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1970年 ザーネンの公開対話(第6回)

Saanen 6th Public Dialogue 7th August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

Part2 Dialogue 5

意識と無意識、意識の未開の領域は何なのか? 
分離は実際にあるのか、それとも断片の一部か?
誰が無意識を「知りたがっている」のか? 断片化の誇張としての神経症。
断片との同一化の無益さを見る必要性、「観察者」としての断片。
「成ること」と「何ものかであること」は意識であり、私たちはその中で生きている-抵抗の仕方。
観察としてこれを見ることと、これは「私」であるのを見ることの間の相違。 夢。
私は次の質問を尋ねる立場にあるでしょうか―「意識の向こうにあるものは何か?」

クリシュナムルティ: 私たちは今朝、意識の下によこたわるものを一緒にじっくり話し合う予定です。あなたがそれを少しでも調べたことがあるのか、あるいは単に精神分析者や心理学者が言ったことを受け入れているに過ぎないのかどうか、私にはわかりません。しかしそれをかなり深く調べるなら―今朝私たちがするだろうと私が望んでいるようにですが―一二の主要な基礎的問題が尋ねられなければなりません。人は意識の全内容を、自分自身で見出し、探り、学ばなければなりません。なぜ人は無意識と意識を分けるのでしょうか? それは精神分析者、心理学者、哲学者によってもたらされた人為的分離でしょうか? いったい分離があるのでしょうか? ひとが意識の構造と性質の全体を調べるつもりであるなら、調べようとしているのは誰でしょうか? 断片の中の或る断片? それとも、意識を調べている、このすべての向こうにある実体、作用があるのでしょうか? 意識的な心、日常働く心は無意識、あるいはより深い層の内容を観察できるでしょうか? そして意識の未開の領域は何なのでしょうか? 範囲は何なのでしょうか?

 これは非常に重大な主題です。それの理解の中で、人間の問題のたいていは解決するだろうと私は思います。それは上滑りに二つの週の間学ぶ趣味として取り上げ、それから、日常の生活を続けるためにそれをやめるということではありません。このことを深く調べるつもりなら、それは生き方なのです。それはそれを理解して、そこに置き去りにしておくというものではありません。それが毎日の関心である場合にのみ、あなたは意識の全部の内容と意識の範囲を理解できるのです。それはもてあそべるものではありません。それはあなたの人生の全体、あなたの衝動の全体、あなたの使命感でなければなりません。なぜなら、私たちは人間の心の深みそのものを、あなたの意見や話し手の意見にしたがってではなくて、その豊かさを学び、その向こうに何があるかを見て調べているからです―ただ表面を引っ掻き、それを理解したと思うのではなく。それは本や他人から学ぶものではありません。どうかこれをよく理解してください。それは本から知識として獲得し、次にそれを応用するというものではありません。そうするならそれは価値がないでしょう。それは受け売りであるでしょう。そしてあなたがそれを単に知的、精神的、感情的な娯楽の一つの形として取り扱うに過ぎないなら、そのとき、同様に、それはあなたの生の中でまったく効果がないでしょう。私たちは心の、自分自身の構造全体の根本的な革命―心がその条件付けのすべてを免れる、にかかわっているのです。それで、私たちはただ教育され洗練されているだけでなくて、ほんとうの、成熟した、深い人間であるのです。

 今朝、私たちは、できればですが、意識の下にあるものを共に学び、多くの層(あるいは一つの層)を見て、私達自身で意識の内容、その内容が意識を形づくっているのかどうか、あるいはその未開の領域を伴う意識が「いまあるもの」を含んでいるかどうか、を発見するつもりです。意識の内容が意識を形づくるのでしょうか? おわかりですか? あるいはこれらのものすべてが内容の中に存在するのでしょうか? 違いがわかりますか? 私はいま調べるところです。私はゆっくり動いています。それゆえ一緒に旅をしましょう。あとで私に「どうか言ったことを繰り返してください」と頼まないでください―私はできません。

