があるのでしょうか? 非常に単純な事実を取り上げましょう。あなたは教師であり、私は弟子です。なぜあなたと私の間のこの分離があるのでしょうか? 私は学びたいのでしょうか、それともあなたが代表する、あなたがあなた自身投資してきた権威に従いたいのでしょうか? あなたは自分は知っている、自分は悟っていると言います。そして私はそれを得たい。私は貪欲です。私は私に幸福を与えてくれるものが欲しいのです。そこで私はあなた、教師に、弟子として従います。断片化は私があなたに従うときに存在するのです。私はなぜ私があなたに従うのか、今まで一度も尋ねたことがなかったのです。理由は何でしょうか、あなたを私の権威として受け入れる基盤は何でしょうか? あなたは狂気のノイローゼ患者かもしれません。あなたは、ものすごいことであるとあなたが誇張してしまった何かのつまらない経験をしたのかもしれません。そして私は判断することができません。なぜなら、あなたのひげや目で、あるいはそれが何であろうが、私を魅了してしまったからです。そして私はただ従います。ところが私は学びたいのです。私はあなたを権威として受け入れません。なぜなら、あなたが権威になるやいなや、あなたはもう断片化をもたらしてしまっているからです。どうかそのことを見てください。
 それが精神的、政治的、軍事的な権威のどれであるかは重要ではありません。権威の前提―あなたは知っていて私は知らないという前提―があるやいなや、断片化があります。そしてそのことは不可避的にあなた、教師、と私の間の葛藤につながるでしょう。このことは明確でしょうか? それゆえ、それは、私は誰かに決して従わない、ということを意味します。

質問者: 彼があなたのためになるなら、あなた、なぜそれをしてはならないのですか? 何もないより断片的なことでも持つ方がいいのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: 教師は私に何かを教え、私はそれをし、それをすることの中に大きな喜び、大きな楽しみがあります。私は理解したのです。そのことのなかに何が含まれていますか? 私が経験を切望していること、私が理解しようと切望していること―私自身をではなくて、導師が言っていることを。もしも導師が「あなた自身を理解しなさい」と言うなら、そのことはほかの何よりもはるかに重要です。私を理解しようとするのではなくて、あなた自身を理解してください。あなたはあなた自身を理解するよりむしろ従おうとしているようです! そこで、なぜこの断片化があるのでしょうか?

質問者: 私たちは断片的な過程からできているからです。私たちの能力は断片的です。各々の能力が部分的な働きを持っています。

クリシュナムルティ: あなたは工学の能力を持っています。なぜその能力から断片化が起こらなければならないのでしょうか? 私はピアノを弾く才能を持っています。なぜそれが断片化を引き起こさなければならないのでしょうか? あなたは本末を転倒していないでしょうか? 断片化を引き起こすのは才能でしょうか? それとも、心がばらばらになっており、一つの断片、一つの才能を使用していて、したがって分離をさらに強化しているのでしょうか? 私の言っていることがおわかりでしょうか?
 私はこの断片化を学びたいのです。もしも私がひとたびそれを解決できるなら、私の行為はまったく違うでしょうに。それは断片的ではないでしょうに。それゆえ、私は見出さなければなりません。私は何かの結論に達しようとしているのでも、何かの結論で始めようとしているのでもありません。断片化があります―教師と弟子、権威、追随者、自分は悟っていると言う人、「私は知らない」と言う人、共産主義者、社会主義者―なぜ? どうやってそれは起こるのでしょうか? もしも私がそれを本当に理解できるならば、それをすべて学ぶことができるならば、私はそれを終りにするでしょうに。そのときは、私の他人との関係はまったく違っているでしょう。そのときは、私の活動はいつも全体的であるでしょう。それゆえ私はそれを学ばねばなりません。どう思いますか、皆さん?

質問者: 私たちは期待と願望の中で生きています。

クリシュナムルティ: 私たちは期待して生きています。そしてその期待そのものが断片化の一形態です。あなたは何を期待していますか? それは断片化の本当の原因でしょうか? それは断片化の結果の一つです。成功を望むことのように。成功を望むことは私の断片化の結果の一つでしょうか? それはものすごく重要です。私は成功を望みます―絵を描くことや著述によって、あれやこれやによって。それでこの断片化の基盤は何でしょうか?