 第一に、なぜ、意識といわゆる無意識あるいはより深い層との間に、この分離があるのでしょうか? あなたはこの分離に気づいていますか? それとも、生の中に非常に多くの分離を持っているためにこの分離が存在するのでしょうか? それはどちらですか。意識的運動は分離した運動であり、深い層はそれら自体の運動を持っているのでしょうか、それともこの全体のものごとは分離していない運動でしょうか? 私たちがこれを見出すことは非常に重要です。なぜなら私たちは意識的な心を訓練してきたからです。社会の要求にしたがって、また私達自身の衝動、私達自身の攻撃性などにしたがって、私たちはそれを教え込み、教育し、強制し、形作ってきました。無意識、より深い層、は教育されていないのでしょうか? 私たちは表面の層を教育してきました。私たちはより深い層を教育しているでしょうか? あるいはより深い層はまったく触れられていないのでしょうか。あなたはどう思いますか?

 より深い層には源泉と新しいことを見出す手段があるかもしれません。なぜなら表面の層は機械的になっているからです。それらは条件づけられており、反復的で、模倣的です。見出すための、動くための、飛ぶための、風を捉えるための自由はありません! そして深い層には、それは教育されていません、それは教化されていません、したがってとてつもなく原始的ですが―原始的、野蛮ではなく―新しい何かの源泉があるかもしれません。

 あなたが何を感じるか、あなたが何を見出したか私にはわかりません。表面の心は非常に重く条件づけられているため、機械的になってしまったのでしょうか? 私がヒンドゥー教徒やキリスト教徒であるなら、私はヒンドゥー教徒やキリスト教徒、あるいは何であれ、それとして活動します。そしてそれの下に、教育が触れていない層があるのでしょうか? あるいはそれも教育に触れられていて、したがって意識の内容全体が機械的なのでしょうか? ついてきていますか?

質問者: あなた、どうやって無意識を知ることができるのですか?

クリシュナムルティ: よろしい、あなた、始めましょう。私たちが「知る」という言葉を使うとき、それはどういう意味でしょうか? 私は単に言葉の上にいるのではないので、私たちはこれに非常に注意深く入っていかなければなりません。「私は知りたい」と言うとき、それはどういう意味でしょうか?

質問者: 私はその経験を何も持っていません。

クリシュナムルティ: 前の一つの言葉を固守してください。それを調べてください。他の言葉を導入しないでください。「知る」というその言葉はどういう意味でしょうか? あなたがその言葉を使うとき、それはどういう意味でしょうか? 「私は昨日起きたことを知っている。」 すべての知識は過去のものです―そうではないでしょうか? どうか同意しないでください。ただ見てください。私は昨日あなたに会ったのであなたを知っています。私はあなたの全部に会ったのではなく、あなたが何か言っていたときにあなたに会っただけです。したがって知ることは時間の特定の期間の範囲内を意味します。それゆえ知識は常に過去を意味します。私が、「あれは飛んでいる飛行機だということを知っている」と言うとき、飛ぶことはこの瞬間起きているけれども、それが飛行機であるという知識は過去のものです。どうやって表面の心はより深い層を学ぶことが出来るでしょうか? どうやってその表面の心はもう一方のものを学ぶことができるでしょうか?

質問者: 表面の心を静かに保つこと。そのとき、それはより深い心を学ぶことができます。

クリシュナムルティ: より深い層に学ぶ何がありますか? あなたは学ぶものがあると決めてかかっています。あなたは実際に意識的心の動きに気づいていますか? どんなふうにそれはカチカチ動いていますか? その反応はどんなですか? 意識的心への気づきがありますか? いかに途方もなくこれが難しいか見出してください。心はこの全部の運動を非常に綿密に見守らなければなりません。無意識には多くのものがあるとあなたは言います。それは専門家がみんな言っていることです―ありますか? 意識的なものをより深い層から分離するやいなや、疑問が起きます。どうやってこの表面の心は、もう一方のものを調べればいいのでしょうか? まったく分離がないなら、それは全体的運動であり、その中でひとは断片的運動に気づいているだけです。この断片的運動が無意識の内容は何か?と尋ねます。それが全体的運動であるなら、あなたはこの質問を尋ねようとはしないでしょう。話し手はこのことを明確にしているでしょうか? よく確かめてください、言葉の上でなくて実際に。