質問者: それは私たちの各才能が限定されているからです。私たちの視野は限定されています。私たちの感覚と知能は限られています。ひとは全体を一度に見る可能性を持っていません。

クリシュナムルティ: 私の視野は一方向だけです。もしも頭の後ろに目があれば全部のものを見ることができるでしょうが。それが私たちが討論していることでしょうか? そして私たちの視野は限定されていると言うことが? もちろん私の物理的視野は限定されています。私はアルプス山脈全体を見ることはできません―たぶん飛行機で上にあがれば見ることができるでしょうが。しかし、確かにそれは私たちが討論していることではありませんね? 私たちはなぜ心が、脳が分離するかを討論しています。

質問者: 世界全体を同時に考えることはできません。

クリシュナムルティ: それゆえあなたは言っています。思考がある限り断片化は存在する。思考は同時に全体の物事を考えることはできない。それが断片化の原因であると。

質問者: ええ、ほかの人たちとの私たちのコミュニケーションもまた断片的です。今まさに私たちは自己認識を考えているのであって、山に登ることではありません。あらゆる事をまとめることはできません。

クリシュナムルティ: では私たちが話していることを明確にしましょう。山に登ることではなく―あなたが指摘するように、あなた―頭の後ろに目を持つことでもありません。そうではなくて、私たちの心、私たちの考え方、見方、聞き方、結論に達するやり方を話しているのです。なぜ不可避的に断片化をもたらすこの過程があるのでしょうか? それが私たちが論じていることです。

質問者:この全てを論じることがすでに断片から成っています。

クリシュナムルティ: それゆえこの問題そのものを論じることが断片化の状態です。しかし私たちはなぜこの断片化が存在するかを尋ねているのです。なぜ私はあなたと完全に通じ合うことができず、あなたは私に完全に伝えることができないのでしょうか? 見出しましょう。これをゆっくり調べましょう。この断片化の過程、機構、原因は何でしょうか?

質問者: 私たちは、自分自身についての私たちの観念に、特定のものごとについての私たちの観念に執着しているからです。

クリシュナムルティ: ええ、私たちは結論に執着しています。そしてそれが断片化の原因です。なぜ私たちは結論に執着するのでしょうか?

質問者: 私はなおそれはコミュニケーションのためであると考えます。例えば学校でフランス語と英語と地理の授業を受けます。はじめから教育は断片的です。

クリシュナムルティ: あなたは、私たちの教育は断片的であり、それゆえ心はすでに子供の頃からこの断片化によって条件づけられていると言っています。

質問者: 思考の過程が結論を形成することです。結論を形成することなしに考えることはできません。

クリシュナムルティ: それゆえ、あなたはすべて、多かれ少なかれ違った言葉で、思考があらゆる断片化の源泉であると言っています。

質問者: 思考は私たち自身の断片です。

クリシュナムルティ: ええ、思考、それは考えることですが、断片的です。それは私達自身の断片です。

質問者: 私たちの思考の結果は、私たちの結論は、いっそうの断片化に帰着するに違いありません。

クリシュナムルティ: そのとおりです、あなた。それゆえ、あなたはあなたが学んでいるのと同じように学んでいる私に、思考は全ての断片化の源であると言っているのです。見出してください、はいとか、いいえとか言わないでください。思考は結果、記憶の応答です。記憶は過去です。そしてその過去の記憶は常に分割されています―明らかに。過去、今日、明日。過去の経験、今日の経験、そして未来。「私は学ばなかった、私は知らない。私はあなたから学ぶつもりである」と過去は言います。そのことが断片化の主な原因ではないでしょうか? どう思いますか、皆さん?