 意識を断片に分けるやいなや、一つの断片が「ほかの断片はどんなだろうか?」と言います。しかしそれが全体の運動であるなら、そのとき、断片化はなく、したがって質問は起きません。これを見出すことが本当に重要です。そのときあなたはすべての専門家を超えます。あなたは意識を全体として見ますか、それともほかの断片を調べる一つの断片で見るのでしょうか? それを部分的に見るのか、それとも、流れている河のように、全体的な運動として包括的に見るのでしょうか? 土手に沿って溝を掘り、それを河と呼ぶことができます―それは河ではありません。河には全体の運動があります。では、この運動は何ですか? どうやって人は断片化しないで観察すればいいのでしょうか?

質問者: すみませんが、話していいでしょうか? あなたは無意識の心について話しますが、しかし無意識の心があるでしょうか? ない何かについて話すことはできません。しかし私たちは意識について話すことができます。どうか意識と無意識を定義してください。質問はこうです。私たちは今無意識ですか?

クリシュナムルティ: 私たちはこの質問をもっと前に尋ねました。私たちは意識の未開の領域に気づいているでしょうか? あるいは意識を構成する多くの断片に気づいているでしょうか? 一つの断片が多くのほかの断片に気づくのでしょうか? あるいはあなたは、何の分離もなしに、意識の全体の運動に気づいているのでしょうか?

質問者: 両方のやり方が意識です。知的に私たちは自分自身を部分に分けています。

クリシュナムルティ: どうか私たちは分析しているのではないのをわかってください。分析があるところ、分析者と分析されるものがあります―分析の権威に就任して、ほかの部分を調べている一つの断片。そしてこの分離のなかに意識と無意識が起きます。そこで私たちは質問をします。意識的な心は無意識を調べることが出来るでしょうか?―それは、意識的な心は残りのものから分離しているということを意味します。この誤った質問に基づいて、夢を通じて、種々の形のほのめかしや暗示を通じて、これに答えることができると私たちは言います。すべては表面の心はほかから切り離されているという誤った仮定から起きており、それは私たちが一度も全体として意識の運動を見たり、感じたり、学んだりしたことがないのを意味します。あなたがそうするなら、この質問はまったく起こりません。あなたがこれが見えるかどうか私はわかりません。

質問者: 明らかにある人々は神経症を、その起源を知ることなしに悩んでいます。それは無意識の中にあるのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは神経症を悩んでいますか? すみませんが、これは愚かな質問ではありません。あなたは、あなたが何らかの形で神経症であるということに気づいていますか?

質問者: 神経症であるかどうかを誰が決定するのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたが神経症であるとき、あなたはわからないでしょうか? あなたは神経症だと、誰かがあなたに言うようになったのでしょうか? どうかこれをよく聞いてください。何かの断片の何かの誇張があるとき、そのとき神経症が起きます。あなたが高度に知的であるとき、それは神経症の一形態です。高度の知識人は大いに尊敬されるのですが。特定の信念にしがみつくこと、キリスト教徒、仏教徒、共産主義者、どんな信念であれそれへの愛着は神経症の一形態です。あなた、それを見てください。ゆっくり行きましょう。あなたの質問にしがみついてください。どんな恐怖も神経症の一形態です。どんな順応も恐怖の一形態です。あなた自身とほかの何かとのどんな形の比較も神経症にかかっているのです。このどれかをしていませんか?

質問者: はい(しています)。

クリシュナムルティ: したがって、あなたは神経症にかかっているのです!(笑い) いえ、いえ、どうか あなた、これは非常にまじめなことなのです。私たちはこのことからある事を学びました。私たちが見るような意識の全体―それは多くの断片を含んでいます―のどんな断片のどんな誇張、どんな断片のどんな強調も神経症の一形態です。あなた、それをハートの中に収めてください。それを感じてください。動いてください。時間を掛けてください。それに巻き込まれてください。それをあなた自身に応用してください。そうすれば次の問題が見えるでしょう。