質問者: あなたは時間について話していたときすでにそう言いました。時間に気づくことは私たちの注意を現在から取り除いており、それゆえそれは分割します。

クリシュナムルティ: 確かに時間は分割します。時間とは何でしょうか? 見出してください、あなた。年代的な時間があります。私は特定の時間に出る列車に間に合うように駅に行かなければなりません。そして達成の、成功の、「あなたは知っている」、「私は知らない」、「私は学ぶつもりだ」という時間があります。その全てが心理的時間を含んでいます。すなわち、「私は一歩一歩学ぶつもりだ」と思考は言います。徐々に私は全部の段階を登り、ついにはその素晴らしい状態に達する予定です。それで成功を望む思考によって作り出される分離があります。成功、今回は金ではなくて、悟りあるいは信念です。
 それで、この断片化を引き起こす機構は思考であるとあなたは言っているのでしょうか? 「あなたはヒンドゥー教徒だ」、「あなたはカソリック教徒だ」、「あなたは褐色だ」、「あなたは黒だ」、「あなたはピンクだ」と言ってきた思考。思考は特定の社会の価値と文化を決定して来ました。それはその文化に属さないあらゆる人を野蛮人だと言います。このことはまったく明確ではないでしょうか? 思考がこの断片化に対して、責任があるなら、あなたはそれをどうするつもりですか? 私は生計を立てねばなりません―生きるために稼がねばなりません。家族があるのです。そしてまた、私の問題、私の野心、私の成功を持っている「私」があります。
 それゆえ、生計があります。家庭があります。職務とその職務から地位を得ようとする欲望があります。そして「私」―すべて断片化しています。さて、私はどうすればいいでしょうか? 私は思考がこのすべてに対して責任があるのを見ます。それはそうでしょうか、それともそうでないでしょうか? 私たちは学んでいます―話し手が間違っているなら、教えてください。見出してください!

質問者: しかし私たちはいつも考えています。私たちはまさにこの瞬間考えています。

クリシュナムルティ: 待ってください。私たちは見出そうとしているところです。これは全体の要点です。私たちは考えています。そして「私は生計を立てなければならない。家族、娯楽、成功、悟りを見出そうという望み、導師、権威、そのすべてがある」と私たちは言います。そしてこのすべてを何とか切り抜けている私があります。そしてあなたが思考はこれに対して責任があると私に話します。私は特定の文化がもたらした思考を持っており、その文化が私を条件付けているのです。思考はこれをしました。そして思考はまた生計を立てなければなりません。思考は家族のために、子供のために金を稼がなければならないと言います。それゆえ、思考はそれに責任があります。あなたが正しいのは確かですか? あとでそのようなことではないと言わないでください―よく確かめてください、学んでください。

質問者: 思考の背後にも何かがあるという感じがします。

クリシュナムルティ: 私たちはそのことに到るでしょう。最初に私たちが取り扱っているものを見ましょう。しかし、思考の機構全体を理解するのでないと、思考の背後にあるあるものに到ることはできません。さもなければ、思考から単に逃げているに過ぎません。さて、思考は分割するということは真理でしょうか―あなたの真理や私の真理ではなく、私の個人的意見やあなたの意見ではなく―それは事実でしょうか? 思考は生を今に、そして死を明日に分割します。私は明日死ぬでしょう。しかし思考は「おまえは死ぬだろう」、「脅えるだろう!」 と言います。あるいは思考は「それは素晴らしい快楽だ。私はもっとそれを持たなければならない」と言います。また思考は「私は私がしたことを恐れる。気をつけよう。それがまた起こってはならない。それが見つかってはならない」と言います。それゆえ、思考は恐怖、苦痛、快楽を育てています。思考は分割します。それは真実です。あなたがそれを見ようが見まいが。そこで、思考が断片化を引き起こし、それゆえ分離を維持することを知って―あなたはどうするつもりですか?

質問者: 思考それ自身が分割するのでしょうか、それともそれは私たちが自分の思考を使う仕方なのでしょうか?

クリシュナムルティ: 「私たち」とは誰でしょうか? 分割する思考を使う「私」とは誰でしょうか?
 何の結論にも達しないでください。まず、話し手が言っていることを聞いてください。生活の糧は稼がなくてはなりません。それで、思考はそこに使わなければなりません。私は家に帰り、思考は「私の家庭」、「私の責任」と言います。あるいは「私はセックスが非常に楽しい」、「私は非常に苦しんでいる、妻が逃げるかもしれない」と言います。断片化を引き起こしながら、思考は常に働いています―教師、弟子、成功。思考が断片化をもたらすことを知って、それは恐怖を意味しますが、葛藤を意味しますが、あなたはどうするつもりですか? 断片化はどんな平和もまったくないであろうということを意味します。平和を語り、平和を約束する組織に参加するかもしれませんが、思考による断片化がある限り平和はありません。そこで、その事実に直面するなら、何が起こるでしょうか?

質問者: 私は私自身を思考と同一と見做します。

クリシュナムルティ: 思考とそれ自身を同一と見做す「私」とは誰ですか? 思考が「私」を作り出したのではないですか? 私の経験、私の知識、私の成功である「私」―それはすべて思考の産物です。そしてそれは高位の自我、神であると言うなら、それはなお思考です。あなたは神についての思考を持っています。そこで、あなたはどうしますか?

質問者: 思考は終らなければなりません。

クリシュナムルティ: どうやってそれは終るのでしょうか? 聞いてください、あなた、機械的な何かを、車を運転するのでさえ、するときには、思考は働かなければなりません。あなたは思考はまったく終らなければならないと言います。それでは生計を立てられません。家に帰れません。話すことさえ出来ないでしょう。あなた、自分自身を見守ってください。見出してください。このことを学んでください! 思考は使われなければなりません。そして思考は、それが断片化を引き起こすことを見ます。そこで思考はどうすればいいでしょうか?

質問者: ほとんどあらゆる討論で、この点に私たちは到達するように思われます。私の質問はこうです。そのことは答えることができる質問なのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは見出そうとしています。

質問者: 私は気になります。なぜなら、それの行き詰まりを私は見るからです。

クリシュナムルティ: 今やどうしたらいいかわからないということを知って、学びますか、あなた?

質問者: それが可能なら。

クリシュナムルティ: なぜ「それが可能なら」とあなたは言うのでしょう? 私の質問はそれが可能か可能でないかではなくて、「これを学びますか?」と言いました。学ぶ―それは何を意味するでしょうか? 好奇心―そうではないでしょうか? 気まぐれに異議をとなえないでください。あなたはこれを学ぶことに熱心、情熱的ですか? なぜなら、これは私たちの問題をすべて解決するかもしれないからです。したがってあなたは見出すために熱烈で、好奇心が強く、情熱的でなければなりません。あなたはそうですか? それとも、「私は待つつもりだ。これまでは私は結論で動いてきた。私はもうひとつの結論を作り、それから行動しよう」と言うつもりですか?
 学びたいのなら、次の三つのことが絶対に必要です。好奇心、熱心さ、そしてエネルギーがなければなりません。そのエネルギーはあなたに見出すための、学ぶための情熱を与えます。これらのものをあなたは持っていますか? それともただこのことを無頓着に話したいだけでしょうか?

質問者: それは一点に的をしぼることでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえあなた、学ぶことは一点にしぼった学習ではありません。学ぶことは学びたい心、見出したい心を持つことを意味します。「私は山が何でできているか知りたい」と言う子供のように。

質問者: 私は学ぶことに執着するようになるかもしれません。

クリシュナムルティ: あなた、なぜあなたは言われたことをあなた自身の言葉に翻訳するのでしょうか? ひとはとても多くのエネルギーを持たなければならない、見出したがるのでなければならない、しつっこくなければならないと私は言いました。ほんのちょっとの間好奇心でいっぱいですが、次に「すみません、私は疲れ過ぎた、うんざりした、外に出て煙草を吸いたい」と言うのではなく。その場合は学ぶことはできません。