 私たちがそうであるように、私たちは意識を分割してしまいました。この分離の中に多くの断片、多くの部分があります。知性、情緒などなど。そしてその部分のどんな強調も神経症です。それは、断片を強調する心は明確に見ることができないという事を意味します。したがって断片の強調は混乱を引き起こします。私はあなたに、あなたの中に断片化がないかどうか、あなた自身で見るように頼んでいます。一つの事、その論点、その問題を強調し、ほかの断片を無視するその断片化は、葛藤だけではなくて大きな混乱につながります。なぜなら各断片が表現を要求し、各々が強調を要求するからです。そしてあなたが一つを強調するとき、ほかのものは騒ぎ立てています。この不平の叫びが混乱であり、その混乱から神経症の衝動、成就しよう、成ろう、達成しようというあらゆる形の欲望が生じます。

質問者: 時おり、悩むものが明らかなものではありません。誰かが広場を横切ることを好まないなら、彼が脅えているのは明らかに広場ではありません。あるいは、一人でいることを恐れるなら、それは恐怖を引き起こしている無意識の中の何かかもしれません。

クリシュナムルティ: ええ。神経症はただの症状です。原因は無意識にあることもあるでしょう。明らかに、これはそうであり得るし、多分そうでしょう。それで問題は何でしょうか?

質問者: それが神経症です。

クリシュナムルティ: 私たちがこの全体構造を理解したとき、そのとき特定のものを調べることができます。しかし特定のもので始めることは何処へもつながらないでしょう。断片のどんな強調も神経症の一形態であるということがわかりますか? 知性的なもの、感情的なもの、肉体的なもの、心身相関的なものがあります。私たちはたいてい、多くの断片の一つの相に重点を置きます。その誇張から、その不調和から、不調和のほかの要素が生じます。「通りを横切れない」とか「暗がりが恐い」というような。そして説明は子供のときに母が私を適切に扱わなかったということです!

 今、私たちの問題は私が通りを横切れない理由ではありません。意識の断片化を理解するなら、私は分析医に行かないでそれに答えるでしょう。それを理解してしまうやいなや、そのとき通りを横切る問題は少しも存在しません。私たちはお互いに触れ合っているでしょうか? より大きなもの、全体、広大なものを見るとき、小さなほうのものは消えます。しかし、小さなものを強調し続けるなら、そのとき、小さなものはそれ自体の小さな問題をもたらします。

質問者: しかし、意識の全体を見ることをあなたが話すとき、「見ること」とはどういう意味でしょうか? 例えば、時には私は何かがわかりますが、どうやってそれがわかるか私はわかりません。

クリシュナムルティ: いいえ、あなた、ただ見てください。あの河の動きを全体的に聞いていますか? ただそれをしてください、あなた。推測しないでください。あの河を聞き、どんな方向へのどんな運動もなしに、完全に聞いているかどうかを見出してください。そのとき聞いた後で、あなたはどう思いますか?

質問者: その中で認識が何もしていません。

クリシュナムルティ: そのとおりです。その中で認識が何もしていません。あなたは「あれは私が聞いている河だ」とは言いません。流れを聞いている実体としてのあなたもありません。ただ音を聞いていることだけがあります。あなたは「それが河であることを知っている」とは言いません。そこで戻りましょう。私はそれほどこれを調べたいのです。どうか、一緒に動きましょう。

質問者: 断片の強調は神経症の本質でしょうか? それともそれは症状でしょうか?

クリシュナムルティ: それは本質そのものであり、そして症状です。

質問者: 知的であることは症状であるのみならず本質でもあるのでしょうか?

クリシュナムルティ: そうではないでしょうか? 見てください、あなた。私は私の知的能力を強調します。私はそれは素晴らしいと思います。私は誰をも議論で打ち負かすことができます。私は非常に多く読んでおり、読んだものすべてを相互に関係させることができます。そして私は驚くほど賢明な本を書きます。そのことは私の神経症のまさに原因であり、症状ではないでしょうか?

質問者: それは私たちのより深い妨害の症状であるように思われます。

クリシュナムルティ: そうでしょうか? あなたはそれは原因ではなく、症状であると言っているのですよ。私は言います、どうか見てください。心は全体であり分割されていないのでしょうか、したがって原因と結果は同じなのでしょうか? それを見てください、あなた。原因であったことが結果になり、結果が次の運動の原因になります。原因と結果の間に明確な区別はありません。昨日原因であったことは結果になりました。そして今日の結果は明日原因になります。それは運動です。それは鎖です。

質問者: しかし、原因と結果をただ見るよりはむしろ、この全体の過程を見ることが不可欠なのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: それが私たちがしていることです。そしてあなたが知性、感情、肉体、精神性などなどを強調するなら、それはできません。

 そこで私の質問は、それは最初の質問でしたが、こうです。なぜ私たちは心を分離してしまったのでしょうか? それは人為的なのでしょうか、それとも必要なのでしょうか? それは私たちが虜になってしまった専門家のただの発明であって、私たちが多くのものをとても容易に受け入れるように、それを受れ入れてしまったのでしょうか? 私たちは「たくさんの人々がこう言う」と言い、それをうのみにし、それを繰り返して言います。しかし、私たちが断片化を、そしてこの断片化の強調を見るとき、そしてそれから原因-結果の鎖が生じ、それは神経症の一形態であることを見るとき、そのとき、心は動きの全体を分離なしに見ます。ところであなた、あなたはそれが見えますか?

質問者: 断片との同一化がないときに。

クリシュナムルティ: ええ。あなたが断片のどれか一つと同一化するなら、明らかにそれは同じ過程です。すなわち、一つのものと同一化し、そして残りを無視する過程は神経症の一形態、矛盾です。さて、次の質問をしましょう。あなたは残りの断片と同一化できますか? あなた、多くのほかの断片と同一化している断片。私たちがもてあそんでいるこの同一化の問題のごまかしが見えますか?

質問者: 一つの断片との同一化の後で、そのことを言うことができるだけです。なぜなら、そのとき私は不完全であると感じるので...

クリシュナムルティ: そのとおりです。あなたは不完全であると感じます。したがって多くのほかの断片と同一化しようとするのです。さて、多くのものと同一化しようとしている実体は誰でしょうか? それは断片の一つです。したがってそれはごまかしなのです―おわかりですか? そして私たちはこれをいつもやっているのです。「私は同一化しなければならない」。

質問者: より完全であるように多くの断片と同一化するほうがよりよくはないでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ、よりよくはありません。見てください、あなた、最初にそれをもう一度私に説明させてください。多くの断片があり、私はそれなのです。断片の一つが単独の断片と同一化することは混乱を引き起こすと言います。そこでそれは「私は多くのほかの断片と同一化しよう」と言います。そしてそれは多くの断片と同一化するためにものすごい努力をします。多くの断片と同一化しようとするこの実体は誰でしょうか? それもまた断片ではないでしょうか? したがってそれはただゲームを自分でやっているだけです。これはそんなにも簡単です! さて、進みましょう。このことの中には非常に多くがあります。私たちはそのすべてのまさに表面にとどまっているだけなのです。

 私たちは実際の分離は少しもないのを見ます。私はそれを言葉の上でなく見ます。私は観察者はそれ自身を残りの断片から切り離して観察している断片であると感じます。その観察の中には、観察者と観察されるものとして、分離があります。葛藤があります。混乱があります。心がこの断片化とそれ自身を切り離すことの無益さを理解するとき、そのときそれは運動を全体として見ます。これをすることができないなら、とても次の質問をすることはできません。それはこうです。意識を超えているものは何か? 下に、上に、そばにあるものは何か?―それをどう述べるかは重要ではありません。

 それゆえ真剣であるなら、意識が何であるのか、意識していることに何時気づくのかを見出さなければなりません。私の質問がわかりますか? 私は仕事をすべてやっています! あなた、見てください。あなたはこのすべてを学ばなければなりません。そして学ぶとき、あなたは他の人が学ぶのを助けます。そこでいま学びましょう、後生ですから! それはあなたの使命です。私たちは尋ねています。意識と言われるこのものは何でしょうか? 何時「私は意識している」と言いますか?

質問者: 思考があるとき。

クリシュナムルティ: もっと近づいてください。

質問者: 二重性があるとき、

クリシュナムルティ: どういう意味ですか? もっと接近してください。あなたはあまりに遠く離れ始めています。

質問者: 断片化しているとき。

クリシュナムルティ: あなた、ちょっと聞いてください。いったい何時、意識していることに気づいていますか? これはそんなに難しいですか?