質問者: 私は確実さが必要です。確実さがないなら私は恐れます。

クリシュナムルティ: その質問、「それが残りの私の人生に対し完全な確実性を私に保証してくれるなら私は学ぶでしょう」、をよく聞いてください。

質問者: この断片化は私に安全の感じを与えてくれ、私はこの錯覚が必要です。

クリシュナムルティ: そしてあなたはやってきて私の安全を乱します! 私はしたがって脅えます。私は学びたくありません。これがあなたがもっぱらやっていることです! 私は本を書くことに大きな喜びを見出しており、そして私が断片化から動いていることはわかっています。だがその本は私に名声、金、地位を与えてくれます。私に話しかけないでください。家は燃えています。しかし私を妨害しないでください!
 このことから進みましょう。思考が全ての断片化の源泉であり、なお思考は使用されなければならないなら、何が起こるでしょうか? どうやって思考は機能せず、しかもなお、機能すればいいでしょうか?
 思考は断片化に責任があります。そして結論はすべて断片化です。どうかそれを見てください。「私は安全でなければならない」、「私は不確実なことを恐れる」。だが、物理的安全―それがあなたが望んでいるものです―そのうえ心理的自由を与えてくれる生き方があるかも知れません。その自由は完全な物理的安全をもたらすでしょうが、あなたはこの事が見えません。そこで私たちは学ぼうとしているところです。
 思考が断片化に責任があり、それにもかかわらず、思考は生き残るために機能しなければならないなら、そのとき思考はどうすればいいでしょうか? 私の質問がわかりますか? わからないなら、どうかこの質問それ自体を調べましょう。私はここから私の生活する場所に行くために、金を稼ぐために、仕事しに行き、そこで適切に働くために思考を使わねばなりません。それなのに、思考はそれ自身で、それが断片化の、したがって葛藤の原因であることを見ます。思考はそれが機能しなければならないことを見ます。そして思考は、断片化をもたらしているそれ自身を見ます。

質問者: 断片化を実際に見ることは断片の間の結合でしょうか?

クリシュナムルティ: いいえあなた、それは結合ではありません。断片を組み立てて、それらを一つの全体にすることはできません。多くの車輪の輻が車輪を作りません―車輪を作るのは輻を組み立てるやり方です。

質問者: 私たちは思考を使わねばならないので、そして断片化を望まないので、思考のこの断片化を作ろうとする傾向を、ちょっと意識していることは出来ないでしょうか?

クリシュナムルティ: 思考が断片化をもたらすことを意識しているなら、この全体の過程を意識していることそのものが、まったく異なる性質をもたらします。それがあなたが言っていることでしょうか? それがあなたに起こっていることでしょうか? 気をつけてください、あなた。非常にゆっくりこの事を調べましょう。思考は使われなければなりません。そして思考はまた、それが断片化、したがって葛藤と恐怖と世界の悲惨のすべてを作り出すことを理解します。その上、思考それ自身が―あなたは示唆しています―この全体の過程を意識していなければなりません。さて、何が起こるかを見てください。私たちは思考は断片化の基盤であると言いました。したがって、思考がそれ自身とそれが断片化を作り出すやり方を意識するとき、思考はそれ自身をこれとあれに分割します。

質問者: 私たちは思考を使わねばならないし、断片化の原因となっている思考の種類を意識していなければなりません。

クリシュナムルティ: このことをゆっくり調べましょう。「意識する」という言葉はどういう意味ですか?

質問者: 見ること。

クリシュナムルティ: 「見る」とはどういう意味ですか? あなたはこの過程を機械的に見ますか? なぜなら、あなたは言葉を聞いており、知的に理解しており、これらの言葉と知的な結論を見ることに適用する意図を持って見るからです。気をつけてください。「いいえ」と言わないでください。あなたは結論を持って見ているのでしょうか、それとも単に見ているに過ぎないのでしょうか? わかりましたか?

質問者: あなたがこの質問をしていた時点で、あなたはあなた自身実際に質問を尋ねていましたか? なぜなら、この時点で質問があるなら、それは再び断片化であるように私には思われるからです。

クリシュナムルティ: 女性の方が、質問を尋ねているなら、そのときあなたは断片化を再び始めている、と示唆しています。

質問者: そしてもしそうなら、この調査全体は何であったのでしょうか? それはどんな妥当性を持っていたのでしょうか?