質問者: 私が苦しんでいるとき。

クリシュナムルティ: ご婦人が示唆しています。苦痛があるとき、葛藤があるとき、問題を持っているとき、抵抗しているとき、意識します。さもなければ、円滑に、平らに、調子よく流れています。何の矛盾もなく生きていて、いったい意識するでしょうか? 最高に幸福なとき、あなたは意識しますか?

質問者: はい。

クリシュナムルティ: はい?

質問者: その「意識する」という言葉はどういうことですか?

クリシュナムルティ: 私に尋ねる必要はありません。見出しましょう。幸福であることを意識する瞬間、幸福はあるでしょうか? 「なんて嬉しいんだ」という瞬間、それは既にあなたから去っています。いったいそう言えるでしょうか?

質問者: 次にそれを意識します。

クリシュナムルティ: それは過去です! それゆえ、起きてしまった何かを意識するだけなのです。あるいは、何かの葛藤、何かの苦痛があるとき、混乱しているという現実の気づきがあるとき。この動きの中のどんな妨害も意識するに違いありません。そして私たちの生はすべて妨害であり、それに対し私たちは抵抗しているのです。もしも生の中にまったく不一致がないなら、「私は意識している」と言うでしょうか? 何の摩擦もなしに、何の抵抗もなしに、何の戦いもなしに、歩き、動き、生きているとき、「私は…である」と言いません。それは「私は成るのだ」とか「私は…であるのだ」と言うときだけです。そのときあなたは意識しています。

質問者: あなたが話しているこの状態はなお木と同一化の過程ではないでしょうか...

クリシュナムルティ: いいえあなた。私は同一化を説明しました。私が木を見るとき、それを女の人や教会と間違えません。それは木です。そのことは同一化を意味しません。見てください、あなた、私たちはあることを発見しました。あることを学びました。「成ること」、あるいは「何かであろう」と努めることがある時にのみ意識があります。成ることは葛藤-「私は…でありたい」を意味します。それは、心が動詞、「である」に捉えられている限り葛藤が存在する事を意味します―どうかそのことを見てください。私たちの文化全体がその言葉「である」に基づいています。「私は成功者でありたい」、「私は失敗者だ」、「私は達成しなければならない」、「この本は私のだ。それは世界を変えようとしている」。わかりますか? 成るという動きがある限り、葛藤があり、その葛藤は心を、それが意識していることに気づかせます。あるいは心は「「私は善良であらねばならない」と言います―「私は善良であろう」ではなく。善良である。それもまた抵抗の一形態です-善良であること。であることと成ることは同じことです。

質問者: 葛藤を意識することが出来るでしょうか?

クリシュナムルティ: もちろん、あなた。そうでなければ、意識しないでしょう。

質問者: 葛藤の中にいるのがわからないほど葛藤に巻き込まれることはあり得ないでしょうか?

クリシュナムルティ: もちろん、それは神経症の一形態です。あなた、見てください。今までに精神病院に行ったことがありますか、どなたか? 私はそこに患者としていたのではありませんが、分析医に連れていってもらいました。すべての患者は、最上階から、そこにはもっとも暴力的な人たちが収監されています、下がって患者が多少ともおとなしい最も下の階まで彼らはすべて葛藤の中にいます―誇張された葛藤―わかりますか? ただ、彼らは建物の中にいて私たちは外にいるだけです―それがすべてです。

質問者: 私は意識することと気づきとを識別しようとしているのですが。

クリシュナムルティ: 両方とも同じです。気づいていることは分離に気づくことを含みます。分離と選択なしに気づいていることは、成ることや、何かである運動に捉えられることではありません。わかりましたか? 意識の全運動は成ることか、何かであることのどちらかです。有名になる、社会事業家になる、世界を助ける。断片化を見てから、一つの全体としての意識の運動を見てから、この全運動がそれ、「成る」、あるいは「である」、に基づいていることを見出します。あなたはそれを学んだのです、あなた―私に同意することによってではなしに。

 そのときあなたはまったく違う質問を尋ねます。それはこうです。この「成ること」と「であること」の運動の向こうに、何があるのでしょうか? あなたはその質問を尋ねていません。しかし私はそれを尋ねています。私の質問がわかりますか、あなた? 分析と哲学的見地の両方から この意識の問題を見て、「成ること」や「であること」を通して分離がつくり出されるということを 私はよく理解しました。私はヒンドゥー教徒でありたいと思います。なぜならそれは外部の成功のみならず、精神的な達成もまた私に約束するからです。私がそれを拒否するとしても、私はほかの何かで「なければ」ならないと言います。すなわち、私は「私自身であろう」とします。私自身と同一化しようとします。再びこれは同じ過程です。それで私は観察します。意識の全部の運動は何かである、何かになる、「何かでない」、「何かにならない」というこの運動であるということを私は見ます。さて、どんなふうに私はこれを見るのでしょうか? 私はそれを私自身の外部にある何かとして見るのでしょうか? それとも、「成ること」と「成らないこと」を観察する「私」としての中心なしにそれを見るのでしょうか? 私の質問を理解しましたか? いいえ、私はそう思いません。

 私はすべての意識はこの運動であるということを理解します。「私はそれを理解する」と言うとき、私の前に広がる、壁に掛かっている絵を見るように、私の外部に見えた何かとしてそれを理解しているのでしょうか、それとも、私はこの運動を私の一部として、私の本質そのものとして見ているのでしょうか? 私はこの運動を中心から見ているのでしょうか? それともそれを中心なしに見ているのでしょうか? 私がそれを中心から見ているなら、その中心は自己、「私」であり、それは断片化の本質そのものです。したがって中心からの観察があるとき、私はただこの運動を断片として、私が理解しなければならない、把握しようとしなければならない、それと苦闘しなければならない等々の、私の外部の何かとして観察しているだけです。しかし中心がないなら、それは「私」がなくて 単にこの運動全体の観察があるにすぎない事を意味しますが、そのときその観察は次の質問につながります。それで、あなたがしているのはどちらでしょうか?

 すみませんが、これはグループ療法ではありません。これは週末の娯楽ではありません。これは「どうやって敏感になるか」とか「どうやって創造的な生を学ぶか」というような、あなたが誰かから習いに行くことではありません。そのすべてを脇に置いてください。これは骨の折れる仕事です。これは深い探求を必要とします。さて、あなたはどんなふうに観察していますか? あなたがこれを理解しないなら、生は拷問に、戦場になります。その戦場で、あなたは大砲を改良することを望みます。兄弟の間柄をもたらすことを望み、それなのに孤立を守ります。私たちはそのゲームをとても長い間遊んでいます! したがって、あなたが実際に心から真剣であるなら、この質問に答えなければなりません。あなたは意識のこの運動全体を、私たちがそれを見たように、外部のものとして、見守っているものと無関係に見守っているのでしょうか? それとも、そこからあなたが見守っている中心がまったくないのでしょうか? そしてそのように見守っているとき、何が起こりますか?

 少々横に寄っていいでしょうか? あなた方はみんな、たくさん夢を見るのではないでしょうか? 今までに理由を尋ねたことがありますか? どうやって夢を解釈するかではなく。それは見当違いの質問であり、やがて私たちはそれに答えるでしょう。しかし、あなたはいままでに適切な質問をしたことがありますか? それはこうです。何故私たちは夢を見るのでしょうか?

質問者: 私たちは葛藤の中にあるからです。

クリシュナムルティ: いいえ あなた、そんなに早くしないでください。それを見てください。なぜあなたは夢を見るのでしょうか? 次の質問はこうです。まったく何の夢もない眠りがあるでしょうか? 「はい」と言わないでください、あなた。

 あなた方は皆夢を見ます。それらの夢は何なのでしょうか、なぜあなたは夢を見るのでしょうか? 先日言ったように、夢は日常の活動の継続している運動です。象徴化され、種々の範疇に入れられますが、それは同じ運動です。それはそうではないでしょうか? 同意や不同意をしないでください。見出してください! それはとても明白です。夢が日常の活動の継続している運動であるなら、そのとき、絶えず続く活動、絶えず続くおしゃべりがあるなら、何が脳に起こるでしょうか?