クリシュナムルティ: それをあなたに説明しましょう。あなたはこの点に来て、質問しました。そして女性の方が、「誰がこの質問をしているのですか?」と言っています。質問をしているのは思考でしょうか? 思考であるなら、そのときそれは再び断片化です。あなたが学んでいないので私はそれを尋ねています。したがって私はそれを見出そうとしています。
 私はこの映像を持っています―心はそれを大いに見ています―いかに思考が断片化してしまっているか。思考は機能し、そしてこのことを見なければなりません。あなたが実際にこのことを完全に見ているなら、それ以上質問はありません。結論がなく、それを解決しよう、それを超えようとする欲望がないなら、あなたはただこれを見ることができるだけです。思考のこの全体の機構―それが作用する仕方、機能する仕方、このすべての背後にあるもの―を完全に見るときのみ、そのとき、問題は解消します。そのとき、あなたはいつも非断片的に機能しています。たとえ事務所に行っても、あなたがその全体を見ているなら、それは非断片的行為です。全体を見ていないなら、そのときあなたは事務所、家族、あなた、私に分割します。さて、あなたはその全体を見ていますか?

質問者: あなた、あなたは二重性のない生を続け、なおかつ、社会の中で機能することが可能であるということを示唆しているのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私はそれをあなたに示しているのですよ、あなた。あなたがこの思考の全機構を、ただのその一部ではなく、その性質と構造と運動の全体を見るなら。

質問者: どうしてあなたはそれをそんなに早く学べるのでしょうか?

クリシュナムルティ: いま聞くことによって! ほら、再び達成しようという欲望があります! それはあなたがまったく聞いていないということです。あなたの目、あなたの耳、は成功することに固定されています。
 そこで、あなた、私の質問はそのときこうです。友人として尋ねるのですが、あなたはこのこと全体を見ていますか? そして友人は言います。「あなたは見なければなりません。さもなければ、あなたはひどい、惨めな生活を送ることになりますよ―戦争があるでしょう。そのような悲しみがあるでしょう―後生だからこれを見てください!」 そしてなぜあなたは見ないのでしょう? 何があなたを妨げているのでしょう? あなたの野心? あなたの怠惰? あなたが持っている数え切れない結論?
 さて、誰がそれに答えようとしているのでしょうか?

質問者(1): なぜそれに答えます? ただそれをすること。
質問者(2): 結論を持っていることを知っていますが、しかし私はそれを除くことができません。それらは続きます。
質問者(3): いったいどうやって私たちは安全であることができるのでしょうか?

クリシュナムルティ: それは同じ古い質問です。安全である方法を私に教えてください、それは人間の永久に続く質問です。

質問者: たぶん、私たちが、昨日や去年ではなく、いま生きているということにもっと気づくのがよいでしょう。過去に生き、未来を夢見ることによって、多くの注意が取り除かれてしまいます。

クリシュナムルティ: あなたは現在に生きることができるでしょうか? それは時間のない生を生きることを意味します。

質問者: 肉体的に、私は生きています。

クリシュナムルティ: 私はあなたに尋ねているのですよ、あなた。ひとは現在に生きることが出来るでしょうか? 現在に生きるためには、時間がなく、過去がなく、未来がなく、成功がなく、野心がないのでなければなりません。あなたはそれができますか?

質問者: ほんのちょっと。(笑い)何かを建てる過程そのものが、仮に家だとすれば、計画がなければならないことを意味します。

クリシュナムルティ: もちろん、あなた。家を建てるためには建築技師がいなければなりません。建築技師が設計し、建築業者がその計画にしたがって建てます。同様に、私たちは計画を望みます。あなたは設計技師です。私に計画をください。そうしたら私はその計画にしたがって動きましょう。

質問者: 私はそのことを言ったのではありません。建てるのに具体的なものである家を建てたいと言ったのです。私たちは確かなものを計画しなければなりません...