質問者: それは少しも休みません。

クリシュナムルティ: それに何が起こりますか?

質問者: それは疲れ果てます。それは擦り切れてしまいます。

クリシュナムルティ: それはそれ自身を擦り切ってしまいます。休みがありません。何も新鮮に見ることがありません。脳はそれ自身を若くしません。眠っている間も脳の中で続いている 日常の活動の継続する運動があるとき、これらのことすべてが含まれています。あなたは未来に起こるかもしれないことを予言するかもしれません。なぜなら、あなたが眠っている間に少しは多くの敏感さ、知覚などなどがあるからです。しかしそれは同じ運動です。さて、昼間の間続くこの運動は、昼間と共に終わることができるでしょうか? 眠っているときにまで持ち越されないで? すなわち、寝るときに全部のことが済まされているのです。まだ私の質問に答えないでください。私たちはそのことを調べようとしています。

 あなたが寝るときに、昼間の間にしたことを吟味するということが、起こらないですか? それともあなたはただばったりとベッドに倒れ込んで寝るだけですか? 一日を振り返って、これはすべきだった、これはすべきでなかったと言いませんか? そしてこれやあれの意味を自問しませんか? これを非常に注意深く追ってください。あなたは秩序をもたらしています。脳は秩序を要求します。さもないと、それは効果的に機能できないからです。夢を見るなら、日常の活動の運動が眠っている間も続くなら、秩序はありません。脳が秩序を要求するので、眠っている間に脳は本能的に秩序をもたらします。少しは多くの秩序を持ったので、あなたは少しは新鮮に目覚めます。何かの形の葛藤、何かの形の無秩序があるなら、脳は効率的に機能できません。

質問者: 違う種類の情報が送られる、ほかの種類の夢がないでしょうか?

クリシュナムルティ: まずこれを聞いてください。秩序を理解してください。日常生活の運動は睡眠を通して続きます。なぜならこの毎日の運動のなかに矛盾があるから、無秩序、不調和があるからです。そして睡眠の間、夢を通して、種々の形の夢でないものを通して、脳はそれ自身の混乱の中に秩序をもたらそうとします。昼間の間に秩序を整えるなら、脳は睡眠の間に物事を整理する必要がありません。このことの重要性を見てください。したがって脳は休み、静まり、生き生きとし、新鮮になります。あなたが気づいているかどうか知りませんが、あなたに問題があるとき、一日中それを考え続け、そしてそれはなお夜中続き、それを悩み、次の朝問題に疲れて目を覚まします。そして次の日一日中、あなたはなおも、犬が骨をかむように、その問題を悩みます。あなたは一日中それをやっており、そのうえベッドに行くときまたやります。脳が疲れ果てるまで。それからたぶん、その疲労困憊の中で新鮮に何かを見ます。

 私たちが今言っていることはまったく違うことです。それはこれです。問題をそれが起こる都度済ますこと。それを翌日や次の瞬間に持ち越すのではなく―それを済ましなさい! 誰かがあなたを侮辱した、傷つけた―それを済ましなさい! 誰かがあなたをだました、誰かがあなたについて不親切なことを言った。それを見なさい。それを持ちこさないこと。それを重荷として担わないこと。それが言われたときにそれを済ますこと。後ではなく。

 無秩序は脳の神経症の状態であり、ある精神状態をつくることによって終わります。秩序は、問題が起こるとき問題が終る事を意味します。それゆえ夜を通しての昼間の運動は終り、夢はありません。なぜならあなたが動いているとき、あらゆる事を解決してしまったからです。あなたがこのことの重要性を見るかどうかわかりません。なぜなら、そのときにあなたは次の質問をすることが出来るからです。それはこうです。このすべての向こうにあるものは何か? 明日そのことを取り扱いましょう。

1970年8月7日

訳者注: この公開対話は6回目に行われたもので、5回目が抜けていますが、それは5回目が若い人との対話として行われたためです。一般向けの対話としては別に抜けているわけではありませんので、その点ご理解ください。

(訳者: N.Goto)'99.01.-'99.02.掲載 '99.02.01修正

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