クリシュナムルティ: そこで思考を使います。

質問者: それゆえ私たちはいまにだけ生きることはできません。

クリシュナムルティ: 私はそのことを一度も言いませんでした、あなた。あなたがこの質問を本当に注意深く見るとき、決して「どうやって現在に生きればいいのだろうか?」とは問わないでしょう。思考の性質と構造を非常に明確に見るなら、そのとき、あなたは常にあらゆる思考から自由である心の状態から機能することができ、それにもかかわらず思考を使うことができることを見出すでしょう。それは本当の瞑想です、あなた、あるゆる偽のがらくたではなく。
 さて心は既知のものでそんなにも混雑しています、それは思考の産物です。心は過去の知識、過去の経験、記憶の全体で満ちています―それは脳の一部です―それは既知のもので満ちています。私は既知のものを未来の観点や現在の観点から翻訳するかもしれませんが、それは常に既知のものからなのです。分割するのはこの既知のものです。「過去を知っている」、「私は知らない」、「私は知るだろう」。この過去はその記憶の蓄積すべてを伴って、「これをせよ、あれはするな」、「これはあなたに確実性を与えるだろう、あれは不確実さをもたらすだろう」と言います。
 それゆえ、脳を含めて、心全体が既知のものがないとき、そのとき、あなたは必要なときに既知のものを使うでしょうが、常に未知のものから―既知のもののない心から機能します。あなた、これは起こります。そのことはそれが思えるほど難しくありません。あなたに問題があるなら、一日か二日それを考え、それについて熟考し、それに疲れてしまいます。どうしたらいいかわからず、あなたは眠ります。次の朝、あなたが鋭敏なら、答えを見つけています。すなわち、あなたはこの問題に、有利であること、好結果であること、あなたに確実性をもたらすことの観点から、既知のものの観点から、それは思考ですが、答えようとしたのです。そしてあらゆる思考を働かした後で、思考は「私は疲れた」と言います。そして次の朝、あなたは答えを見つけました。すなわち、心を働かせ、思考を限度いっぱいに使い、そしてそれをやめたのです。そのときあなたはまったく新しい何かを見ます。しかしあなたが結論から結論へ―それは既知のものです―いつも思考を働かし続けるなら、そのとき明らかに、あなたは決して新しい何も見ないのです。
 これは途方もない内的な気づき、内的な秩序の感覚を必要とします。無秩序ではなくて秩序の。

質問者: 手順の方法がありますか?

クリシュナムルティ: ねえ、あなた―私は立ち上がり、数歩歩き、段を降ります。それは手順の方法でしょうか? 私はただ立ち上がりそれを自然にするだけです。方法を考案し、それに従うのではありません―私はそれが見えます。あらゆる事を方法に還元することはできません!

質問者: いったいあなたは、あなたが持った印象のこの倉庫を空にすることが出来るのですか?

クリシュナムルティ: あなたは間違った質問をしました。「いったいあなたはできるのか」と言っているので、それは間違った質問です。「あなた」とは誰でしょうか、そして「いったい」とはどういうことでしょうか? それはそのことは可能なのか?ということです。
 皆さん、よく聞いてください。私たちは決して不可能な質問をしません―私たちは常に可能なことを質問しています。あなたが不可能な質問をするなら、あなたの心はそのとき、不可能なことの観点から答えを見つけなければなりません―可能なことの観点からではなく。すべての偉大な科学的発見はこのこと、不可能なこと、に基づいています。月に行くことは不可能でした。しかし「それは可能だ」と言うなら、そのときあなたはそれをやめます。それが不可能であったので、三十万人の人たちが協力しそれに取り組んだのです。夜も昼も―彼らは心をそれに傾け、月に行きました。しかし、私たちは決して不可能な質問をしません! 不可能な質問はこれです。心はそれ自身で既知のものを空にすることが出来るでしょうか?―それ自身で、あなたが心を空にするのではなく。それは不可能な質問です。それにとてつもない熱心さで、真剣さで、情熱で取り組むなら、あなたは見出すでしょう。しかし「おお、それは可能さ」と言うなら、そのとき、あなたは行き詰まります。

1970年8月5日

(訳者: N.Goto)'98.05.-'98.06.掲載 2003.04.修正

ザーネンの公開講話・対話

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